沼野雄司『トーキョー・シンコペーション: 音楽表現の現在』 | 翡翠のブログ

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先日読んだ沼野雄司『トーキョー・シンコペーション: 音楽表現の現在』、著者の方がゲストでトークしてくださる読書会があったので、再読して参加しました。

 

先日、読んだ時にも音楽について、音楽以外の美術、映画、小説など様々なメディアとクロスして評論してくださっている点がとてもイメージがふくらみやすく面白いと思ったのですが、その際には取り上げられている音楽を聴くところまでいけなかったので、今回は、初回の感想に加え、少し追加で見聞きして読み返しました。

 

◆第1章 音楽の視覚性/視覚の音楽性

この章は、音楽鑑賞、音楽の楽しみが聴くだけではないことについて、ライブや演奏会に行く意味から考えられて面白かったのですが、それに加えて、今回は音楽と観ることをミックスしたものとして紹介されていたこれらを視聴。

 

クリスチャン・マークレーの東京都現代微絨t館での展覧会「トランスレーディング 翻訳する」。

 

 

こういうものを観ると、やはり現代アートは事前に背景等を知っているかどうかは大きいなあと。そのまま行っていたら、並んでいる「モノ」をフーンと流し見しそうな気がします。

 

◆第2章 イメージからノスタルジーへ

オペラ「夕鶴」は観たことがあったけれど、「海辺のアインシュタイン」は観たことがなく、周りの感想評価を聴いて、観に行くべきだったと悔やんでいました。これも、ただ知らないまま観に行っていたら楽しめたか疑問。音が単調ではあるので。しかし、確かに音の重なりの面白さ、「イメージが重なりあう多層性、立体性」はあるように感じました。一方「夕鶴」も観て良かった、楽しめた作品なのですが、確かに比べてみると、物語を楽しむ劇とも思う。海辺のアインシュタインは物語性を排除して、音楽と身体の動きと想像力への働きかけを追求したのかなあ。子どもの演出は、以前に観たMETのリングシリーズや、ベルクのヴォツェックの演出が思い出されました。

 

◆第4章 沈黙ぎらい

「最後の小節に「死に絶えるように」と記してあるマーラーの交響曲第9番でも、響きが消えたあと、せいぜい四分休符を挟んだくらいのタイミングで棒をおろしてほしい」(p.58)はクスっと笑える。確かに指揮者によって長さが違うよう。私はどちらかというと余韻を楽しみたい方なので、1曲を思い出して閉じるくらい、じっくり余韻が欲しいくらいですが。

 

◆第5章 不器用と恩寵

この章、読んだ時には、まず坂本龍一の戦場のメリークリスマスやラストエンペラーを再視聴したくなったのですが、取り上げられていた元の「バレエ・メカニック」がすごく面白かった。

 

◆第7章 表象不可能性と音楽

前回読んだ時に最も印象深かった章の一つ。

「シンドラーのリスト」への批判の紹介と、(p.104)アドルノ「アウシュビッツの後に抒情詩を書くことができるのか」という問いかけの紹介。そして、ゲルハルト・リヒターの「ビルケナウ」。

 

リヒターは、何か気になる、惹かれるものがあって映画を観たり本んを読んだりしています。中でも実際に作品を観ることができた展覧会が一番心に残り、観に行けて良かったのですが、ビルケナウがわからないまま終わってもいました。今回の沼野さんの取り上げている評論を読み、「もう一度観たい」と思っています。

 

p.108「ホロコーストのような究極の悲劇を前にしたときには、その「測定機器」さえもが破壊されてしまう」(ジャン=フランソワ・リオタール」、p.108「限界に位置する事件を文学的に表象しようとする行為は、文学という伝統的なカテゴリーそのものへの問いを内包せざるをえない」(徐京植)を紹介し、「現実の悲劇を真摯に表象しようとするならば、そこには従来の表現形式そのものに対する疑義が立ち上がるはずなのだ。そうでなければ「シンドラー」的な枠組みのなかに作品はとどまってしまう」という沼野さんの評論を念頭におきつつ、リヒターが表現しようとしたことを観たいと、今更思っています。

 

しかし「シンドラーのリスト」への批判、表現した瞬間にそれは物語化であり侵犯行為であるという意見は納得できるものの、いまだに生存者へのインタビュー9時間の「ショア Shoa」を観ることができないことを考えると、失われる前にインタビューとしてリアルを残す意義は感じるけれど、伝え残すという意味ではシンドラーのリストの意味も多大と思うし・・・。藝術が誰かの「表現」であると考えると、物語化もまた表現ではないかとも思っていたのですが。

 

取り上げられているスティーヴ・ライヒの「ディファレント・トレインズ」と合わせて考えることができて。作品で使用された音声のうち1つはホロコーストを生き延びた人たちによるもので、しかしそれをストレートに表現する代わりに、別の音声も重ね、「強調されながらも、同時にその意味をうしない音楽化されていく」手法がビルケナウに通じることが述べられています。「ディファレント・トレインズ」は以前に演奏を聴いたことがあり、そのときにも作品の意味を知って聴くことで心に感じるものがあったのですが、沼野さんの評論で、さらに表象不可能性と表現の加減から論じられていて、ライヒの「WTC 9/11」、およびルイジ・ノーノの「生命と愛の歌 第1部 広島の橋の上で」の声の中断とも比較することで一層興味深く、なるほど、と。

 

現代アートって「メッセージ」があることが重要と思いつつ、それが大きくなりすぎると、青年の主張と何が違う?とも思えていたので、なるほど、直接的に表現しない、表現しきれないものを重ねて隠して、ほのめかして、伝えるのが現代アートなのかもしれないと思いました。

 

作品の背景については知ってから聴いてこそ味わいきれると思います。同時に知ってから聴くことが前提であることへの現代音楽への批判もありえるだろうとも思います。

 

 

 

オンラインの感想会では、読んだ感想に加え、音楽評論というもの自体についての感想、音楽配信が普及した今後、評論が今後どうなっていくだろうかなど意見が出て、とても楽しい感想会でした。

 

さらに著者の沼野さんのトークでは著書の各章についての解説、補説も聴け、とても面白かったです。

また、なぜこの本を書いたのか、現在の音楽業界の現状について、音楽大学界での状況なども聴けました。現代音楽の世界に対する批判、これで良いのだろうかという強い意識、怒り、叱咤激励の意識を持って書かれたそう。音楽系の大学を出て、実際、どこにどう就職できるのか、演奏家になる以外の道や、音楽を学んだ音楽家が社会に出て、学んだ音楽を社会にどう活かせるのか、還元できるのか、社会とどうつながるのか、それを大学側、音楽業界側では考えてこなかったという批判は、実務系でないアートや教養を学ぶ大学ではどこでも同様に考えてこなかった問題に思えます。