最近、能について観たり読んだり調べたりする機会が多く、能を観に行きたい気持ちも盛り上がっています。
今回は、世阿弥の晩年、佐渡の世阿弥をテーマに書かれた物語、藤沢周 「世阿弥最後の花」が課題本でした。
読んで、すごく能を観たくなりました。特に作中で演じられるている「黒木」を観てみたい。藤沢さんとどなたか能楽師さんで舞台化してくださらないだろうか。もしくは、この本をドラマ化してくださらないだろうか、もちろん、ロケは佐渡で。佐渡にもすごく行きたくなりました。ちょうど能楽協会さんが佐渡の能について特集サイトを作っていらして、それを観ると益々行って観たくなる、世阿弥の後をたどってみたくなりました。そんなツアーあるといいな。
少し前に世阿弥の風姿花伝を読んだのですが、その風姿花伝や別の世阿弥の本から多く引用されていて、さらに、それを世阿弥の言葉で解説されているようでわかりやすかった。加えて、風姿花伝は若いころに書いた文書で、老いて能を続けることの難しさが書かれていて、読んでときには世阿弥は実際、父の観阿弥より長生きしたのだけれど、年をとってから考え方が変わったりしたのだろうか?と思っていたので、その答え、老木の花を探す世阿弥を読めたようにも思えて、非常に面白かった。
物語の中には、いくつもの能の番組が登場し、引用され、中には自分が観たことがあるものや知っているものもあって、そうすると、自分の中でイメージできるので、場面や心情が一層想像しやすかったり。ちょうど平家物語を読み終わったところで、読みながら関連する能について調べたりもしていたので、平時忠とか実盛とか頼政とか登場すると一層、おお!となったり。
作中に登場する能を演じる場面には、特に惹かれました。しかし、頭の中で想像はするのですが、同時にやはり観てみたい気持ちにもなります。
中盤の雨乞いの立願能の場面は、最初の盛り上がり、ドラマチックでした。「「翁」 の「 三番叟」 に、 雨にまつわる歌を入れつつ、天 と 地 との間に満つる気を一身に引き受ける」舞として描かれている。「翁」は正月公演で何度か観たことがあり、特に「三番叟」の力強いリズムはとても好きなのですが、雨乞いの祈りということを考えると、「翁」の厳粛な祈りも中にあったのではないかと思います。佐渡には実際には世阿弥の痕跡は非常に少なく、正法寺に遺る面と、世阿弥が座った石くらいだそう。しかし正法寺に残っていた扁額には、世阿弥の雨乞いについても書かれていたらしい。
この物語の中では元雅が登場し、時には自分のことや世阿弥への思いを語る。島で会った子、たつ丸に能を教え、ほめ、親子か祖父孫のように接して、このように元雅にも接していたなら、と悔やみ、想いをはせる世阿弥。能の物語でもあるけれど、亡くなった息子、元雅 が寄り添う、親子を描く物語としても心にしみました。
佐渡で世阿弥が作った能「黒木」は、この本のオリジナルだと思うのですが、順徳院を弔い慰めると同時に、世阿弥に元雅の霊(魂)が寄り添い、世阿弥と元雅の互いをも慰め浄化し昇華する能であったように想像します。
しかし、同時に現れた元雅は本当に元雅の霊であったかどうか。確かに能の番組の多くで、生きている人と、亡くったあの世の人が出会い語り舞う演目が多いですが、それは本当に霊という存在なのか。作中で世阿弥が眠っているときに夢に現れた二人の元雅、血の涙を流し苦しむ元雅と、生前の静かな姿の元雅。二人は、世阿弥の後悔や執着や苦しみや悲しみが、世阿弥の心が生み出した存在なのかもしれないとも読んで思いました。
最後に登場した能は西行桜。
世阿弥は探していた老木の花を見つけたと思いますが、世阿弥だけでなく、たつ丸もまた「花」を、様々なものを含む「花」を見つけた、次の世代に受け継がれたところが良かった。都にとどまらず、佐渡でも花は見つかる、佐渡でこそ見つかる「花」もある。そして老いてこそ見つかる「花」もある。
親子を描く物語としても純粋に面白かったけれど、やはり能だからこそ、能を描いているからこその物語でもありました。演じるということ、上手く演じたいと思うほど演じられなくなること、盛りを過ぎ老齢となったときに自分の芸に残るもの、など芸について書かれている部分もまた、一層面白かった。能を知っている、風姿花伝を読んだことがあるからこそ、一層面白く読めるとも思え、しかしそれらを知らなくても、面白く読めるようにも思えました。
面白い本でした。能を観たい心、佐渡に行ってみたい心が刺激されます。