ゲド戦記Ⅱ こわれた腕環 | 翡翠のブログ

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ル・グウィンの「ゲド戦記Ⅱ こわれた腕環」を再読しました。

 

前回、ゲド戦記 影との戦いを読んで、続きも読もうとは思っていたのですが、思ったより間が開いてしまいました。

 

シリーズの中では好きだった巻のはずで、今回、読み返してもとても面白かった。特に思い出して嬉しかったのが表紙の見返し見開きの墓所の地図です。子どものころ読んで、この地図がすごく好きで、自分でも迷路のようなものを書いたり想像したりしていました。Ⅰのアースシーの内海の地図も大好きでしたし、二年間の休暇(十五少年漂流記)の島の地図も大好きでした。ワクワクします。

 

一方で忘れいた部分もありましたし、子どものころに呼んだのとは印象の変わった部分もありました。いかにもファンタジーの王道、ダンジョンで魔法の宝を見つけるという印象で覚えていて、それ自体に間違いは無かったのですが、それ以外に今読むと感じたり、考えたりするところがありました。

 

1.名前と本質

Ⅰの影との戦いでも、名前の重要性は繰り返し触れられていて、アースシー世界の魔法の本質は、真の名を知ることですし、影との戦いも、影の真の名を見つけ、受け入れることにありました。

今回もまた、名前を奪われることで子ども時代の想いでも家族も奪われ、闇の者に仕える墓所の巫女、「喰らわれし者 アルハ」となり、それがゲドと出会い、「テナー」という名前を取り戻すことで、アイデンティティーをも取り戻すという流れから、名前と人の本質、自我との強い結びつきが描かれているように思います。ゴダイゴの歌「ビューティフルネーム」の「一人に一つずつ、すべての子どもは美しい名前を持つ」が思い出されましたし、「千と千尋」「イティハーサ」なども連想しました。さらに、日本の夫婦同姓、別姓も連想されました。

 

ゲドにより名前を見つけられ、取り上げられ無くし忘れていた名前を取り戻したのではありますが、それをゲドが見つけることができたのは、テナーが無くしきっていなかったから、テナーの本質に自我、意思が残っていたからこそ気が付き、だからこそ最初の出会いで、ゲドとテナーがひかれあい、信頼しあったようにも思います。

 

2.信仰と宗教

今回、読み返してみて、思っていた以上に信仰や宗教についても描かれていたことを面白く思いました。神殿が政治的に大王には、もうあまり信じられておらず、むしろ大きな力を持たないよう邪魔に思われている、結果、巫女たちも、ある程度の恐れは持ちつつ、心からは信仰していないという描写があることに今回気づきました。

 

墓所に闇の力は実際あり、力あるゲドなので、そこで持ちこたえていた、闇の力は恐ろしい力であるけれど、神ではないとゲドはテナーに言います。一方で、ゲドは神自体は否定していないようにも思われます。信じることが宗教であり、信仰する心が神を作ると私は思っているのですが、ル・グィンは宗教や信仰をどう思っていたのだろう?。

 

3.奴隷と自由

人が奴隷になるということについて、ゲドがテナーに言った「あんたは奴隷となるように仕込まれた。だが、あんたはそれから抜け出したんだ。」という言葉が印象的でした。言葉により、教育により人は奴隷にもなる、人が役割に固定される。たとえばそれは、男らしさ、女らしさといった性差の思い込みの押し付けなども連想されました。

 

同時にゲドが言った「ひとりでは、誰も自由になれないんだ」という言葉もまた印象的でした。人が不自由になる、自由でなくなるのも、人によってさせられると思うのですが、自由になるにも人が必要という言葉には、希望が感じられます。

 

今回も読書会が再読の機会になったのですが、読んでおもったことを一緒に話し、聴き、考えることで、考えが深まり、新しく気づきました。次回の回に向けて、3巻も読もうと思います。