リュウセイグン -15ページ目

リュウセイグン

なんか色々趣味について書いています。

長文多し。

アニメに引き続いて映画ベスト。



5位
『アンヴィル! 夢をあきらめきれない男たち』

やっぱ五位は迷うな~。
「チェンジリング」でも「ウォッチメン」でも良かったかもしれないけど、取り敢えずアンヴィル押しで。
僕は全然メタルとかわからないんですけど、それでも楽しめるドキュメンタリー。
何故なら、どんな分野にもこういう事はあるから。そして多くの人が途中で色々失っていくから。
でもアンヴィルは失わない、多分、バカだから
世の中、いつでも自分の志を失わず、凄ぇ事をやってのけるのはバカか天才と相場が決まっている。
そして彼らはバカにして天才だ。



4位
『イングロリアス・バスターズ』

タランティーノ好きじゃなくてもオススメしたい逸品
普通の会話が情報戦。
どこからが探りでどこからが世間話なのか。そして世間話も実は前振りだったりと芸が細かい。
『君に届け』のあやねちんと梅太郎みたいな会話が全編を貫いていて緊張感バツグン。
本当に濃ゆい人しか分からない映画ネタ&歴史ネタも炸裂しまくり。
ヌルヲタの僕には分からないところも多いが、それでも充分面白い。



3位

『チェイサー』

韓国映画は今結構凄いことになっているんじゃないかという気持ちにさせてくれる一作。
個人的な意見だが『母なる証明』よりもこっちのが好きだな。
キャラクタ性、やりとりの面白さ、衝撃的な展開、その全てが観客を飽きさせない。
特にキャラクタ部門では主人公である桑田さん(仮/サザンのボーカルに似てるから)の常軌を逸した行動力とセルフツッコミとしか思えない台詞の妙で、今年ナンバーワンかもしれない。



2位
『グラン・トリノ』


本来的には今年の映画の最高峰。僕の好みで二位ですけどね。
今や監督の名声が俳優業よりも大きいんじゃないかってレベルのイーストウッド。
俳優としての引退作とも言われている本作は、彼自身の俳優人生の総括のような内容にも思える。
社会的問題意識も取り込みつつ、ドラマとしても面白く、テーマも深くて色んな方面から考察が出来る。
映画のお手本かもしれない。



1位
『レスラー』

『グラン・トリノ』と甲乙付けがたいのだけれども、テーマ性というか価値観の持ちようを考えた結果こちらにした。
コワルスキは社会的に立派なことをして人生にケリを付けたんだけれども、ラムジンスキは多分世間からはあんまり誉められないだろう。「バカ」と言われるかもしれない。
また、彼はある意味「逃げ」てしまったようにも取れる、現実から。
でも必ずしも否定される性質の物ではない。それ自身に誇りを持っていたんだから。
ラムジンスキという人間の周りからは人が去ってしまったが、ラム・ジャムの姿はきっと多くの人々の記憶から消えない。また『グラン・トリノ』と同様にこの主演俳優であるミッキー・ロークも、自身が主人公と極めて近しい存在だ。往年のファンには少々複雑な思いもあるかもしれないが、僕はきっとイケメンでぶいぶい言わせてた(死語)頃のミッキーロークを知ったとしても、こっちのが好きなんじゃないかと思う。





去年からキチンと事前に見分けて映画を観に行くようになったので、今年は本気で当たり年だった。
18本くらいしま観てないせいもあるけど、その中で一番低い評価になりそうなのが『重力ピエロ』『REC2』辺り。それでも決して駄作という程ではない。佳作レベルにはなっている。
だから順位こそ決めてあるけど、いずれも標準以上で映画としての出来は良い
その殆どに80点以上を付けたいくらい。
これがアニメだとベスト5に近くなってようやく80点あたり。
ここはやはりアニメも良いが映画もね、っていう勧め方をしたい。

ラインナップは映画好き的にはあんまり珍しくないんじゃないかなぁ。
もちろん前評判で探りを入れてから観に行ったせいもあるんだけどさ。
でも、まずハズレが無いのですんげー有り難かった。
世界観が物を言う上橋ファンタジー。



やはり上橋さんの真骨頂は世界観にあるんだろうなぁ。
エリンはまだアニメのみしか観てないけど、既にそれを感じさせた。
精霊の守り人はアニメが一話のみしか観てない状況で小説を読んだからよりそれが鮮明に分かる。
流石は本職の文化人類学者と言ったところだろうか。
やや世界観に偏り過ぎなきらいもあるが、僕なんかも世界観にこだわりがある方なんで逆に適合してるかも。
特にヨグの建国神話や、それに対するヤクーの伝承辺りは興味深い。
建国神話はヤマタノオロチ退治系列の神話を元にしているのかな。
王家のはぐれ者(末子)が叡智を以て土地神を倒す、だが逆に言えばそれは従来の宗教を排斥し新たなる神権を確立したとも読める。
またヤクーの伝承も完全には伝わらず、欠損・変質を余儀なくされている。

エリンの真王家に同様のネタがあったが、それ以上にネットに公開されていた上橋女史のアボリジニに関する小論文がその根っこにあるのではないかと思う。
衰退しつつあったアボリジニの部族にあっては、保護政策の中にあってもその伝承や伝統を変質させてしまっていた。

そのモチーフが、小説にも生きているように思われる。
そこら辺がまた神話好きな人間にはたまらない。

彼女は『「子どものため」だけに物語を書いたことはない』とも言う。
これはエリンを観てきた身にも感じる事で、「子どもにも観れる物語」ではあるけれども「子どもだましの物語」ではない。
勿論、子ども向け作品を見せるのも良い事だ。
しかし美しく、優しいものだけを見せるのは単なる欺瞞でしかない。
上橋さんは、厳しさを容赦なく書きつつも、厳しさに負けない誠意や心の素晴らしさを忘れない。
『かいじゅうたちのいるところ』を映画化したスパイク・ジョーンズが言っていたが大抵の子ども向け物語とは、大人が子どもに見せたい・与えたい物語に過ぎない。彼はその欺瞞に陥るのを嫌い単なる子ども向けではない自らの『かいじゅうたちのいるところ』を撮った。
上橋さんもまた、子どもに対してだけではない物語を書く事で、「子ども向け物語」の欺瞞を振り払っているのではないか。
こういう書き手は本当に貴重だし、エリンを通じてそういう人間に出会えたのは読者としても幸福だ。
「獣の奏者エリン」は、僕的に非常に満足な出来だったのですが、やはり全ての人間が同じように感じられる訳も無かったようで。

それはまぁ当然なのですが、ぶっちゃけ言わせて頂くならば「そこの展開でそのくらいの読み込みしか出来ないで文句言っちゃってるの!?」という感じで……。

いやぁ、他の「おいおい」って感じのやつは誉めてるみたいなのになぁ。
不思議だなぁ。
感覚が絶対ではない事は重々承知しているつもりなんですが、ここまで違いがあるとちょっとね……むしろ凹む。

エリンなんかは表だっての展開と、その裏にある複層的な意味合いの両方があるんだけど、表を観て裏を読まない感じなんだろうか。

だから逆に表だってはカッコイイけど裏を読むとショボい物語ばっかりもてはやされちゃうのかなぁ。紋切りテンプレ出しただけで納得してたりね。

もちろん私がおかしいんだ、という意見もあるだろう(マイノリティなのは確かだしね)

ともあれ感性の違いと片付けるには余りに大きい壁に驚く。

みんな物語を観ようよ!
って思うが、相手にとっては私もまた然りになっちゃってるかも分からんし。

やっぱアニメオタクではないんだろうな俺は。少なくとも現在のメインストリームとは全然合わないわ。

この傾向が加速して、良質(少なくとも僕にとって)の物語が消えてしまわないように祈りたい。
大団円!



やはりエリンさんは最後までエリンさんでした。

実を言うと今はパソが無い環境なのでガッツリ書けないのが残念です。
なので簡略に。


細かい所まで言ってしまうとソヨンと闘蛇大量死の関係性がやや気にかかる部分はあります。
ただ、たとえソヨンがそれに関わったとしてもこの最終回ならば解消されているとも言えるのではないかという気がします。
何故ならばエリンさんは本当の意味で母を乗り越えた、より正確に言うならば母の理想とした「人と獣」の絆を築いたからです。


今回、一番感じ入った部分はやはりリランが自らの意志でエリンさんを助けに行ったシーンでしょう。
正直、エリンさん自身の決断はその前段階、即ち「リランを人の為に使ってしまう」時で半ば終わっていました。
そのけじめとして命を絶やすと。
ただ、彼女の心にさした一筋の光明は、母の言葉。

そしてエリンさんの気持ちに応え、自由意志を以て助けに行ったリラン。

その直前まで、2人の間には壁が存在していました。

音無笛を使った不信感と主従関係。
母の苦悶した状況。

エリン自身が出した結論をリランが覆す。

2人の関係は、懸命にリランの事を考え続けたエリンさんの心は、たかが音無笛ごときで崩れ去るものじゃない。
それはエリンさんの近くに居続け、彼女の誠意を見続けたリランが一番分かっていたに違いありません。
やはり、これもまた誠意の物語でした。

苦難に立ち向かい、真摯に悩み続けたエリンさんの誠意は、無駄じゃなかった。

その魂はリランに受け止められ、報われたのです。
それは御都合主義なんかじゃない、エリンさんとリランの物語としてあるべき必然です。

その魂は人間達の心にすら響きました。

エリンさんは全く世界をどうしようとか、国をどうしようとか考えていた訳じゃない。
ただ命を懸けて人と獣の絆を考え決断してきただけ。
でも、だからこそ、その姿勢は多数の人々を動かしたのでしょう。

新作も既に発表されていますから、エリンさん達はこれからも獣と人について様々な苦難に遭うのでしょう。
ただ、それすら乗り越えていける。
彼女と、その魂を受け継いだ子供なら。
僕はそう信じています。
DTB二期が(僕的に)愉快な終わり方をしました。
やっぱり製作者はこの作品のバックグラウンドを考えてない
契約者とかドールとかいうガジェットこそ思い付く物の、何故それが存在するのか、どうあらねばならないのかを無視して話を進ませています。視聴者は何が起きているのかこそ理解出来る時もありますが、どうしてそれが起きるのか、そしてそれは世界にどんな意味をもたらすのかについては、そもそも語る気が無いのでしょう。



一期のラスト観た時も思いましたし、二期も最初からそうだと考えてはいました。
それが改めて明確になった以上、あのダンサーの兄ちゃんや探偵にクレームを付けるよりも竹P撲滅運動を行った方が後の災いも防げるので良いんじゃないかと思います。
とはいえ、竹P作品が売れているのも事実ですし、それを許容する人間が多数居る以上は事実上不可能でしょう。
邦画作品もしょうもない大作ばかり売れ続けていることですし、その辺りの見識に期待するのも止めた方がよさそう。



仕方ないので僕が勝手にDTBの設定補完をすることにします。
語る課題はここら辺。
僕はこれらについて出来る限り「合理的」に考えていきます。
ただ、これが如何に合理的であっても、公式設定の考察では全くありません。
むしろ公式があんまりにもしょうもないから俺がやる、くらいの気持ちでやってます。
もちろんそこまで独創的では無いんですけど、整合性は持たせるつもりです。



・契約者
・ドール
・門
・組織
・一期・二期、そしてシリーズのラスト



さぁいってみよう。

まずこの作品のキモであるはずな、契約者の問題です。
契約と言うからには「何か」と契約をしているはず。
ぼくの思索はここから始まりました。

根元的な「何か」

それさえ考えつけば半ば目的は達成
したような物です。



一期ラストでアンバーは何らかの意志を示唆しました。
何年先か分からないとかぬかしやがる時点で、その「何か」を描く気が無いのが明白なのですが、ともあれそういう存在が居るというのは確定としましょう。
ていうか自然現象であんなん起きないからね。そうだったとしてもつまんないし。



宇宙意志とかだと話の範囲が広くなりすぎるので、僕はここで地球意志という設定にしたいと思います。
所謂ガイア理論ですね。
地球が契約者を産み出した。
何の為に?
ここで重要なのが契約者の特性である「合理的判断」と言うこと。
少なくとも、この点に於いて契約者>人間です。
そしてガイア理論がしばしば持ち出されるのが環境問題。
そうガイア的には環境を荒らす人間よりも、環境を汚さない程度に合理的に済み分けてくれる契約者のが使い勝手がいいんですね。
だから契約者は地球によって創られた、人間を淘汰する次の地球の支配者(が言い過ぎならば管理人)なのです。
彼らの対価は地球による束縛であり、能力の行使と共に、人類の淘汰も隠された「契約」です。
ただそれを自覚している訳では無いので、積極的に人類淘汰を行うとは限りません。



そしてドール。
彼女らは観測例を使役し、契約者もどきであるモラトリアムの多くがドールに変化すると言う事ですが、実際の所それ以外殆どよく分からない存在です。
これについては人類VS契約者に対する観察者、と捉えればいい。
他の設定に「偽りの星空」というものがあります。
でも、これはハッキリ言って必要のないというか存在そのものが意味不明な代物です。
だから敢えてこう考えました。
「だれかに観測させる為の星空ではないか?」
すなわち、星空はスコアボードです。
どの契約者が動き、どの契約者が死んだかを表示させ、ドール達に観察させます。
彼女らの責務は「観察」ですから自我は必要ありません
その代わり認識力が増大しています。
地球上の物質に潜む霊的存在を媒介に、色々と詳細な観測が可能です。

では、契約者を観測してどうするのか。
一つには対価云々が実はドールたちによって観察されていると設定すれば面白いかもしれません。
もう一つ、契約者が死ぬと星が流れます。
そして契約者は減ります。
ただし、普通の人が契約者になることもあるようです。
では、こう考えたらどうでしょう。

契約者が一人減る→普通の人が契約者になる。

契約者の人数は一定とするならば、契約者が死んでも数は変わりませんが、人類との割合は増えていきます(出産数とも関わりますけど)だから人類との争いで契約者が死んでも、結果的には問題ない。


そこで、組織です。彼らの目的は契約者殲滅。
それは即ち組織が契約者の存在意義を把握していたからです。
だから当初、彼らは契約者の合理性(そして意志の不統一)を逆手にとって、契約者同士で殺し合いをさせようとしました(天国戦争なども、その一環という意味を含んでいた)
ところが、上記のような状況なので契約者同士で殺し合っても、結局は人類が減少することになります。
だからこそ、彼らは契約者の力の由来である門を消滅させるという手段に出たのです。


その門を消滅させる、或いは存続させるには太陽に大黒斑なるものが観測した時期だけにしか出来ない事をしなければならない。
これが(起きてないのに起きたことになっている)東京エクスプロージョンであり、「反ゲート粒子」などという意味不明の物体を打ち込むという儀式です。ここら辺の便利ガジェットはお好きにどうぞ、という感じなのでながしますが何故大黒斑の時期じゃないとダメなのか。
門のメンテナンス期、という線はどうでしょう。
門のメンテをする為に、地球が太陽のエネルギを一気に吸収します。
結果黒点が増大。門は過エネルギ状態になるので、同時に契約者の能力も一時的に増大しますが、同時にメンテナンス期であるので門自体は脆弱になります
だから、この時期じゃないと出来ない……と。


このノリで、二期の最終回も総括することが出来ます。
二期は地球そのものをコピーして箱船にしてしまうという僕的には結構好きなアホなSF(ファンタジー)ネタでした(問題は製作者はガチだろうってことだろうか)

太陽は? 重力は? 
とか色々ツッコみたい点はさておき、此処には多くの人々(コピー)が乗っています。
スオウもジュライも居ましたが、普通の人になっており、パパチェンコもママチェンコも居ました。
契約者の居ない世界として設定されたのでしょう。
逆に言えば普通の人を隔離した、とも言えます。
本作品では偽りの星空のせいで人類は宇宙に進出出来なくなったと言われています。
今まで語ってきたガイア理論に則って言うならば、人類が宇宙に行ってしまうと地球上で滅ぼしても戻ってくる可能性があるので、それに対抗する為だと言えるでしょう。
しかしそれのさらに上を行く計画が今回のものだと言えます。
宇宙に行けないと言うことは、何らかの層や幕のような物が地球の大気圏外に存在している、そこに星も出てると考えるのが一番納得しやすい。透明なので太陽光は透過。
しかしその幕の外側に直接何かを創ってしまうとなればこれは地球さんにも、どうすることも出来ません。
紫苑はそれを読み切って、地球の幕の外側に直接コピー地球をつくり、旧人類の箱船にしたのです。

これは一期にあった人類側から画策する契約者殲滅構想から一転、契約者側の提案した人類棲み分け構想と言えるでしょう。人類にとってはいい気分ではないでしょうが、殺し合う以前に隔離してしまおうという意図と考えれば、これはこれで合理的な判断ですね。

そしてキチンとこの物語を終わらせるとすれば、それは「契約者と旧人類の共存以外」にはないでしょう。
地球意志を超越して、自意識によって共に生きる。これが理想です。
具体的な施策として考えるのは難儀なので、ここでもっと大きな敵を登場させてやればいい。
地球意志をそのまま体現する、契約者の中の契約者。
リーダー格にして執行人。ドールの元締めであり、契約者を生み出せる契約者……とかね。
それによって契約者VS人類の構図を煽るんだけど、逆に共に戦う事でアニメらしい結末が期待出来るでしょう。

以上、こんな感じでDTBの設定を考えてみました。
何度も言うように、これは公式に関わる考察ではありません
また僕自身も全く公式に期待していないので、逆にこれを考えようと思ったのです。
だから幾ら筋が通っていても、本編がこうなるとか期待しない方が良いです。

もし本編でキチンとバックグラウンドが明かされて、これに近かったら……誉めるべきはスタッフなのかどうなのか難しいところです。
一番嬉しいのはこれよりもっとぶっ飛んでて、これよりもっと面白い背景が明かされることですね!


一期二期観た限りじゃ、畳む意志すら感じられないので、まず無理でしょうけど。