箕面出身の三島海雲さんのお話の最終章です。
企業について考えるいいきっかけになりました。

 海雲がカルピスの広告を行なう信念としてあげたことが、「企業が安定し成長していくことは、一般大衆のおかげであり、その大衆の好意に対して、企業としては当然報いなければならない。その一つの方法として大衆のためになる広告というものを考え、実行する」ことでした。

 1923(大正12)年45歳の時に、社名を「カルピス製造株式会社」に変更、商品名と会社名とを一致させました。また、メセナのさきがけとして1922(大正11)年44歳の時、第1次世界大戦後のインフレに悩まされていたドイツの芸術家を救おうと、ドイツでカルピスのポスターを募集しています。
 
 海雲は、約1500点の応募作を関東大震災後の東京三越や大阪の心斎橋の商店街で展示、大きな反響を呼びました。さらに、3位入選だった画家 オットー・デュンケル氏のストローでカルピスを飲む黒人男性のデザインをシンボルマークに使いました。
このハイカラなデザインは評判になり、以後1990年に使用を中止するまで、カルピスのシンボルマークとしてとして人々に親しまれたのです。
私も小さい頃はこのマークがとっても不思議で、にっこりとした黒人男性が飲んでいる姿、「ちびくろさんぼ」君が大きくなった姿だと勝手に信じていました。(笑)
 
 そして、もう一つ。
923(大正13)年91日に関東地方を襲った関東大震災。焼け野原と化した東京で飲み水を求める人々に、本社(渋谷区恵比寿)にいて大きな被災を免れた海雲は、冷たい「カルピス」を配って歩きました。
当時の状況を海雲はこう語っています。
 
 『カルピスの本社のある山手方面は水が出たので、飲み水に困っている人々に水を配ってあげようと考えた。
 そのとき、せっかく飲み水を配るのであれば、それに「カルピス」を入れ、氷を入れておいしく配ってあげようと考えた。
 いまこそ、日頃の愛顧にこたえるときだと思ったからである。幸いなことに、工場には「カルピス」の原液がビヤ樽で十数本あった。これを水で6倍に薄め、それに氷を入れて冷やして配ることにした。金庫のあり金2千円を全部出して、この費用にあてた。
 さて、配る方法である。そのころ、トラックは1180円でチャーターできた。しかし震災のあとだけに、車は逼迫していたが、何とか4台のトラックをかき集めてきた。
 そして、翌日の92日から東京市内を配って回った。私たちのカルピスキャラバン隊は、いたるところで大歓迎を受けた。上野公園に避難していた人々などが、黒山を築いて私たちを迎えてくれた。』
 
  財を投じて結成したカルピスキャラバン隊が手ずから配った一杯の「カルピス」は多くの人々に生きる力を与えました。
 これは今回の東日本大震災の時企業の「被災地の人道的な支援」と「早急な対応」が企業の印象を良くしているといデータにも出ているように、大衆の信頼はカルピスと海雲へ期待をする事になります。この結果は業績にも著しくみられるようになりました。
 
 カルピスはその後も伸び続け、発売5年目の1924(大正13)年46歳の時には初年度の15倍の売上、150万円を記録したのです。(今の120億円ほどです)
 
 海雲は後に「海雲は宣伝の天才だ、と評されることがあるが、私は天才でもなんでもない。ただ人が宣伝・広告の効果をあまり重要視していなかったときに、私はカルピスに真剣に取り組み、あたかも私の心身がカルピスに対する情熱で、"火の玉"とも見えるように行動したに過ぎない」と語っています。
 
 しかしながら「初恋の味」は戦争の時代に苦しい時代を迎えます。昭和に入ってから、不況や、戦争の激化による物価統制、砂糖不足などに苦しみ、海雲自身も爆風により呼吸器を悪くし、戦後は経営の一線から退きました。
 
 1956(昭和31)年78歳の時、海雲は社長に復帰、平和の時代と共にカルピスは勢いを取り戻します。現在では、『心とからだの健康』をコンセプトに、幅広く展開、飲料・食品業界の一角を担っています。
 海雲は、「カルピス」の本質は、おいしいこと滋養になること安心感のあること経済的であること4つだと言っていたことがずっと守られているのですね。 
三島は国民的な飲料カルピスがが半世紀を経たのを見届けたかのように1974年96歳で逝去しました。 
 
 三島海雲のことば、
「 事業は金がなければできないが、
正しい確たる信念で裏づけられた事業には、必ず金は自然に集まってくる」
 
 これを語るにふさわしエピソードがあります。
 
「三島さんは何事によらず、こうしようと思ったことには熱心だ。
それが人の心を打つ。それからすこぶる正直である。
それでは人は三島さんを応援したくなる。一言でいえば三島さんの人徳ということです。」
当社創業時の社員であり、後に日本石油(株)社長となった栗田淳一はこう語っています。
 
 各分野の一流の人物との親交のあった海雲は、すべてのことに関して、常にその分野の専門家の意見を聞くことを信条としていました。
人の意見を拝聴できる人、少なくなりましたよね。
 
 あの紅葉を海雲も見たのでしょうか・・・。
 そんなことを思いながら、色づき始めた紅葉をながめていました。

今回は長いお話、おつきあいくださいましてありがとうございます。