名古屋片山能 班女・安達原 | 翡翠のブログ

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本日は名古屋能楽堂で、名古屋片山能 班女・安達原

 

演目・曲目    能「班女(はんじょ)」
能「安達原 黒頭 急進之出(あだちがはら くろがしら きゅうしんので)」

シテ方:片山九郎右衛門、青木道喜、武田邦弘、古橋正邦、味方玄、片山伸吾、分林道治、橋本光史、橋本忠樹、大江信行、大江広祐
ワキ方:殿田謙吉、則久英志、御厨誠吾
狂言方:野村又三郎、野村信朗
囃子方:竹市学、後藤嘉津幸、河村眞之介、河村裕一郎、加藤洋輝


今回の番組は、以前だったら観にいかなかったかも。予算と時間の点から、全ての公演には足を運べないし、すると定期公演が基本になるし、「安達原」は何度か観たことがあり、「班女」の優先順位はそこまでは高くなかったので。これまでに観た演目で好きなのは「夜討曾我」「葵上」「安達原」「船弁慶」や修羅物など、観たいなと思っているのは「鞍馬天狗」「烏帽子折」「土蜘蛛」など、つまりスピード感や躍動感あるもの、修羅物、刀や槍を振るうもの系が好みです。一方、三番もの、「鬘物(かつらもの・かづらもの)」とも呼ばれる美しい女性の舞は、美しいなあとは思うし、先日読んだ「風姿花伝」などの記述からも、舞う方の技量が必要な難しい上級な演目とは思うのですが、まだ完全には味わいきれない。

 

しかし、だからこそ観てみるのも良いかな?とか、何より、シテ方:片山九郎右衛門さん。今年の長良川薪能で、竹生島の弁財天を舞われるはずが、コロナの影響で中止になり、とても残念だったので。先日観た「一陽来復祈願能IN名古屋vol.1」の邯鄲も良かったし。

あと、少し前に読んだ近代能楽集に「斑女」があったし。

 

曇り空。前回、能楽堂に行ったときは、強い風のためかちょうど木が倒れて門がふさがっていたのですが、今日は入れる状態。

 

◆斑女

美濃国野上の宿(岐阜県不破郡関ヶ原町野上)の遊女、花子が吉田少将と恋に落ちる。東国に行く少将は、花子と扇を交換し別れる。少将を想い、沈む花子に宿の女主人は怒り追い出してしまう。

東国から帰った少将は宿を訪れるが、花子がおらず落胆する。京に帰った少将は、糺ノ森の下賀茂神社に参詣する。そこには偶然、花子がおり、少将の従者が狂ってみせよ(芸をしてみせよ)と声をかけ、形見の扇を手に舞い、悲嘆の様子を見せる。花子の扇が気になった少将が扇を見せるよう言う。互いに扇を確認した二人は、互いが会いたかった相手であったことを知り、喜ぶ。

 

 

対訳でたのしむ本で予習して臨みます。

源氏物語の「花宴」の巻で、源氏が朧月夜の君と取り換えて持ち帰った扇「桜の三重襲にて、濃き方に霞める月を画きて、水に映したる心ばえ」が引用され、花子の持つ扇は「月の絵」、一方少将の扇は「夕顔の花の絵」で、源氏物語の「夕顔」を表していると解説にあったので、その部分を聴き、観ることを鑑賞の目標としました。あと、和歌の引用が多いようなので、そこも。
 

前場が短く、後場も動きはもっぱら花子の舞のみ。恋心や会いたさ、切なさ、つらさを詞章と舞で表しています。奇麗だなあとは思うのですが、時々、気が遠くなってしまう・・・うとうとっと。歌舞伎の舞踏も、能の舞も、なかなかそれを楽しみ味わいきれません。狂女ものでは、行方不明の我が子を探し歩く「隅田川」の方が好きかな。

詞章の和歌は、なかなか聞き取ることができませんでした。扇は、ちゃんと月と夕顔でしたけれど。

場面が居住地の近くの関ケ原であることや、行ったことのある京都の下鴨神社、糺の森であることは、イメージがわいて楽しめました。でも、心情の表現を味わうような演目を観る力は、まだまだです。

 

読書会から行った京都旅行で訪れた下鴨神社。

 

◆安達原(黒塚)

こちらは、最初から最後まで楽しめました。ストーリー展開も、流れもわかっていながら、それを期待してイチイチ楽しむ感じ。

 

そして今回も、過去に観たときと同じく、この鬼女は、鬼なのだろうか、元は人なのだろうかと思いながら観ました。「花よりも花の如く」で、主人公のシテが、鬼女をどう演じるか悩むところがあって、能では、元々鬼であるという考えもあるようですが、私はやはり、元は人だったように思います。前場で山伏らに乞われて、枠かせ輪(糸車)を回してみせるときの様子には、華やかな都の過去を想い、後悔を歌わせる。この歌には「京の五条、夕顔、光源氏、加茂の葵祭、美しく飾った車、月待ち顔に夜を待つ、明石の浦」など、何か源氏物語を、人が鬼となった六条御息所を想起させます。

そして、見ないでといった閨を見られ、怒り、追いかける鬼女。最後には、山伏らに調伏され、「浅ましや、恥ずかしの我が姿や」と姿を消す様子は、やはり、恐ろしい鬼の姿ながら、哀れな影をも感じます。閨の死骸は鬼女が殺したものなのだろうか? 山伏を泊めたとき、どういうつもりだったのか、閨を見られなければ、そのまま何もなく、次の日には送り出すつもりだったのか、それらは何度観ても、舞台上で明らかにされることはないのですが、観るたび、自分で考え、感じて観ています。

 

舞台が終わって能楽堂から出ると、バケツをひっくり返したような、滝のような雨でした。傘が効かないくらいの。しかし家に帰ったころには、西の空には夕焼けが見えていました。

 

なお、今日の片山能はカメラが何台か入っていて、ライヴ配信されると共に、来週までアーカイブ配信もされるらしい。

加えて、昨年の片山能は無観客公演で、その公演も今年、11月4日まで無料で公開されています。演目は能「弱法師(よろぼし)」と能「殺生石(せっしょうせき)」です。
https://youtu.be/DSMCjatIJMM