おはようございます![]()
田中美佐子さんが自転車で走る「こころ旅」、今週は奈良県でしたね
奈良県にはアスカという漢字が2つあります。
奈良の飛鳥と明日香の違いを教えてくださいとAIさんに聞いてみました。
結論:
「飛鳥」は歴史的な呼称・古代の都の名前、
「明日香」は現在の行政地名(明日香村)。
1. 「飛鳥」=古代の都・歴史用語
飛鳥は、6〜7世紀の政治・文化の中心地で、いわゆる飛鳥時代の舞台となった地域です。
古代文献では「飛鳥」が都の名として多く使われ、格式ある表記とされていました。
飛鳥時代 飛鳥寺 飛鳥駅 飛鳥資料館
こうした歴史・文化に関わるものは今も「飛鳥」と書かれます。
2. 「明日香」=現在の地名(明日香村)
一方で「明日香」は、奈良県高市郡明日香村の正式な行政名です。
1956年、高市村・飛鳥村・阪合村が合併した際、
公平性や響きの美しさから「明日香村」という表記が採用されました。
明日香村 明日香川 万葉集に詠まれた「明日香の里」
現代の地名としては「明日香」が定着しています。
3. 古代は表記がもっと自由だった
古事記・日本書紀・万葉集では、
明日香・飛鳥・安宿・阿須賀・阿須可…など多様な漢字が使われていました。
音(アスカ)に漢字を当てていた時代なので、表記が揺れていたのです。
同じ頃?大阪には難波の宮の遺跡がありますが?
難波の宮は「もうひとつの古代の都」
飛鳥(明日香)が6〜7世紀の政治・文化の中心だったのに対し、
難波の宮(なにわのみや)は、海と大陸に開いた“外交の玄関口”としての都でした。
難波の宮の特徴
• 現在の大阪城公園の南側あたりに位置
• 飛鳥時代〜奈良時代初期にかけて、何度か都が置かれた
• 大陸との交流・遣唐使の出発地に近く、海運の要衝
• 飛鳥の内陸的・精神文化的な都とは対照的に、外向きで実務的な都
飛鳥の静けさと、難波の宮の開放性。
飛鳥と難波の宮の関係
飛鳥の天皇たちは、季節や政治状況に応じて
飛鳥 ↔ 難波を行き来していました。
• 飛鳥:内政・祭祀・精神文化の中心
• 難波:外交・物流・海の玄関口
いわば、
飛鳥は「心の都」、難波は「世界へ開く都」
そんな二都体制のような時期があったのです。
そうなのよね~、でも、どうして不便な山奥の飛鳥なんかに都を置いたのかな?
山奥の飛鳥に都を置いた理由は、現代の感覚で見ると「なんでそんな不便な場所に…?」と思えてしまうのですが、
当時の価値観・政治状況・宗教観を重ねていくと、とても合理的で、むしろ“飛鳥でなければならなかった”理由が浮かび上がってきます。
1. 飛鳥は「聖なる土地」だった
飛鳥は、古代から神々が宿る場所と考えられていました。
• 三輪山(大神神社)
• 甘樫丘
• 石舞台古墳
• 高松塚・キトラなどの古墳群
これらは、政治と宗教が一体だった時代において、
天皇が“神の子孫”として統治する正統性を示す舞台として最適でした。
つまり、飛鳥は「ただの山奥」ではなく、
天皇の権威を支える“聖地”だったのです。
2. 大坂(難波)は便利すぎて危険だった
おっしゃるように、大坂は海に開けていてとても便利。
でも古代の視点では、それが逆にリスクでした。
• 外国勢力が攻めてきやすい
• 海賊・渡来勢力の影響を受けやすい
• 物流の中心=権力争いの舞台になりやすい
飛鳥は内陸で守りやすく、
外圧から政治の中心を守る“安全地帯”でもありました。
3. 飛鳥は「王権のふるさと」だった
飛鳥周辺には、
大王家(のちの天皇家)の祖先の古墳が集中しています。
つまり飛鳥は、
王権のルーツが眠る土地=精神的な本拠地。
現代で言えば、
「創業家の墓所がある場所に本社を置く」
そんな感覚に近いかもしれません。
4. 政治の中心は“飛鳥”と“難波”を行き来していた
実は、飛鳥にずっと閉じこもっていたわけではありません。
• 内政・祭祀 → 飛鳥
• 外交・物流 → 難波(大阪)
この二つを行き来することで、
内向きの精神文化と、外向きの実務を両立していました。
だから難波の宮が大阪にあるのは、
飛鳥の“補完都市”として、とても理にかなっていたのです。
5. 飛鳥の“山奥”は、むしろ理想の都だった
飛鳥の地形は、
• 小さな盆地
• 周囲を丘陵に囲まれ
• 水が豊富で
• 気候が穏やか
という、古代の農耕社会にとって理想的な条件が揃っていました。
政治・祭祀・農耕が一体だった時代には、
飛鳥の静けさこそが“都の条件”だったのです。
大王家(後の天皇家)って奈良出身の人たちだったってこと?それともどこかから奈良の飛鳥に引っ越してきたの?
結論から言うと――
大王家は“奈良出身”と断言はできないが、飛鳥周辺を本拠とした勢力がゆっくりと形成された
つまり、
どこか遠くから突然やってきた一族というより、
大和(奈良盆地)に古くからいた有力な首長層が、長い時間をかけて“大王家”へと成長した
という見方が最も有力です。
ただし、外部との交流や血縁の混ざり合いも多く、
「純粋な奈良ローカルの一族」とも言い切れません。
1. 大和(奈良盆地)は古代から“権力の集積地”だった
奈良盆地は、
• 平野が広く農耕に適している
• 古墳を築くのに十分な土地がある
• 周囲の山々が“聖なる地形”として信仰を支えた
こうした条件から、弥生時代末期〜古墳時代にかけて
自然と有力な首長たちが集まる地域になりました。
その中で、飛鳥・橿原・桜井周辺の勢力が頭一つ抜けていき、
やがて「大王家」と呼ばれる中心的な家系になっていきます。
2. 外部からの影響も大きかった(渡来系との交流)
大王家の形成には、
朝鮮半島からの渡来系の技術者・豪族が深く関わっています。
• 土木技術
• 鉄器
• 仏教
• 文字文化
• 都市計画
こうした知識を持つ人々が大和に集まり、
大王家と婚姻関係を結んだり、政治を支えたりしました。
つまり、
大王家は“大和の土着勢力”+“外来の知識・血統”の融合体
というのが実像に近いです。
3. “どこかから引っ越してきた”説もあるが、決定的ではない
学説の中には、
• 九州から東へ移動してきた
• 出雲系の勢力が大和に進出した
• 朝鮮半島から来た王族が基盤を作った
などの説もあります。
ただし、どれも決定的な証拠はなく、
大王家が突然どこかから移住してきたというより、
大和の地で徐々に力を蓄えたと考える方が自然です。
4. 飛鳥が“本拠地”になった理由
飛鳥は山奥の静かな土地ですが、古代の価値観ではむしろ理想的でした。
• 三輪山・天香具山などの“聖なる山”に囲まれている
• 祖先の古墳が集中している
• 祭祀の中心地としての歴史が深い
つまり、
大王家の精神的・宗教的なルーツが飛鳥周辺にあった
ということです。
なるほどよくわかりました
想像をめぐらす楽しい会話ができました。














