リュウセイグン -14ページ目

リュウセイグン

なんか色々趣味について書いています。

長文多し。

釣瓶の悲哀



ディア・ドクター [DVD]/笑福亭鶴瓶,瑛太
¥3,990
Amazon.co.jp



昨年の映画でもかなり評判の良かった『ディア・ドクター』のDVDを買って観ました。
いや、これは確かに名作だ。
決して派手では無い映画だし、高年齢層向けの感があるし『おくりびと』を彷彿とさせるような完成度の高い人間ドラマ。
正直、邦画界はもうこういうコンテンツで世界と戦っていくしかない気がするなぁ。
日本で売り上げが伸びたエンターテイメント大作は、概ね(拙い)CGだよりで脚本が妙なのばっかりになってしまったようだ。これは国内では売れても他からは鼻で嗤われるのがオチ。
映画業界ではマジで驚くような作品を作り出しつつある韓国にも抜かれかねない

殺陣をしっかり出来る人も撮れる人も少なくなっているだろうし、ミステリ的な作品も相棒とかアマルフィとか、どうも首を捻りたくなる手合いが幅を利かせている(相棒のドラマ自体はそんなに嫌いでもないんだけど)
やはりこういった現状を鑑みると、胸を張って世に出せる類の物は丁寧でコメディ要素を交えつつもしっとりした人間ドラマではなかろうか。
去年は邦画を殆ど観てないんだけど、『ディア・ドクター』なら『グラン・トリノ』『レスラー』勝てるとは行かないまでも充分「戦える」

さてそんなディア・ドクターの主演は釣瓶師匠だ。
その事を知らない人間には「?」という感じも受けるかもしれない。
釣瓶師匠は役者が本業ではないし、そんなに上手いという話も聞かない。
だが心配は無用で、人の良い、でも何を考えているか分からない男を見事に演じている。

一番感心したのが気胸の患者を救ったあとのシーン
大歓迎する村人とは対照的に、釣瓶師匠の顔には悲痛さすら見て取れる。
いつもニヤけているようなあの顔で……いや、あの顔だからこそ悲しみが一層深く表現出来るのだ。、
釣瓶師匠の悲哀
文字で書くとなんじゃそりゃという感じもあろうが、そうとしか言いようのない絶妙な雰囲気を醸し出している。

周りの役者も粒ぞろいで良い。
八千草薫さんは、本作のヒロインと言って良い。
釣瓶師匠も結構な年だし八千草さんもかなりの年齢だ。
にも関わらず、少女のような愛らしさと母親らしい優しさが同居しているような不思議な印象を残す。
脇役の余貴美子さんや、香川照之もいい味出してる。
本作の登場人物は必ずしも一面的なキャラクタではなく、二重三重の葛藤や人間性を持っていて表層的な関係の単純さに比して内面はかなり複雑なのだが、それを上手く表現している。もちろん瑛太さんもねw

ストーリーは過去と現在が交錯するような形で綴られているのでやや分かり難い面もあるが、それがまたミステリ風味を与えていて観客を飽きさせない。
テーマについても、表層では過疎化や老人医療問題、またインフォームドコンセントに関する問題が提示され、深層では医師の資格とは何か、また善意や良心についてを突き詰めている。

ここ辺りの香川照之のやり方が物凄く面白い上に分かり易く端的で、名シーン、名台詞のひとつだと思う。

冒頭で示されるとおり、最終的に釣瓶師匠と村人との共同生活は破綻する。
その後は従来の関係も打ち壊され、あまり救いのある状況には見えなくなっている。
しかしながら、釣瓶師匠が行ってきた善意や誠意は、果たして何の意味も存在しなかったのか
全てではないにせよ、その一つの答えがラストシーンだ。

他の人は、この作品に関して釣瓶師匠の弱さが好きだ……と書いた。
そのブログは好きだし、本作を観たのも実のところそれが切っ掛けと言っても過言ではない。
しかしながら弱さだけじゃないよなぁ、と思う。
もちろん弱さはある。
恐らく釣瓶師匠がアレを始めた動機は偶然に起きた機会に誘惑されて負けてしまったからだし、最終的には逃げた。でも必死になって何年間も村に尽くし続け、あのラストシーンへ持ち込んだその精神と行動力は「強さ」じゃないかと感じる。強かさ、という方が正確かもしれない。

強いだけじゃなく、弱いだけでもない。

弱くても最後の最後まで粘ればそれは強さとも言えるだろうし、
強くてもぽきりと折れてしまえばそれは弱さかもしれない。

それは、この映画の登場人物全てに言える事だろう。
人間の複雑さと素敵さを描いたこの作品、邦画はまだ死んでいないんだという気持ちを込めて色んな人にオススメしたい。
今のところ雰囲気的に全然好きじゃない空音なのですが、一番引っ掛かるのが


この作品ってどういう方向性なの?


というもの。これは作品擁護をしようとしている人ですら図りかねている模様。
僕もよく分からなかったのですが、第二話でなんとなくどうなるかが読めそうだったので事前に記しておこう……というのが今回の記事です。

まぁ、二話も「くうおん!」の異名に違わないような展開でしたが、その実、砦の現状が判明したので読めるようになったんですね。とは言え、勿論あくまでも予想ですから外れる可能性はあります。
ただこの予想が外れた場合、ギミックやガジェットは出てくるのにそれを充分に生かせない可能性も増加し、「結局何がやりたいのかサッパリだったね」というような結論になる恐れがあります。
これは何も僕の思い通りに行かないからダメ、というのではなくて砦の状況や小道具&大道具を登場させても物語に絡ませないという行為が創作上如何なものかな……と思うからです。
僕が大体に於いて予想する物は物語の予め配置された要素を有機的に絡ませて組み立てる事を前提としています。DTBの背景考察なんかもそれに倣ってやっています。

例えば戦車を出しても戦車を使わなければならないような展開が発生しない場合は予想の範籌外です。
しかしそれは逆に「何故戦車を出したの?」という疑問が解消されない為に、お話としては違和感を残す結果になるのです。

もちろん、予想を上回る展開になることも当然あります。
以前ハガレンの本誌展開を予想しまして、途中までは当たったんだけど結末は外れたという事がありました。
これは荒川先生のストーリーテリングが僕如きの予想を超越していた為に外れました。
こういう場合は、外れても悔しいどころかむしろ尊敬してしまうレベルですね。



さて空音は、どうなるか、予断は許しませんが予想はしてみましょう。


けいおん的な進み方ならそれはそれで構わないのですけれども、ツマランので却下。
監督の経歴から予測される陰惨ぽい展開を考えていきます。


敵は国家か怪物か
空音では軍隊物の一面があり、また1話で明かされた悪魔伝説があるので、陰惨ルートで考えるならば悪魔復活と戦争再開の二つの可能性が示されています。
しかし第二話では実質的に敵国からの侵攻の可能性は極めて低くなりました。
なんでも砦の向こうは山、その向こうはノーマンズランドと呼ばれる人跡未踏の地。
ノーマンズランドというと僕なんかは対人地雷とか沢山あるのかなぁ ……みたいなイメージがあるんですけど、ようは荒野とか人跡未踏の地です。
一応敵国の領土ではあるらしいですが、荒れ地と山……わざわざそれを乗り越えてくるのは大規模な奇襲以外には意味がありませんし、奇襲にしても地理的に非常に困難で補給も受けにくく、攻めにくく逃げにくく本国からも断絶されてしまうので落としても旨味が少ないという戦略的に全くと言って良いほど意味のない土地であると判断出来ます。
よって、敵が休戦協定を破る気でも攻め込まれる方が極めて不自然な状況です。
だから敵は国じゃない。

一方で、ロートルかなんだかよく分からない自立歩行戦車とやらが出てきます。
本当に単なる中古品なのか、実は過去の遺産的な結構凄い兵器なのかは判然としませんが、ともかく特異な戦車ですしそれなりの存在感で描こうとしています。こういう風に出てきたからには、ややコメディチックなシチュエーションであったホットラインとは異なり、何かに用いられることが推測出来ます。

戦車の用途と言えば「戦闘」これ以外にはありません。
何と戦うのか……ここは消去法で悪魔と考えられるのではないでしょうか。
理由は上記の他にもあります。
何と戦うにしろ砦の兵器は自立歩行戦車1台と重機関銃1台(大で良いのか?)自動小銃は気休め程度で、拳銃に至っては自分の身を守れるかどうかすら怪しい。
これは敵国の軍隊が組織的に攻め込んできた場合、どう足掻いても勝てない。相手もそれなりの数を揃えてくるだろうし、基本的には向こうの性能のが良いでしょう(技術衰退期にも思えるので戦車そのもののスペックは高いかもしれないが、壊れてるから)
となれば、防衛なんざ望むべくもない。
しかし相手が一体で、あまり頭の良くない怪物だったら?
相手のレベルにも依りますが、これは戦車一台で何となく対抗出来てしまってもおかしくはないでしょう。

自立歩行が出来ない状態ですが、ここは「パーツを代用して整備士がなんとか直す」か「足は諦めてキャリアー動かして砲塔だけ引っ張り出して戦う」という2パターンが推測出来、両方とも物語の見せ場としては充分あり得ます。

ラッパがどういう役目かは(伝説通りに呼び合い・位置確認だけではあまり面白くない)難しいところですが、これもまた活用してくるでしょう、多分。

そして更に考えるならば、1話の伝説語り並びにOPに出てくる壁画は過去の物ではなくて未来の物かもしれない……と考察するのも可能でしょう。
始めの伝説そのものは昔の話なのでしょうが、あの壁画が現在のセーズや砦に現存しているとは誰も言ってませんし彼女たちがその壁画を観ているようなシーンもない。
よってカナタたちが悪魔退治に貢献し、(多分死んでから)その結果として壁画に残された物である……との考えは充分成り立つのです。それならば顔がまんまなのも納得がいく。
で、現在のけいおん路線が何処で変化するかと言えば5話以降ではないかと思います。
恐らく一人一人の紹介で進めていき、そこから不穏な話を織り込んで最後でドーン、とさせるのを考えるならばその辺りが妥当かと考えるからです。また悪魔の正体も本当にファンタジーなのか、ちょっと気になります。
文明を滅ぼす端緒が悪魔、という推察も出来るでしょう。
空音の考察はこんな所でしょうか。
僕としてはけいおん路線よりも血湧き肉躍ってくれた方が良いので、そういう風になると評価もある程度変わってくるかもしれません。ただ単なる残虐も好きではないので、悪魔路線は悪魔路線でキチンとドラマを造って頂きたいと思います。












でお次はDIV。
この第1話は概ね「前半ダメ、後半オッケー」な感じで評価されている模様です。
しかし僕の評価は寧ろ逆、前半微妙・後半アウト。
逆じゃなくてどっちもダメやんけ、というツッコミは甘んじて受けますが、作品として魅力や可能性を感じたのは断然前半。
僕はこういう番組大好きなんで、クオリティ云々っつーか、どちらかというと好みの話なんですけどね、ええ。
ただ、やはり微妙は微妙で、単なるバラエティとして創っているのか、オカルトバラエティのツボをあんまり押さえていない造りだったのでそこがとっても残念。
まず第一にオカルトバラエティではあんまり顔モザイクとかボイスチェンジを使いません。
まぁ確かに国内で進行中の事件ですので、或いは事件物を意識した造りなのかもしれませんけれども。
オカルトではどちらかというと普通に顔出ししてたりする方が多いですね。

あと司会。女子アナは兎も角としてオカルトバラエティでは芸人かイケメンアイドルが中心です。
これはBPO辺りからツッコまれた時に「あくまでバラエティで、ジョークですからw」と逃げ道を作れるように、という噂があります。それが真実かはさておき、こう言う時は基本はお笑いの人で、会場が怖がっている雰囲気の時に妙に上手いことをいって和ませるのがセオリーです(作中でも久本もどきが似たようなことをやっていましたが、あまり上手くなかった)案外和ませ方は面白いんだよ。
そして懷疑派というか、否定派の教授はあんなに余裕を持ってちゃいけません。
子供染みた内容でも真っ赤になって否定して、肯定派の誰かとガチな喧嘩になって司会からなだめられるくらいじゃないと。肯定派もやはりガチでトンチンカンな事を言うヤツが居てくれないとダメ。
そして会場の空気は基本信じてる方向。ビビる時のリアクションは派手。
アイドル出てもあんまりキャーキャーはしていない。
これがオカルトバラエティのツボ。

後半部でトゥルーへの傾きによる皮肉を演出する為にも多くの人による否定的な見解が必要だったりしたんでしょうが、映画の番宣とかは良いアイディアだったのに、細かいところでバラエティをバカにし過ぎて逆に実際のそれより遙かに詰まらない物になってしまったのが何とも残念。
こういう部分にこだわれるかどうかって案外重要なんだよな~……僕の中ではねw
そんで後半が更にしょうもない理由。

敵ヴァンパイアが小物で大したこと無い奴だと示唆されまくってる事です。

オカルトをギャグに出来るバラエティに、本気のオカルト、本当に怖い奴が登場するからこそヴァンパイアの凄さが分かるのに、登場する前から小物宣言で実際出てきたのがカメレオン男。心理状態が化身に反映するって設定はいいんだけど、しょっぱながカメレオンじゃ吸血鬼って概念からかけ離れすぎるしデザインもマヌケなので如何にもショボい。
だからカメラ転がるってッモッキュメンタリー的な映像も、対して怖くないし驚きもしない。
ショボいのが出てくるだけならバラエティが要らないんですよ。
ショボい番組+ショボいクリーチャーじゃ対比にならん。
ショボい番組+すんげー怖いクリーチャーだから観て怖いし、オカルトをバラエティ化する人間へのしっぺ返しになるのになァ。
そういう意味で、かなり残念な1話だった。
ちなみに第1話からバラエティ形式はたしかに新しいかもしれないが、バラエティ形式の世界観説明自体はすでにエレメントハンターが2話にして通り過ぎていることを付記しておきたい。
『とある科学の超電磁砲』第14話は2ch本スレでは賛否両論みたい




あのー……悪いけど今までで一番しっかり出来てるんじゃね?




唐突にレールガン記事なぞを挙げてしまったのは要するに↑こういうこと。
観てはいたんだが微妙な部分が多いので書く気にはあまりならなかった。
確かにとあるシリーズの魅力はバトル方面にあるんだろう。
そして例えば「『キミトド』はバトル要素がないからダメ」みたいな意見があったとして、そういう指摘は明らかに見当違いだ。だからもっとバトルを……という人の気持ちは分からんでもない。
でも先週の水着回に続いて、こういうシックな回があっただけでこんなにブレるとは……。
水着には文句言わなかったみたいなのにな~。

そして他にもやられやく記事であったが、『デュラララ!』をオサレアニメとしてDTBのが良いとか言っちゃう人もいる。まぁ『デュラララ!』はかなりオサレな部分もあるし、正直IWGP+バッカーノ!+スリーピー・ホロウといったところで個人的評価がそれほど高い訳でもないんだけど、少なくともDTBより遙かにギミックやプロットは頑張ってる。
ていうかDTBこそオサレアニメだと思うんだが………。


アニメ視聴者層の大半って、分かり易くパンチラとか必殺技とか説教が無いと反応出来ないものなのか?
いやまぁ映画界でも『ROOKIES』とか『20世紀少年』とか『アマルフィ』みたいなのばっかりだからみんな同じなのかもしれないけどさ。いつも思うんだよね、ひょっとしたらこういう層って『レスラー』とか『ディア・ドクター』を観ても意味不なのかもね……って。
相対的な物でもあるし、そうそうとやかく言っちゃいけないのかもしんないけど。


今回のレールガンは、当シリーズのメインストリームからは外れていたかもしれないが、少なくとも心理的ドラマとしては一番良く描けていたと思う。
細かい動きや人気のない校舎やそれに関わる小物、天候で心理や状況を表現する手法は、上記で語られているようなまったり系というのとはちょっと違う。
日本映画みたいな感じだったように思う。
人の心の機微を静かに描いただけで、演出としても出来は決して悪くない気がする。
それだけではなくてドラマの軸として佐天さんの心理、つまり負け組というか様々な意味で弱い立場の人間として描いていた。実はこの辺りの問題が、今までのレールガンにおいて致命的とも言える欠点だった。





例えば黒子は回想に於いて銀行強盗へ不屈の精神を見せる。
それは良い事なのかもしれない。本人にとっては。
しかし周囲は人質だらけ、しかも二回も独断専行で事態を悪化させた挙げ句の挑発。
しかも無策で(もしくは拙策)。
本人はカッコイイと思ってるのか分からんが、人質が裁判起せるレベルの酷い事態だった。
視聴者は黒子目線に設定されているから格好良く見えるかもしれないが、普通に考えてあの状況では最悪の手段だし、美琴の援護射撃が無ければ結果も最悪だっただろう。

美琴もまた、しばしば自分の立場を弁えない。
レベル1から努力してレベル5になった。それは分かる。
でも何百万も居る学園の中でレベル5は7人くらいしか居ないんだから、それが努力だけでどうにかなるものじゃない事は容易に判断がつくだろう。それなのに「ハードルの前で立ちすくんじゃう人もいる」とか言っちゃう。美琴にとってはそれがハードルでも、他人にとってはジェリコの壁なのかもしれないと言うことは全然考えない。0や1の中には努力不足の人も居るだろうが、努力した結果のレベル0も居るだろう。能力種としての多寡もレベルには関係有るようだし、やはりこれは才能の差によるものが大きいと考えるしかあるまい。

「もう一度頑張ってみよう」それも確かに大切、でもどうにもならない奴だって居るんじゃないの?
「無能力者の事を分かってあげられなかった」これ自体が美琴の立場からすると傲慢になりかねない……というより俺は「持てる者、富める者」がその立場を弁えずに安易な同情をしているだけに見えてとても嫌だった。
いっそのこと「超能力だけが全てじゃないでしょ!」「私はたまたま超能力に特化してただけ」とか言ってくれた方がスッキリすると思ったくらい。

この場合、美琴が超能力者として優秀だからこそ、そこに絶対的な価値観を置かないという格好良さが出てくるからだ(佐天さんに言った「レベルなんて」という言葉や、一日ジャッジメントとしてのドジッ子っぷりがあるから説得力がある)
学園都市だからこそ、この価値観が重要になってくる部分があるのだが、絶対指標ではない筈だ。
レベルアッパー使用者も無使用者も含めてこの価値観を前提としてしまっているから劣等感も出る……まぁこれは現実社会でも同じ事ですけどね。

能力レベル=学力
レベルアッパー=ヒロポン的な記憶力とかの良くなるおクスリ

と考えれば分かりやすいかな。
改変してみよう。



「○大とか全然大したことないよ~(東大でも京大でも医大でもお好きな物を)」
「私は学力テストや宿題があったら一生懸命やっちゃうけど、それが出来ない人もいるんだよね……」
「そんな物に頼らないで、もう一度頑張ってみよ」(と言ってくる○大生)
「勉強出来ない人(やらない人)の気持ちが分からなかった私達が、この事件を起こしたのかな……」



うわ……改めてこの女ムカツく!
そこまで学力で劣等感を味わったことはないけど、それでもこんな奴がいたら近寄りたくないわ。
喩えるとこんなに分かり易くなるんだな。



彼女は存在自体が上位であり、結局の所その上位を受け入れたままで物事を言っている。
上から目線だ。

当然ながら色々と擁護や反論もあるだろうが、やっぱ諦めるなとかもう一度頑張れ、じゃ無責任だと思うんだよね。
そもそも完成したのか分からんが、今の美琴達が能力にかんして努力してる描写は無い(レールガンに於いて)んだし、第一これって「夢を諦めるな」みたいな話なんだけど、こういう事を言う人は大抵言うだけで放置。
でもその後の結果は本人が負う。
自分の行動の結果を自分が負うのは当たり前だが、カッコイイ事だけ言い放しの無責任な助言者もどうかと思う訳。リスクもメリットも教えて、それだけが道じゃないと示して、その上で個人的な立場として勧めるなら分からんでもないんだが。だから「超能力だけに拘ることもない」って言えば良いなと。
超能力に費やす分、他の才能に割く時間はなくなるしな。
まぁ、でも世の中にそういう人は多いだろうから、別に良いのか。主人公がそんな奴でも。
俺は嫌だが。

ついでに言えば、この世界の超能力の有りようもかなり偏っているみたいなのでぶっちゃけ超能力が個々人の人生にそこまで大事とも思えないんだよね~。
だって学園都市でしか使うの許可されないらしいし、その中でも使うことと言えばケンカばっかり。
そんでもって研究材料にされたり、下手にレベル高けりゃクローン創らされてぶっ殺されたりぶっ殺したりするんだろ?
ロクなもんじゃねぇ~。
っていうか学園都市全体がDQN思考な気が……(彼らは彼らの目的の為にやってるんだろうから、それで良いんだろうけど)人類へのエネルギー資源とかで活用ならまだしもねぇ、個人としては殆ど意味無いじゃん。何に使える? プール掃除とIHヒーターくらいだよな?
こんな使用状況が限定された超能力なら無い方がマシなんじゃないか。


閑話休題。
木山先生を止める時も美琴は「迷惑を掛けるのは良くない」という反論しか言わない。
個人の意志ではなく、一般論だ。
木山先生はそんなの承知でやってるだけだから、一般常識なんか何の痛痒も感じないに決まってる。
だから実のところ、舌戦では全く適っていない。
木山先生の「子供を助ける」という意志を摧いてまで、果たさなきゃいけない程の物がない。佐天さんを助けるという意志を入れても良いけど、ぶっちゃけこの部分は美琴の知らぬままに回避されてしまっているのであまり説得力が出ない。
この状態のままで木山先生を倒してしまうと、美琴が悪者に見える可能性がある。
だからこそ、木山先生は途中で「暴走」という形で退場させられてしまったのだ。
主観がほぼそのままで通せてしまう。これがレールガンに通底する物語的な歪みだ。
主役に背骨が無く、相手に背骨がある場合、主役を肯定する為に相手がわざとダメになったり、状況が変化する。
これは何もレールガンだけではなくギアスやガンダム00といった近年アニメの作品群にも共通する傾向であろう。

ただ、他に悪例があるからと言って免罪される訳でも無く、僕としてはこのシリーズで一番引っ掛かっている部分だった。





対して今回のエピソード。
佐天さんは元々下の立場から眺めているから自らを着飾る必要がない。
スタッフも無理矢理佐天さんを正しく見せようとする必要がない。
そして自分の中の問題点と向き合える。
主観と客観の両面から描ける。
弱さを認めつつも、もう少しやってみようと言う気持ちで行ける。
佐天さんは正しいことを行う精神力はあるのに、武力が及ばなかった人間である(レベルアッパーを使用する前後の回を参照)弱さと強さを往復する存在なのだ。弱くても、それなりに出来ることはある。
だから、このエピソードは上から目線だった美琴の「もう一度頑張って」という言葉をも補う意味合いがある。あれだけだったら、力ある人の力有る立場からの押しつけた同情だからな(まぁ美琴自身に悪気は無いんだろうが、それが逆に厄介でもある)
今回のは力無い人の、力無い立場からの決意と選択。
だからコレを観て思ったものだ。

「スタッフ、出来るじゃん」

この佐天目線は、ぶっちゃけ上の立場を無意識に享受している美琴目線(主人公目線)からずらさないと思い付かない方向だ。だから多分、コレを書いた人達はどっかで美琴の傲慢さを悟っていたんじゃないかなぁ。
だからこの回はレベルアッパー編の補完、という位置に留まらない。
レールガンにしばしば顕れる「傲慢さ」への補完なのだ。
もっとも、元からそんなモンを感じていないであろう多くの視聴者方には蛇足でしかなかったようだが。
それにしても佐天さんはほぼオリジナルキャラだからか、無能力者だからか、一番心理的な部分が身近にというか、迫って描かれているような印象を受ける。上記のレベルアッパー使用前後の話も佐天さん絡みのエピソードは良かったしなァ。この作品の中では一番好感の持てるキャラ。

別にバナナマンとフラグが立ったって良いじゃないかなぁ、ヲタとしてはむしろ夢が広がるんじゃないの?
但しイケメンに限らない、って感じで。性格の良さが垣間見える、と解釈することも出来るし。

初春は扱いが微妙だが性格は良いっぽいし、黒子は(回想の時こそ嫌だったが)変態なのでそこでキャラが集約出来る。美琴も日常パートでは可愛い女の子というにやぶさかじゃないだろう。
ひょっとしたら問題は、シリアスドラマ中の視点だけなのかも分からんね。



補足
難しい問題なのだが、レベルアッパーはズルか否かという。
そもそもこの学園都市では木山先生の事例ほど極端では無いにせよ、超能力開発として薬物投与や脳への電気刺激などが行われているらしい。それが良くてレベルアッパーがダメなのかという理由は副作用という一点しか無い(正式認可されていない超能力開発グッズに関する法令でもあれば別)
だから境界線が物凄く曖昧なのだが、ここで佐天さんが「ズル」言ったたのは恐らく初春の見解に則って「ズルしない」と約束したからじゃないかな。
あけましておめでとうございます




そんな訳で挨拶だけ済ませて新年一発目は『獣の奏者』の第二部にいってみましょう。
ちなみにネタバレするよ!










第一部以上に物議を醸しそうな展開。
正直二部の話は評価に悩むかも。
否定したいけどしきれない、そんな感じ。
第一部で音無笛を吹いた時とか、リランを人の為に使った時点でアレだった人は絶対受け入れられない。
僕個人にも否定したい部分はあるんだが、やはり色々な部分で先回りして予防線を張っているので、その批判自体が近視眼的な物にならざるを得ない。ここが上橋先生の凄いところなのかもしれない。

もう一つ、全然エリンさんの思想や行為を全ての人に肯定させようと思ってないところ。
これはあくまでエリンさんの判断であって、それが普遍的に通用するなんて詭弁を用いない
普通の作品、取り分けアニメ業界では実のところなかなかこういう部分を描かない。
なぜなら視聴者に重たい物を感じさせるから。その結果、物語自体が主人公の都合の良いように動く
これは程度の差こそあれ、ある種の必然なので一般に言う、ご都合主義というのとはまたちょっと異なる。
ただ主人公に罪を負わせない点に於いては御都合主義の一形態と言えるかもしれない。

しかし上橋先生はエリンさんに次から次へと困難をおっかぶせ、ヌルい決断をさせない
むしろそれが出来ない方向へと追い込んでいく。勿論、必ずしも完璧とは限らないし次善の策もあるんじゃないかという部分はあるんだけれども、やはり最終的にはエリンさんの一身に収束するような形で物語が展開していく。

そしてエリンの決断と、その先の結果が待っているのだが……それ自体に言いようのない感慨をもたらす。

綺麗な終わり方で言えば第一部の方がずっと綺麗だ。

だからこの話を見る必要はない、と言いたくもなる。
けれど同時に色々考えてしまうのだ。
第一部の終わりは、誰がどれほど幸福であったのか。
エリンとリランに対しては幸福かもしれない。
だが多くの王獣は未だ人の手にあり、政治のその後だってどうなるかは分からない。
さらに第二部でエリンさんは

「幸福とは大きな網だと思うのです」

という事を言っている。
何となく分かった気にはなるけど、それで掬える物もあれば、零してしまうものもある
一つ言えるのは、第一部より大きな視点で物語が推移している事だろう。それは時間的にも空間的にもテーマ的にもそうだ。
「人と獣」の物語から「人々と獣達」の物語へ(上橋さんは「人々と獣たちの歴史の物語」とか言ってた)
本作の展開に色々考えてしまう人が他にも多いと思うので言っておくと、エリンさんの思想として一つ重要なのが「形骸化した禁忌は存続させるべきではない」というのがある。形骸化、というよりも何故それが禁じられているのかを人々に知らせぬままに禁じる事をエリンさんは酷く嫌う。選択肢を与えないからだ。
それが今回の指針になっている。

さらには、エリンとリランという一個の存在からより視野を大きくした方向性だとも言えるだろう。
だから、エリンさんの生き様としては必ずしも否定出来ないのではないだろうか。



また、第二部では以前コメント欄で戴いたような情報も載っているのだが、正確なところもあるしやや違っている部分もあった。

サイガムルが真王を襲った動機、これは確かに真王の伝承途絶を狙ったものではある。
ただ動機が個人的すぎるきらいはある、これは一部の時点では普通の暗殺(乃至暗殺未遂)で済んだ物を、二部を創る時に、より一段踏み込んだ解釈を展開した為にそうなったのだろう。第一部は本来独自に完結する物だったので、その辺りは流せる筈だったのに拾ってみた、という感じがある。
これは闘蛇の大量死やその罰則に関しても同様で、結構その辺りに苦心の跡が伺える(別に批判ではないよ)

それと霧の民が奏者の技を封印する為に暗躍していたという話も聞いた。
だが、これもある程度までは行っていたかもしれないが、霧の民は人を殺してまではいない
第一部でナソンが霧の民は生活の為の殺生以外は掟で禁じられており、よってエリンを殺す事はしないと語ったことから分かる。

もう一つ真王の伝承が途絶えないようにする安全装置がある、という話だったがこれも恐らく違う。
伝承を知っている人間とコンタクトを取る習慣が存在していたが、長い年月の間に形骸化した、という部分はあるが、それは伝承を失わない為では無いと思われる。

それならば少なくとも真王自身が形骸化させる筈もなく、王獣規範の伝承のように暗殺された真王(ハルミヤの祖母)の時代に形骸化した訳でもない。文字の事を考えるならばむしろかなり以前だろう。
このコンタクトは、あくまで「ジェの私信」の儀礼化であり、上橋さんの物語的な意図は「答えを知っているけど意志疎通が難しい人間が時間差で登場する状況」を成立させる為だったと考えられる。

物語的には彼らが居なければ、災厄を終焉させる方法が伝えられない。
しかし容易に伝えられるので在れば、災厄の内実も伝わるのでそのものが起きない。
災厄が起き、なおかつそれを終焉させるという構図を創る為には、彼らは知っていながらコンタクト出来ない状況で、さらに一応ながらも災厄に関するなにかを嗅ぎ取り、それに関することを教える為に(タイミングを遅らせて)自ら登場する必要性があった。その為の装置だろう。

ただ此処が難しい問題で「真王とかに頼んで探索隊でも作ってもらえば?」というような部分はある。
エリン自身が行こうとしたら諦めるシーンがあるので彼女が行けないのは説明されているが、他の誰かが行ってはいけない訳ではない。これが次善の策というやつだ。ただ色々タイミングなどもあるだろうし、深い山間の何処かに住んでいるようなので、やっても徒労であったとすれば物語的にはおかしくない。



やや話が逸れたが、今回の物語を映画に喩えると『ウォッチメン』だと思う。
『ダークナイト』『グラントリノ』にも比したが、様々に考慮した結果、テーマや内容を鑑みるに『ウォッチメン』がしっくり来るんじゃないかと。


エリンさんは

ロールシャッハであり
オジマンディアスであり、
Dr.マンハッタンでもある。


そして彼ら以上に悩み迷った末に、この結論を出した。
一面的な正義感で正しいとか誤っているとか断じるのは浅薄になってしまう様な結論を。



もう一つ他に作品を挙げるならば『銀河英雄伝説』だ。
本当の望みは叶わず、その優秀さから戦争に狩り出されるエリンさんは、ヤン・ウェンリーに酷似している。
それだけではなく、第二部のラストは銀英伝のラストがしっくり当て嵌まるのだ。



『……伝説が終わり、歴史が始まる』




第一部のラストは言うなれば伝説の再現だった。
そしてそれ自体も伝説として語られる可能性のあった事件だろう。


しかし第二部の終盤は伝説にはならず、歴史として記される


何故災厄は起き、何故禁忌が存在するのか。そしてそれを知って我々はどう在らねばならないか。
伝説では秘されて書けない物事を、白日の下にさらけ出し、明白に刻みつける。
それこそ、エリンさんが目指した物なのだ。
流れは同じだけど解釈が違う。




「獣の奏者エリン」が無事終了したので原作を読んでみました。
アニメと対比させると結構色々な読み方が出来て面白かったです。
新年一発目は第二部「探求編」「完結編」の感想書きます。



分かり易さなら原作版
やはり分かり易さなら原作版を読んだ方が良い。
なにしろ色んな部分が地の文や台詞でで説明されたりしているんですから。
特にアケ村の内実は短い分、原作版の方が端的に示されているので把握はし易いです。
ちなみに物凄く否定的な書き方です。アクン・メ・チャイの事とかも、原作の方が分かり良いかな。

一方、それを考えるとアニメ版は出来る限り現象で表現しようとした事が分かります。
この複雑に入り組んだ世界観や、その中の人物の心境を言葉ではなく映像や行動そのもので示そうとしていたように思われます。それ故、しばしば考え込んだり、穿ちすぎてしまった部分も多々あるのですが、やはりTVアニメならではの表現に拘ったことと、規制の厳しそうな物語の中でバンクや暗喩などを用いて現す技法は、秀逸というべきでしょう。



実はエリンさんのキャラも違う
原作で一番驚いたのがエリンさんのキャラです。
思ったより普通の人だなぁ、という印象。
何がそう思わせるのかと言えば、他人に対する好悪の情
本来は結構日常でも好き嫌いをハッキリさせるタイプだったみたい。
性質上差別を受けやすいから当然と言えば当然なんですが。
実の祖父についても「母を見捨てた」事で侮蔑的なイメージで述懐するシーンがありますし、カザルムでも嫌いな教師が居た。
これは当たり前の人間描写ですが、アニメでは、そういう感情描写を極力排除しているように思えました。
これは何故かと言えば、エリンさんの情動をより「人と獣」に向いているように見せる為だったと思っています。

日常の好悪は全然頓着しない。
その代わりに獣を人に従わせようとする輩は絶対に許さない


そういうキャラ作りをするせいだったのではないか、と。
そういう意味合いから言って、エリンさんの中の人は評判が悪いですが上記のアニメ版エリンさん像を成立させるのに一役買っていたのかな、とも思えます。真面目で不器用で、でも自分の意志は貫き通す
そういうぎこちないけど凄い人、という印象はアニメ版では強烈でした。
セイミヤ陛下が言った「神の導き」へのツッコミも、実は一瞬躊躇った末に言ってるんですけどアニメ版のエリンさんはズバッと刺してますからね。そういう解釈で組み立てられていたんだろうなァと思います。



アニメではリランがあまり描写されていない
原作では、なんとリランがエリンさんの教えた単語を自ら組み合わせて会話をする(もちろん鳴き声ですが)というシーンがあります。王獣の賢さを示すエピソードですが、これもアニメでは削られている。
何故か。
それは恐らく最後のシーンの為でしょう。
王獣が賢いことがあまりに明白すぎると、音無笛による断絶の後にも希望を抱かせてしまいます
もちろん伏線的な活用も出来るのですが、逆にあのシーンを予想しやすくしてしまう
それ故に、アニメはリラン自身の描写はかなり抑えめ。何を考えているか分からない、という印象を強くしています。
また原作では最後のシーンもリラン自身がエリンさんを襲うと見せ掛けて実は……という書き方をされています。
これはこれでいい味なのですが、一度離れたリランがわざわざ闘蛇ではなくエリンさんを狙って襲う訳がない。卒業参りのヤンキーじゃないんだから。
つまり、ある意味結末を予想しやすくしてしまう。
ここのキモは「断たれた絆が実は奥底で繋がっていた」という部分ですから、出来るだけリランの描写は少ない方が意外性をもたらすのです。説得力との兼ね合いはありますが、少なくともエリンさん側からの献身は嫌と言うほど描写されていますから、それで良いんじゃないかと。



両方に目を通してみましたが、別作品と捉えてもなかなか甲乙付けがたい部分があります。
あちらを立てればコチラが立たず、という感じ。
アニメ先行だったせいもありますが、個人的にはアニメのが好きかな。



ソヨンと闘蛇の関係は第二部「探求編」「完結編」に記されています。
先ほど感想書くとも言いましたが、こちらも既に読了……というか買った次の日には4冊終わってました。
児童書カテゴリなので読み易いにしても、これほど一気に読んだのは久しぶりだなぁ。
『神は沈黙せず』を一日で読んだ時以来か。
僕がアニメ終了時に


「新作も既に発表されていますから、エリンさん達はこれからも獣と人について様々な苦難に遭うのでしょう。
ただ、それすら乗り越えていける。
彼女と、その魂を受け継いだ子供なら。
僕はそう信じています。」

こう言っています。
しかしながら『獣の奏者』という作品は「乗り越えた・乗り越えられない」「幸福・不幸」という括りでは全然語れない作品でした。それこそ『ダークナイト』『グラン・トリノ』に通底するような複雑な主題を抱えています。
全部読んだ結果は物凄く複雑な心境なのですが、でもこれがエリンさんの生き方なんだろうなぁと強く感じます。