読んだ本のメモ。
齋藤淳 アメリカの大学生が学んでいる本物の教養
タイトルは、少し手に取るのをためらう。「本物の」とわざわざ付けるところが。「教養」ではないものはあると思うけれど、「教養」に本物とそうでないものは無いと、正直なところ思うので。ただ言わんとすること、何をもって「本物」か、そうでないと言っているかは、書かれているので、わからないではありません。
内容は、「全く初めて知った!」ということ、ものではないです。アメリカのなっているけれど、日本の大学でも、こういったことは「基礎セミナー」などで伝えられていると思うし、書かれているようなスタンスで開講されている授業もあるように思います。ただ、実際にそれが全て日々活かされているかというと、そうでもなかったりするので、学びの姿勢を振り返るには良いように思いました。
メモった部分。
第1章 教養人としての学びの姿勢から、
「たとえば歴史の授業において、起こった史実を確認するHOWではなく、「なぜ起こったのか」「自分はどう考えるか」「今、それについて考えることが、自分や社会にとってどのような意義があるのか」(p.31)や、「出発点として考え、文献を読み解き、議論を交わすというのは、知識の生産を体験すること」(p.33)は、きちんとそうしていないなあとの反省をこめてメモ。「HOW]だけを問う方が「WHY」を掘り下げるより簡単だから、そちらに流れて終わりがちです。
第2章 正解のない世界を生きる思考の方法から、
「結果からデータを見てしまう『選択バイアス』が働いているところでは、実は何も明らかにしたことになりません」も、知っていはいても、バイアスかかったまま観てしまっているかもとの自戒からメモ。統計の嘘、といった本なども出ていますものね。
第3章 本を読む、から、
「日本語で流れてくる情報の多くは周回遅れで、かつ多分に間違っている可能性もある」「(著者が)主にチェックしているのはCNNやBBC」(p.125)も、当然のことなのに、楽に流れて海外版ニュースなんて全然確認してないなと思ったのでメモ。挙がっている媒体はネット上のデジタルデータだろうから、「紙の本」というメディアは今後、消えそうには思います。
第4章 自分の意見をつくる、から、
「日本の子どもたちは『管理しやすいように』という教師側の都合により、意見をもったり、意見を表明したりする訓練を受ける機会に乏しい」(p.144)。ちょうど、先日、教育現場での残念な教育についてSNSで読んだばかりだったので、ドキとする章でした。
この章では、具体的な方法も挙げられていて、「自分が正しいと考えることと、正反対の意見の両方に理由づけを」という辺りは、ディベートの在り方、とも重なるように思えます。
といった感じで各章にピピっとくる場面もあったので、読んだかいはありましたし、今、大学生でまさしくの場にある次男坊にも貸してみようかなと思っています。