ランキングを観て思うのは、改めて世間のメインストリームから外れているなぁという認識でした。
固定ファンが多そうな『君に届け』『BASARA』は共通するかもしれませんね。
宙まには微妙だろうなァ。
『BASARA』も『戦う司書』と迷ったんですけど、秋に掛かるのが多すぎたんで止めておきました。
他人と違うのを了解した上でやってるから、後ろめたいと言うよりもむしろ
「全然違うだろ、ザマーミロ!」
みたいな気分ですけどね、えぇ。
僕は、多分多くの人に比べてアニメに対する評価が物凄く厳しいと思います。
ブログなんかやってると、そういう態度が相手を困惑させる時もあるでしょう。
しかしながら、僕は僕の求める物を希求するだけですから、それに見合う物であれば誉め、見合わない物であれば怒るだけです。
これは極めて自己中心的な態度と言えるでしょう。
しかしこと僕にとっては、至極当然です。
物語を観る時、それは他人にとってどうかが大事なのではなく、自分にとってどうかが大事なのですから。
もちろん筋の通った他人の意見も無下にはしませんけれどもね。
これ自体、やはり色々と他人から言われる考え方ではあるでしょう。
しかしながら思うんですよね「あんたらは違うのか?」と。
誰かが何かを面白い、という時、それは何かに比しての事です。
それは自分の人生の1シーンだったり、日常生活だったり、他に観た映画だったりアニメだったり小説だったり新聞の社説だったり、色々です。
何かを面白いと考える時、それは実のところ「面白くない状態」を想定し、それと比していると言えるでしょう。
何を以て面白いかは個々人で異なります。
よってその感覚は、あくまで貴方だけの、自己中心的な感覚なのです。
共有しているように感じているのは実際の所、偶々か、気のせいです。
こういう態度に作品の面白さを見出すのが良いとかなんとか、言う人もいるでしょう。
でも、それだったら
「30分間真っ白な画面を見てるだけで何か楽しめるの?」
それでも楽しめたとして、別のちゃんと動いたり喋ったりしている何かと同じように楽しいか、それはまた違うんじゃないでしょうか。何を面白いと思うか、何を面白いと思わないかは人それぞれで、要するに程度の差なのです。
だから、個々人の感性は共有不可能で、同じ物を観ても面白く感じたり詰まらなく感じたりする。
ここに於いて「面白い」の領域をどう扱うか、という問題が出てきます。
全部面白いからいいじゃん!
それは確かにそうかもしれません。それも一つの価値観。
けれど同時に、全て面白いというのは全てフラット化するという意味でもあります。
自分の中で10点満点中、10点を付けたい作品を「面白かった」と誉める。
でも5~6点ぐらいでも「面白い」で良いよね、3~4点でも「悪くない、面白い」1~2点でも「面白い部分はある」
こういう事を繰り返すとどうなるか。
10点の「面白い」が相対的に平坦になってしまう。
これは言葉上の問題ではありますが、様々な作品にそういう態度で接することで自らの感性が鈍っていくでしょう。
10点でも3点でも、同じ言葉のボックスに入れてしまえばいい、という安易な考え方は視聴態度を安易にします。
よって「全て面白い」は「どうでも良い」と極めて近しい、というのが私の持論です。
僕にとっては、そんな褒め言葉は無責任であり、全部肯定は視聴者の堕落と同義です。
同時に、何か創作をしたいと思っている人間にとっては致命的。
作品の善し悪しを客観視出来ていないんですからね。
そんな人に面白い物は作れない。
僕は商売としては兎も角、創作をしてみたいと思うタイプの人間ですから、そのハードルを上げるのは義務だとすら思います。
自己中心的ではあるけれども、何かに物語的価値を見出し、その価値観を選び取っていくのが僕のやり方です。
その価値観が合っているかどうかは、結局自身でケリを付けなければならない。
面白いに絶対的基準はないんだから、自ら創り上げるしかない。
その価値観への責任も自分で負う。だからこそ「面白い」「面白くない」を選別する。
同時に、選別したからと言って単に「面白い」「面白くない」とだけ言っていれば良いという物でもありません。
文章がこんな感じなので勘違いされやすいですが、僕は必ずしも理詰めで物語を観ている訳じゃない。
むしろ感覚が先に引っ掛かって、その感覚を語る為に言葉を選んでいるからこうなるのです。
感覚そのものは自己中心的です。それは先ほども言いました。
しかしそれをブログで開陳する以上、「面白かった」だの「面白くなかった」だのだけで語るのはあまりにも浅薄です。
そこで、感覚を説明する為のツールとして言葉と論理が持ち出されて来る。
もちろん、言葉も本来的に感覚そのものを共有できるわけではありませんし、遍ねく論理は詭弁です。
同じ物を観ても「○○だから良い」「○○だから悪い」と互いに違う感覚を持つことは充分あり得ます。
そして「正しいからそちらを取るべき」という論理の基本も、「論理的に正しいからと言ってそちらを取る必要はない」という考えによって容易に否定されます。一般的なルールがそうなっているだけで、実際的には正しくても、選ぶ必要はないし、正しくなくても選んだって構わない。
ただ、ギャラリーに正しいような事を言っている方を選んだ方が良いんだろうな、という印象は与えられます。
説得力があるな、と思い込ませることは可能です。
それは他人に自分の価値観を認めて貰うことでもある(錯覚である可能性は常に存在しますが)
その印象論や説得力こそ、このインターネットという言語を基本として意志疎通する空間には重要です。
だからこそ、批判も称賛も論理で語る訳ですね。
また肯定にせよ否定にせよ、作品をてんで理解せずに語るのは、それこそ滑稽。
だからこそ、下らないと感じる物語でも理解しようと務めます。
ダブルオーでも化物語でも、自分が物語に入り込んだ上で、その物語を考えた結果を提示する事にしているのです。部外者でいるつもりは全然ありません。
僕から見て否定するだけではなく、物語の中から見て考えつつ言う事にしています。
そしていざとなれば、それを僕の中で解消させられる物語を創る。
そうやって出来上がった物が全ての人に面白いとは全く思いませんが、それを見れば選び取った価値観と、作品への理解くらいは考慮して頂けると考えてのことです。
近年多くに持ち上げられている作品は、僕にとって誉めるに足りない物ばかりです。
もちろん大衆性も大事だとは思うのですが、阿りすぎて歪んでいるなァというのが強い。
邦画で売れているのもトンチンカンな作品が多い(もちろん素晴らしい作品もあります)けれど、実質的に大抵のアニメも同じです。
一方、洋画では売れていないけれども映画好きに明確に評価された作品は、かなり好印象のものが多い。
映画好きにも色々居ますが、好きな映画を教えてくれそうな映画好きは結構居ます。
なのにアニメでは、評価されている作品が全然面白くないことがしょっちゅうです。
というか、売れている=評価されている、みたいな図式が多々あります。
ブロガーやら、評論家の中でもそういう図式がある。
別に大衆性そのものを否定している訳ではありません。
ただ個人として考えるに、売れていて面白い作品もあるし、面白くない作品もある、ついでにどちらかというと、一般的に売れている作品はあまり面白くない……それだけです。
映画では、特殊な嗜好でもガイドになりそうな人が居るのに対して、アニメでは勝ち馬に乗ることばかりが優先されているのです。
だから僕は評価する主体としてはまだまだ至らないし、青臭いですけれども僕に似た嗜好を持つ人(かなり特殊でしょうけど)へのガイド的な役目になれれば……との意味でもこういう風な書き方を続けるつもりです。
エリンみたいな深く考えられるような作品はそれに相応しい考察を加え、マジンガーやミラトレみたいな頭のネジがすっ飛んだような作品も笑いながら大喜びし、化物語やレールガンみたいな売れている割にツッコミどころが多すぎて過大評価に思える作品には容赦なく斬り込んでいきます。
こういった態度は全然一般的では無いでしょうが、そもそも考えるんですよ。
右向け右で、同じような作品を同じように誉めてる
似たり寄ったりのアニメブログって、やってる意味あんの?
個人としても、ブログとしても。
ここは特殊ですが、それ故に意味を持ち得ると思っています。
自己満足度も高いので、現時点で本当に意味があるかと問われれば少々言葉に詰まりますけれども。
なんにせよ、この特殊性は僕の枷でもあり、覚悟でもあるのかもしれません。
年の瀬も迫って参りましたので、今年の俺的アニメランキングを発表させて頂きます。
あくまでも「俺的」なので、世間の流れとは全然違うよ!
TVアニメ限定。劇場版アニメは映画ベストに入れます。
あと終わってないのもありますが、現時点までの流れ&期待値含みで。
5・戦国BASARA
ある意味、一番悩んだ第五位。
最終回のダルさが積み上げてきた作品性をかなり損なっていたので、終了時はかなり怒っていましたが、引いて考えてみるとあのゲームのアニメ化としては十二分に素晴らしいと言えるんじゃないだろうか。
単にゲームキャラを動かすだけではなく、そのキャラ自体の行間を読むような形で物語を作っていった事が一番の驚き。バカアニメに観られがちですが実は物凄く脚本に気を使ってる作品とみた。
作画も格好いい時が沢山あったし、ベテラン声優陣の楽しい演技も多かったのでそういう意味でも好評価。
これで最終回がキッチリ収まっていたらもう1ランクぐらいは上げて良かった。
4・宙のまにまに
「青い花」を全部観ていない(多分そこまで嗜好に合わないと言うのも大きい)僕的には夏期のダークホースでした。どこか古風なキャラが、どこか古風なコメディを繰り広げるのですが、何故か嵌る嵌る。
化物語でちっとも笑わなかった僕は、主にコチラで笑わせて頂きました。
そして部活物として星に対する愛情の深さも伝わってくる。
けいおん!でちっとも癒されなかった僕は、主にコチラで癒させて頂きました。
物語の主軸と星が合ってるからね、それがいいんだよ。
毎回が最終回と言われたように、ドラマと演出もキッチリかみ合っていたと思います。
小粒でもぴりりと辛い作品でした。
3・君に届け
僕はバカアニメが大好きだと思っていたんですけれども、『宙のまにまに』といい『君に届け』といい案外青春物が好みなのかもしれません。
村山由佳 とか大好きだからね!
この作品の魅力はやはりキャラ性というか、貞子と風早くんの人間力にあるでしょう。
純粋すぎて
こんなんあるわけねーだろバカヤロー!
いい加減にしねぇとぶっ殺すぞコノヤロー!
って口で言いつつも、その口元は弛んでるみたいなね。
あと智津ちゃん、やのちん、龍もいい味出してる。
なんつーか、みんな凄く変わってる人なのに、ラノベみたいな突飛さではないんだよなぁ。
想いがキッチリ描かれているせいかな?
地に足着いてるというかね。そこら辺がまた素敵ですね。
あと演出も漫画に忠実ながら、アニメとして情緒を刺激するように出来ていて、原作では比較的普通に読んでた1話からグッと来ました。
あと一番好きなトイレのシーンもやっぱり来る物があるね。
ちょっと伸ばしすぎ? という印象もあったけど、やっぱあそこは重要なシーンだったからなぁ。
まだ終わっていませんが、一期も満了してくれるでしょうし、これはほぼ確実に二期があるでしょう。
2・真マジンガー 衝撃!Z編
早く続編予告しろ!(作られる前提)
と言いたい事もあっての第二位ですが、文句はそれで充分です。
第1話からずっと僕の度肝を抜き続けてくれました。
30分がメッチャ早くて、次は、次はどうなんの!?
という、まんまガキのメンタリティで視聴していた作品。
多分、俺が今川信者だというのもあるけれども、このランキングの中でもこれだけは視聴態度が違ってるんじゃないかなぁ。ツッコミは勿論してるんだけど、それすら作品の中に取り込まれちゃってるっていうかね。
ともあれ楽しかったからそれが全てです。ビッグバン・パンチも大好き。
あとはもっとアクションに力入れつつ二期希望。
以上!
1・獣の奏者エリン
愛するマジンガーと、どちらを優先するか悩みましたが、やはりここはエリンさんの覚悟と気合を押しての第1位です!
序盤は本当に地味。
地味すぎて心配になるくらいでしたが、ジワジワと凄味を増していき、いつしか僕の週一の楽しみと化し、主人公を「エリンさん」と呼ぶようになっていたのでした。
重厚な世界観と、魅力的なキャラクタと、壮大なストーリーと、丁寧な心理描写と、巧みな演出と、奥深いテーマ。
これで名作にならない筈があろうか!(いや、ない)
様々な神話や民俗学的考察から紡ぎ上げられた世界観はファンタジーながらリアリティに富んでいます。
作画自体は簡略化されている感がありますが、演出の妙で節約しつつも効果的な描き方をしています。
物語も、どんどこ追い詰められつつ、それでも屈しないエリンさんのタフネスさに心を打たれました。
それがまた「人と獣」というテーマを深化させる。
物語はこうでなくちゃ!
と、膝を打たせる作品でしたね。
これも最終回は今週末ですけれども、この人たちならキチンと終わらせてくれるであろう信頼感と、ここまで来たらどういう終わり方にせよ評価に値するという感謝の気持ちが支えてくれています。
そしてまた重要なのは、この『獣の奏者エリン』という作品はTVアニメという映像媒体でしか成立し得ない作品だった事でしょう。
劇場アニメでも、実写の映画でもドラマでも『獣の奏者エリン』をこのように描ききれなかった。
それはすなわちTVアニメたること、の第一義では無いでしょうか。
だからこそ、この一位をエリンさんとリラン、その仲間たちに捧げさせて頂きます。
あくまでも「俺的」なので、世間の流れとは全然違うよ!
TVアニメ限定。劇場版アニメは映画ベストに入れます。
あと終わってないのもありますが、現時点までの流れ&期待値含みで。
5・戦国BASARA
ある意味、一番悩んだ第五位。
最終回のダルさが積み上げてきた作品性をかなり損なっていたので、終了時はかなり怒っていましたが、引いて考えてみるとあのゲームのアニメ化としては十二分に素晴らしいと言えるんじゃないだろうか。
単にゲームキャラを動かすだけではなく、そのキャラ自体の行間を読むような形で物語を作っていった事が一番の驚き。バカアニメに観られがちですが実は物凄く脚本に気を使ってる作品とみた。
作画も格好いい時が沢山あったし、ベテラン声優陣の楽しい演技も多かったのでそういう意味でも好評価。
これで最終回がキッチリ収まっていたらもう1ランクぐらいは上げて良かった。
4・宙のまにまに
「青い花」を全部観ていない(多分そこまで嗜好に合わないと言うのも大きい)僕的には夏期のダークホースでした。どこか古風なキャラが、どこか古風なコメディを繰り広げるのですが、何故か嵌る嵌る。
化物語でちっとも笑わなかった僕は、主にコチラで笑わせて頂きました。
そして部活物として星に対する愛情の深さも伝わってくる。
けいおん!でちっとも癒されなかった僕は、主にコチラで癒させて頂きました。
物語の主軸と星が合ってるからね、それがいいんだよ。
毎回が最終回と言われたように、ドラマと演出もキッチリかみ合っていたと思います。
小粒でもぴりりと辛い作品でした。
3・君に届け
僕はバカアニメが大好きだと思っていたんですけれども、『宙のまにまに』といい『君に届け』といい案外青春物が好みなのかもしれません。
村山由佳 とか大好きだからね!
この作品の魅力はやはりキャラ性というか、貞子と風早くんの人間力にあるでしょう。
純粋すぎて
こんなんあるわけねーだろバカヤロー!
いい加減にしねぇとぶっ殺すぞコノヤロー!
って口で言いつつも、その口元は弛んでるみたいなね。
あと智津ちゃん、やのちん、龍もいい味出してる。
なんつーか、みんな凄く変わってる人なのに、ラノベみたいな突飛さではないんだよなぁ。
想いがキッチリ描かれているせいかな?
地に足着いてるというかね。そこら辺がまた素敵ですね。
あと演出も漫画に忠実ながら、アニメとして情緒を刺激するように出来ていて、原作では比較的普通に読んでた1話からグッと来ました。
あと一番好きなトイレのシーンもやっぱり来る物があるね。
ちょっと伸ばしすぎ? という印象もあったけど、やっぱあそこは重要なシーンだったからなぁ。
まだ終わっていませんが、一期も満了してくれるでしょうし、これはほぼ確実に二期があるでしょう。
2・真マジンガー 衝撃!Z編
早く続編予告しろ!(作られる前提)
と言いたい事もあっての第二位ですが、文句はそれで充分です。
第1話からずっと僕の度肝を抜き続けてくれました。
30分がメッチャ早くて、次は、次はどうなんの!?
という、まんまガキのメンタリティで視聴していた作品。
多分、俺が今川信者だというのもあるけれども、このランキングの中でもこれだけは視聴態度が違ってるんじゃないかなぁ。ツッコミは勿論してるんだけど、それすら作品の中に取り込まれちゃってるっていうかね。
ともあれ楽しかったからそれが全てです。ビッグバン・パンチも大好き。
あとはもっとアクションに力入れつつ二期希望。
以上!
1・獣の奏者エリン
愛するマジンガーと、どちらを優先するか悩みましたが、やはりここはエリンさんの覚悟と気合を押しての第1位です!
序盤は本当に地味。
地味すぎて心配になるくらいでしたが、ジワジワと凄味を増していき、いつしか僕の週一の楽しみと化し、主人公を「エリンさん」と呼ぶようになっていたのでした。
重厚な世界観と、魅力的なキャラクタと、壮大なストーリーと、丁寧な心理描写と、巧みな演出と、奥深いテーマ。
これで名作にならない筈があろうか!(いや、ない)
様々な神話や民俗学的考察から紡ぎ上げられた世界観はファンタジーながらリアリティに富んでいます。
作画自体は簡略化されている感がありますが、演出の妙で節約しつつも効果的な描き方をしています。
物語も、どんどこ追い詰められつつ、それでも屈しないエリンさんのタフネスさに心を打たれました。
それがまた「人と獣」というテーマを深化させる。
物語はこうでなくちゃ!
と、膝を打たせる作品でしたね。
これも最終回は今週末ですけれども、この人たちならキチンと終わらせてくれるであろう信頼感と、ここまで来たらどういう終わり方にせよ評価に値するという感謝の気持ちが支えてくれています。
そしてまた重要なのは、この『獣の奏者エリン』という作品はTVアニメという映像媒体でしか成立し得ない作品だった事でしょう。
劇場アニメでも、実写の映画でもドラマでも『獣の奏者エリン』をこのように描ききれなかった。
それはすなわちTVアニメたること、の第一義では無いでしょうか。
だからこそ、この一位をエリンさんとリラン、その仲間たちに捧げさせて頂きます。
帰ってこないナチ
僕は、実のところそこまでタランティーノ(以下QT)に入れ込んでいる訳じゃない。
尊敬する部分は多々在れども、今ひとつ付いて行きにくい部分もあるからだ。
僕がまだそこまで映画ヲタじゃないせいもあるだろうが、冗長に思えてしまう所も結構多い。
確かに会話やら何やらは面白いけど、それが流れとして何か関わってくるの? という気持ちにさせられたり。
しかし、『イングロリアス・バスターズ』はそういった印象をかなり変えさせてくれる傑作だった。
本作はマカロニ戦争映画を元としているようで、バイオレンス描写も派手で面白い。
けれども僕が一番この映画で魅力的に感じたのは「会話劇」という部分においてだった。
この映画、兎に角会話が長い。
たしかに今までのQT映画でも会話シーンというのは沢山ある。
しかしそれが本筋に続くかというと、必ずしもそうではない。
というか本筋自体がとっちらかったり収束したりの繰り返し(それが魅力なんだけど)だから会話=ドラマとは言えないのだ。
『イングロリアス・バスターズ』では、そういった所がかなり違っていたように思える。
この映画、殆ど会話しかしていない。
しかもその中での動きはかなり少ない。
座って話している、それだけの状態ばっかりだ。
ところが、その殆どが日常会話に見せ掛けた腹のさぐり合いなのだ。
上記のQT映画みたいに、ネタのような会話劇が繰り広げられる場合もある。
しかしそれも含めて交流に見せ掛けた化かし合い、というのがこの映画の基本フォーマットで、それが決壊した時にバイオレンスが炸裂する、という構成が大部分を占めている。
『レザ・ボア・ドッグス』も類似の映画ではあるが、あれは「回想」のが会話よりも比重が大きいと思うので、やはり違っていると考える。
この映画の中核は会話だ。
だから普通の会話の緊張感がハンパない。
こいつは○○に気付いているのか? それとも何も思わずに語っているのか?
もし気付いていたとしても、それをすぐには表明しない。
様々な話題の中で一つ一つ、推理を組み立てて、相手を追い詰めていく。
または逆に少しづつ話を核心から逸らしていく。
失敗すれば即暴発。
銃を持ったまま対局する人達のチェスを観ているようなものだ。
特にメインの悪役である“ユダヤハンター”ことハンス・ランダ大佐の会話シーンは秀逸。
彼は自身を『探偵』と称するが、行為の結果を考慮しなければ、彼はまさに探偵と言うに相応しい。
慇懃で、四ヶ国語を操り、推理力も観察力もあって話の組み立ても、交渉としての圧力のかけ方絶妙。
しかも終盤のあくどさと来たらゲシュタポも裸足で逃げ出すレベルで、今後の映画悪役ランキングで常連になること請け合いだ。
また理知的なハンスに対抗するのがバカの塊みたいな「イングロリアス・バスターズ」であり、決着の付け方も両者の違いが存分に出ていた。
またこの世界はあくまで「QTワールド」である。
だから最後は……お楽しみにと言ったところ。
QT映画はオモチャ箱だ、と町山さんも語っているが、今まではそれらが雑然と混在していたような感覚が強かったようにも思える(これは僕が映画者としてのレベルが低いせいかもしれない)
けれども『イングロリアス・バスターズ』はそこからさらに踏み込んで混在しながらも整然としているような印象を受けた。
だから、現時点で僕が観たQT映画の中で一番押したい作品になったと思う。
とはいえ『グラインドハウス』とかもまだ観ていないし『ジャッキー・ブラウン』も厨房の頃に挫折してしまったので、そこら辺から押さえていけばまた違いはあるかもしれない。『キルビル』も2は観てないしなぁ。
でも、取り敢えずは僕の中で
「QT映画と言えば『イングロリアス・バスターズ』!」
にしておきたい。
それくらい楽しく、そしてドキドキする映画だった。
- 帰ってきたナチ―紀州犬 愛の物語 (学研の新・創作シリーズ)/水上 美佐雄
- ¥1,050
- Amazon.co.jp
僕は、実のところそこまでタランティーノ(以下QT)に入れ込んでいる訳じゃない。
尊敬する部分は多々在れども、今ひとつ付いて行きにくい部分もあるからだ。
僕がまだそこまで映画ヲタじゃないせいもあるだろうが、冗長に思えてしまう所も結構多い。
確かに会話やら何やらは面白いけど、それが流れとして何か関わってくるの? という気持ちにさせられたり。
しかし、『イングロリアス・バスターズ』はそういった印象をかなり変えさせてくれる傑作だった。
本作はマカロニ戦争映画を元としているようで、バイオレンス描写も派手で面白い。
けれども僕が一番この映画で魅力的に感じたのは「会話劇」という部分においてだった。
この映画、兎に角会話が長い。
たしかに今までのQT映画でも会話シーンというのは沢山ある。
しかしそれが本筋に続くかというと、必ずしもそうではない。
というか本筋自体がとっちらかったり収束したりの繰り返し(それが魅力なんだけど)だから会話=ドラマとは言えないのだ。
『イングロリアス・バスターズ』では、そういった所がかなり違っていたように思える。
この映画、殆ど会話しかしていない。
しかもその中での動きはかなり少ない。
座って話している、それだけの状態ばっかりだ。
ところが、その殆どが日常会話に見せ掛けた腹のさぐり合いなのだ。
上記のQT映画みたいに、ネタのような会話劇が繰り広げられる場合もある。
しかしそれも含めて交流に見せ掛けた化かし合い、というのがこの映画の基本フォーマットで、それが決壊した時にバイオレンスが炸裂する、という構成が大部分を占めている。
『レザ・ボア・ドッグス』も類似の映画ではあるが、あれは「回想」のが会話よりも比重が大きいと思うので、やはり違っていると考える。
この映画の中核は会話だ。
だから普通の会話の緊張感がハンパない。
こいつは○○に気付いているのか? それとも何も思わずに語っているのか?
もし気付いていたとしても、それをすぐには表明しない。
様々な話題の中で一つ一つ、推理を組み立てて、相手を追い詰めていく。
または逆に少しづつ話を核心から逸らしていく。
失敗すれば即暴発。
銃を持ったまま対局する人達のチェスを観ているようなものだ。
特にメインの悪役である“ユダヤハンター”ことハンス・ランダ大佐の会話シーンは秀逸。
彼は自身を『探偵』と称するが、行為の結果を考慮しなければ、彼はまさに探偵と言うに相応しい。
慇懃で、四ヶ国語を操り、推理力も観察力もあって話の組み立ても、交渉としての圧力のかけ方絶妙。
しかも終盤のあくどさと来たらゲシュタポも裸足で逃げ出すレベルで、今後の映画悪役ランキングで常連になること請け合いだ。
また理知的なハンスに対抗するのがバカの塊みたいな「イングロリアス・バスターズ」であり、決着の付け方も両者の違いが存分に出ていた。
またこの世界はあくまで「QTワールド」である。
だから最後は……お楽しみにと言ったところ。
QT映画はオモチャ箱だ、と町山さんも語っているが、今まではそれらが雑然と混在していたような感覚が強かったようにも思える(これは僕が映画者としてのレベルが低いせいかもしれない)
けれども『イングロリアス・バスターズ』はそこからさらに踏み込んで混在しながらも整然としているような印象を受けた。
だから、現時点で僕が観たQT映画の中で一番押したい作品になったと思う。
とはいえ『グラインドハウス』とかもまだ観ていないし『ジャッキー・ブラウン』も厨房の頃に挫折してしまったので、そこら辺から押さえていけばまた違いはあるかもしれない。『キルビル』も2は観てないしなぁ。
でも、取り敢えずは僕の中で
「QT映画と言えば『イングロリアス・バスターズ』!」
にしておきたい。
それくらい楽しく、そしてドキドキする映画だった。
冒険野郎は高地を目指す
『カールじいさんの空飛ぶ家』を観て参りました。
『WALL・E』までピクサーアニメってちょっと敬遠してたんだけど、やっぱり面白いんだよなぁ。
普通は字幕で観るんだけど、今回は3D&吹き替えで。
だってカールじいさん役は飯塚昭三さん !
こりゃ吹き替えしかないな、という。
全体的に言えば、ちょっと引っ掛かる部分はあるもののそこも色々解釈出来ない程ではなく、出来の良い映画でした。家族物としても、疑似家族物としても、冒険物としても秀逸。
冒頭のエリーと出逢ってから別れるまでに、もう泣けそう。
冒険映画に憧れて、同じ様な女の子に出逢って、結婚して、でも子供は出来なくて、冒険を望んでも生活によってままならなくて……
『グラン・トリノ』と非常に雰囲気がよく似てるんだよなぁ。
妻と死別した孤独な老人、そこへやってくるお手伝いの少年、犬……。
コワルスキにとっては、執着の対象はグラン・トリノだったんだけど、カール・フレドリクセンにとっては家でありエリーとの思い出であり、冒険の約束でもある(この三つは不可分)
コワルスキは家のデッキ(って言うんだろうか?)に座り、流入する外国人を睥睨して舌打ちをして、痰を吐くが、フレドリクセンにとっては周囲に建ち並び始めたビルを睨め付ける行為になっている。
多少の違いは在れども、流れから取り残され周囲から孤立する老人という像は、殆どおなじだと言っても過言ではないだろう。
はじめは煙たがっていた少年と行動を共にする内に、自らを仮託するような関係になっていく部分も同じ。
また少年に(事実上)父親が居ない、老人に(心を許せるような)子供が居ないのも共通している。
これは模倣と言うよりも、疑似家族物として考える時、結構必然的に共通してしまう部分なのかもしれない。
孤立の結果、フレドリクセンは家に風船を付けてエリーとの約束の地である「パラダイスの滝」に向かう。
感動的にも思えるシーンなのだが、この時点での動機はむしろ消極的だ。
もしカールに自らの子供が居たとすれば、選択肢も違っていただろう。
だからこの出発は「願望」であると同時に「逃避」でもある。
お話としてちょっと以外だったことの「その1」は、存外早く目的地近くまで辿り着いてしまった事かな。
ぶっちゃけずっと空飛んできて、最後に滝に降り立つと思っていたからやや拍子抜けの感もあった。
もちろんそこからが長いんだけどね。
ちなみに「パラダイスの滝」及びその周邊のモデルはギアナ高地 。
そう……
チャレンジャー教授一行が目指し、
川口浩探検隊が目指し、
ドモン・カッシュが明鏡止水に目覚めた
ギアナ高地。
やはり男だったら一度はギアナ高地を目指すというその心意気はよく分かる!
俺は行けないとは思うが、やはりあの非現実的な光景は冒険心をくすぐる何かがある。
ちなみに、敵キャラに当たるのはフレドリクセンが憧れた、精神的な師とも言える探検家チャールズ・マンツ。
ギアナ高地で師匠と対決。
Gガンかよ! っていうね。
それは兎も角、マンツの求める怪鳥を巡って二人は対立するんだが、ちょっと最後が可哀想な気もした。
それと共に、マンツにしろフレドリクセンにしろ夢を求めてこの地に降り立ち、夢を探し続けているという意味に於いて両者は極めて近しい存在だ。師弟関係、というのもそれを示唆している。
でもちょっとマンツが悪役化し過ぎに見えるような所もあって、もう少し相対化して欲しいかなとも感じた。
ただし両者には大きな違いがある。
それは家族との絆、そして優しさだ。
マンツは愛犬家だが、実質的に彼らとは主従関係に過ぎず、孤高の存在だ。
フレドリクセンは物語当初こそ、そういう傾向もあったけれども、彼にはエリーが居て、ラッセルや犬のダグが付いてきて怪鳥ケヴィンも居た。それは何処かで断ち切ろうと思えば断ち切れなくはなかったが、結局彼はそれを許容する。そして見捨てない。
一度だけ、見捨てようとした時があったが、それもエリーの冒険ブックの言葉で立ち直り、救いに行く。
そこが一番の大きな違いだろうと言える。
エリーの冒険ブックもとっても素敵で、「冒険」とは本来的な意味で秘境や変わったところを探索する事もさることながら、大切なのはそれだけではないんだ、というのを映像として見せ、さらにフレドリクセンの行動として現れてくるところが素晴らしい。
こういった絆の描き方もまた、『グラン・トリノ』に通じる。
さっきも少し言ったが、最後のマンツの描き方に関してもちょっと「?」な部分はある。
だが利己に執着した者と、利他の為に何かを出来る者(そして大事なものを託せる家族の有無)と対比した結果と考えれば、やはり理解出来なくはない。この両者は冒険の動機からして利己と利他の対比があるのだ。
またマンツ自身の「その後」は描写こそされていないものの、充分にあり得る訳で、そこは観客としての想像の働かせどころとも言える。
ちなみに俺は
足腰ダメになったけど、ケヴィンに介護されて仲良く暮らすようになりました
……って可能性を思い描きました。
ともあれ、本作の魅力はこういったテーマ的なところもさることながら、ガジェットの使い方の巧さ、また動きや展開のコミカルさも大きなウェイトを占めている。そういった短期的な面白味と長期的なプロットの巧みさドラマ性の高さが組み合わさっている。
個人的には『WALL・E』のがやや評価は高いけれども、やはり観て損はない名作であることは間違いないですね。
『カールじいさんの空飛ぶ家』を観て参りました。
『WALL・E』までピクサーアニメってちょっと敬遠してたんだけど、やっぱり面白いんだよなぁ。
普通は字幕で観るんだけど、今回は3D&吹き替えで。
だってカールじいさん役は飯塚昭三さん !
こりゃ吹き替えしかないな、という。
全体的に言えば、ちょっと引っ掛かる部分はあるもののそこも色々解釈出来ない程ではなく、出来の良い映画でした。家族物としても、疑似家族物としても、冒険物としても秀逸。
冒頭のエリーと出逢ってから別れるまでに、もう泣けそう。
冒険映画に憧れて、同じ様な女の子に出逢って、結婚して、でも子供は出来なくて、冒険を望んでも生活によってままならなくて……
『グラン・トリノ』と非常に雰囲気がよく似てるんだよなぁ。
妻と死別した孤独な老人、そこへやってくるお手伝いの少年、犬……。
コワルスキにとっては、執着の対象はグラン・トリノだったんだけど、カール・フレドリクセンにとっては家でありエリーとの思い出であり、冒険の約束でもある(この三つは不可分)
コワルスキは家のデッキ(って言うんだろうか?)に座り、流入する外国人を睥睨して舌打ちをして、痰を吐くが、フレドリクセンにとっては周囲に建ち並び始めたビルを睨め付ける行為になっている。
多少の違いは在れども、流れから取り残され周囲から孤立する老人という像は、殆どおなじだと言っても過言ではないだろう。
はじめは煙たがっていた少年と行動を共にする内に、自らを仮託するような関係になっていく部分も同じ。
また少年に(事実上)父親が居ない、老人に(心を許せるような)子供が居ないのも共通している。
これは模倣と言うよりも、疑似家族物として考える時、結構必然的に共通してしまう部分なのかもしれない。
孤立の結果、フレドリクセンは家に風船を付けてエリーとの約束の地である「パラダイスの滝」に向かう。
感動的にも思えるシーンなのだが、この時点での動機はむしろ消極的だ。
もしカールに自らの子供が居たとすれば、選択肢も違っていただろう。
だからこの出発は「願望」であると同時に「逃避」でもある。
お話としてちょっと以外だったことの「その1」は、存外早く目的地近くまで辿り着いてしまった事かな。
ぶっちゃけずっと空飛んできて、最後に滝に降り立つと思っていたからやや拍子抜けの感もあった。
もちろんそこからが長いんだけどね。
ちなみに「パラダイスの滝」及びその周邊のモデルはギアナ高地 。
そう……
チャレンジャー教授一行が目指し、
川口浩探検隊が目指し、
ドモン・カッシュが明鏡止水に目覚めた
ギアナ高地。
やはり男だったら一度はギアナ高地を目指すというその心意気はよく分かる!
俺は行けないとは思うが、やはりあの非現実的な光景は冒険心をくすぐる何かがある。
ちなみに、敵キャラに当たるのはフレドリクセンが憧れた、精神的な師とも言える探検家チャールズ・マンツ。
ギアナ高地で師匠と対決。
Gガンかよ! っていうね。
それは兎も角、マンツの求める怪鳥を巡って二人は対立するんだが、ちょっと最後が可哀想な気もした。
それと共に、マンツにしろフレドリクセンにしろ夢を求めてこの地に降り立ち、夢を探し続けているという意味に於いて両者は極めて近しい存在だ。師弟関係、というのもそれを示唆している。
でもちょっとマンツが悪役化し過ぎに見えるような所もあって、もう少し相対化して欲しいかなとも感じた。
ただし両者には大きな違いがある。
それは家族との絆、そして優しさだ。
マンツは愛犬家だが、実質的に彼らとは主従関係に過ぎず、孤高の存在だ。
フレドリクセンは物語当初こそ、そういう傾向もあったけれども、彼にはエリーが居て、ラッセルや犬のダグが付いてきて怪鳥ケヴィンも居た。それは何処かで断ち切ろうと思えば断ち切れなくはなかったが、結局彼はそれを許容する。そして見捨てない。
一度だけ、見捨てようとした時があったが、それもエリーの冒険ブックの言葉で立ち直り、救いに行く。
そこが一番の大きな違いだろうと言える。
エリーの冒険ブックもとっても素敵で、「冒険」とは本来的な意味で秘境や変わったところを探索する事もさることながら、大切なのはそれだけではないんだ、というのを映像として見せ、さらにフレドリクセンの行動として現れてくるところが素晴らしい。
こういった絆の描き方もまた、『グラン・トリノ』に通じる。
さっきも少し言ったが、最後のマンツの描き方に関してもちょっと「?」な部分はある。
だが利己に執着した者と、利他の為に何かを出来る者(そして大事なものを託せる家族の有無)と対比した結果と考えれば、やはり理解出来なくはない。この両者は冒険の動機からして利己と利他の対比があるのだ。
またマンツ自身の「その後」は描写こそされていないものの、充分にあり得る訳で、そこは観客としての想像の働かせどころとも言える。
ちなみに俺は
足腰ダメになったけど、ケヴィンに介護されて仲良く暮らすようになりました
……って可能性を思い描きました。
ともあれ、本作の魅力はこういったテーマ的なところもさることながら、ガジェットの使い方の巧さ、また動きや展開のコミカルさも大きなウェイトを占めている。そういった短期的な面白味と長期的なプロットの巧みさドラマ性の高さが組み合わさっている。
個人的には『WALL・E』のがやや評価は高いけれども、やはり観て損はない名作であることは間違いないですね。
罪と罰
遂にシュナンが進軍し、遂にセイミヤが旗を掲げ、遂にヌガンが反旗を翻す。
そして遂にエリンが……というクライマックス。
セイミヤフラグで決着しては(物語的には)元も子も無いのでこういう展開になるのはむべなるかな、ですがそれでもこの行動の意味は重い。
やはりエリンさんは目の前の危機を見過ごせるような人間じゃない。
いや、或いはそうなった可能性はあるのかもしれないけれども、母を亡くし、ナソンの傍観を責めた言葉は自らにも返ってくる。その結果の行動。
光を浴びた金色の姿は王祖ジェを思わせるものでしたが、やはりエリンさんの中にはある種の覚悟が存在している模様。
罪には罰を、自ら進んで受けようとしているんだろうなァ。
そんな訳で死亡フラグ立ちまくりな彼女ですが……色々あってその先を知った俺涙目。
でも、優れた物語は知ってても感動するので大丈夫だと思っているよ。
あとは見守るだけで、考察も殆ど無い。
一応ソヨンと闘蛇の大量死が気になるが……なんかソヨンの声も聞こえていたから何か分かるかな?
次週
『獣の奏者』
いよいよ最終回。
遂にシュナンが進軍し、遂にセイミヤが旗を掲げ、遂にヌガンが反旗を翻す。
そして遂にエリンが……というクライマックス。
セイミヤフラグで決着しては(物語的には)元も子も無いのでこういう展開になるのはむべなるかな、ですがそれでもこの行動の意味は重い。
やはりエリンさんは目の前の危機を見過ごせるような人間じゃない。
いや、或いはそうなった可能性はあるのかもしれないけれども、母を亡くし、ナソンの傍観を責めた言葉は自らにも返ってくる。その結果の行動。
光を浴びた金色の姿は王祖ジェを思わせるものでしたが、やはりエリンさんの中にはある種の覚悟が存在している模様。
罪には罰を、自ら進んで受けようとしているんだろうなァ。
そんな訳で死亡フラグ立ちまくりな彼女ですが……色々あってその先を知った俺涙目。
でも、優れた物語は知ってても感動するので大丈夫だと思っているよ。
あとは見守るだけで、考察も殆ど無い。
一応ソヨンと闘蛇の大量死が気になるが……なんかソヨンの声も聞こえていたから何か分かるかな?
次週
『獣の奏者』
いよいよ最終回。