リュウセイグン -13ページ目

リュウセイグン

なんか色々趣味について書いています。

長文多し。

業界初の映画合コン開催!





なんじゃこりゃ、と思って目を通してしまった。
映画好きが合コンして語り合うのかな~、と思いきや試写会後にそのまま合コンしよう……みたいな話らしい。まぁ試写会に行く人なんてのは映画が好きな人や、その作品に取り分け感心のある人だろうから、話の共通点にはなりやすいだろう。

さてさて、その映画は?











ぼ……


『ボーイズ・オンザ・ラン』


だ……と……?



















説明しよう!

『ボーイズ・オン・ザ・ラン』とは
三十路ブサメン
が女の子に惚れて上手く行きかけるも、
他の女と下半身丸出しでいた為に誤解(当たり前)され嫌われ逃げられた挙げ句
ブサメンの相談相手であるイケメンによってNTRされ調教・妊娠の上捨てられ
怒った主人公はイケメンに決闘を挑むも、
イケメンを忘れられない女の子がちゃっかりブサメン側の情報を漏らしていて
結果イケメンにフルボッコされる漫画である!

以上!

(詳しくは↑リンクからwikiでも見て下さい)

まぁこの後も話としてはあるんですが、予告観る限り映画化は間違いなくこの部分。

これを観た上で虚心坦懐に合コンへ挑む、

そんな羅刹に私はなり…………たくねぇ!!!


どんな地雷だよ!
むしろ恋愛とかしたくなくなるよ!
ていうか人が信じられなくなるよ!


「でも私、田西さん(主人公・ブサメン)みたいな人ってぇ
カッコイイと思いました~、一途だし」



嘘だッ!!

この味は!……嘘を吐いている味だッ!!




この映画の試写会にこんな企画を練り込んでくる広告代理店、
そのチラガー の厚さたるやマントル層もかくや、と言ったところであろう。
ハリウッドの映画、似ている作品が多い理由



                       ヘ(^o^)ヘ いいぜ
                         |∧  
                     /  /
                 (^o^)/ ハリウッド映画が何でも
                /(  )    同じに見えるってなら
       (^o^) 三  / / >
 \     (\\ 三
 (/o^)  < \ 三 
 ( /
 / く  まずはそのふざけた
       幻想をぶち殺す!





この話自体は、恐らく事実だろう。
けれどもこういう部分を承知したからと言って、十把一絡げに映画を語れる(ハリウッドに限定したとしても)と思ったら大きな誤り。
これは僕が最近になって気を入れて映画を観るようになって、朧気ながら分かってきたことだ。極端に言えば二つの理由がある。



まず一つは物語の構造、ということ。
ハリウッドの脚本は型が出来ている、それはその通り。
特に映画は時間の拘束があるので、プロット面では時系列と事象が大体に於いて決まっていると言われている。
だから物によっては判別がつきやすいのだが、頭を巡らせて他の物語を考えるとどうなるか。

結論から言えば、殆ど変わらない。

物語の構造は聖書に全て出尽くしているという言葉もあるが、聖書に限らず物語の構造は神話など殆どのものに共通している(この辺りは大塚英志の本でも読めば分かり易いです。学問的に遡っていくとレヴィ・ストロースとかになっちゃうんでしょうけど俺は読んでないので無理にとは言いません)
抽象化のレベルにも依るが、邦画にしろ小説にしろ、あらゆる物語を他の物語と結びつけることは難しくない
困難を乗り越える、目的の為に彷徨する、強大な存在と戦う。
固有名詞を入れ替えたり、途中で展開の起伏を入れたりすることはあれども、その形式は同じだ。
また人間が楽しめる物語、ともなれば更にその選択肢は狭まる。
脚本学校では、まずその事実に目を向けてシステマティックに教えているに過ぎない。
また意外性を与えるような作品であっても、実のところ基本からどう外すか、という話だ。
日本にも「守破離」という言葉があるが、基本を把握して守った後に独自に破り、皿に離れるところから個性や多様性が生じる。



そしてもう一つ。
超大作や話題作が似ている、では……どれとどれが似ている?
果たして具体名をどれだけ挙げられるというのか。
僕は未見だが『アバター』『ダンス・ウィズ・ウルブス』が酷似しているのは色んな人が語っているし、監督の作家性という意味に於いて良くも悪く も『タイタニック』にも似ていることだろう。『ベンジャミン・バトン』『フォレスト・ガンプ』も似ていると言われた(比較動画が分かり易い)。
『トランスフォーマー・リベンジ・オブ・フォールン』『2012』迫力以外は内容メチャクチャという意味に於いて似ているかも。
……あとは?
大抵の場合、「ハリウッドなんてものは」と怪気炎をあげる人は、その多くが具体的に名前を挙げない。挙げるとすればせいぜい上述したマイケル・ベイとか ローランド・エメリッヒ(意見は分かれるだろうが、キャメロンも入れて良いかも)辺りの映像に重点を置いた作品や日本原作を改悪した『ドラゴンボール・エボリューション』とかについて言及するくらいだろう。
けれどそれらは一面に過ぎない。
一昨年で言えば

『ノーカントリー』
『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』
『ミスト』
『ダークナイト』
『クローバーフィールド』(これは性質上脚本があって無いようなもんだがw)

去年で言えば
『グラン・トリノ』
『レスラー』
『ウォッチメン』
『イングロリアス・バスターズ』
『チェンジリング』


「いわゆるハリウッド」的では無い映画
地味であったりバッドエンドであったり解釈が一筋縄ではいかなかったり、その理由は様々だが、逆説的に言えば、ハリウッド的でない理由の多用さこそが「いわゆるハリウッド」が幻想である事を保証している。
「いわゆるハリウッド」映画は、単体ではなく総体の印象……ようするに偏見なのだ。
70~80年代の少女漫画のテンプレが食パン激突だと思われがちなのと同様である(ソースはどこだか忘れてしまったが、確か1~2作品しか無かったという話を聞いた)

型どおりでない映画は、他にも沢山あるだろうけれども、僕が観て且つそれなりに他者の知名度や評価もある作品だけに限定した。それでもこれだけ普通に並べられた。


もちろん、これらの作品の中には相互に似た傾向を持つ物もある。
『ダークナイト』『ウォッチメン』なんかはそうだし、物語の構図的には『グラン・トリノ』『レスラー』も似ている。 更に言うと『グラン・トリノ』冒頭は『カール爺さんの空飛ぶ家』冒頭に、『レスラー』はドキュメンタリ映画『アンヴィル!』に似ている。

しかし僕は似ているからと言って魅力が同じで片方を観なければもう片方は要らない……などとは露ほども思わない。それぞれにテーマがあり、それぞれに物語があり人間ドラマがあり、表現がある。みんな別の作品であって、みんな別の面白さを持っている
オリジナリティ信仰が蔓延りすぎている御時世であるが、実のところどんなオリジナリティも従来要素の組み合わせであり、組み合わせ方や見せ方にこそ多様性が存在する



畢竟、脚本の構造が同じだから物語が同じだ……というのは、

寿司という形が同じ料理なのだから
赤身だろうが
白身だろうが
貝だろうが
軍艦巻きだろうが
材料の鮮度や質がどうであろうが
握りの型がどうであろうが
キッツケがどうであろうが

みんな同じような味だ、と語るに等しい暴論だ。
これらをないがしろにする人間に寿司を語る資格など無い
しかもその根拠が、たかだか2~3件の大手チェーン回転寿司を食べて大差なかったから……などというのは、もはや恥を通り越して恐れおののくべき領域だと思う。



かくいう僕も、キチンとした形で映画を見始めたかどうかという小僧に過ぎない。
寿司で言えば、漸く時価の店を数軒回った程度。まだまだ奥は深いし、見えてない所も多い
でも見所を、味わいを、しっかりと見据えようとすれば多少なりとも分かってくる所があるのではないか……と信じたい。
戦う狂気と愛の記憶





戦う司書と世界の力 BOOK10 (集英社スーパーダッシュ文庫 や 1-10)/山形 石雄
¥650
Amazon.co.jp

そんなに具体的なネタバレはしないよ!
シリーズ全体の評価と印象を書いていきます。


今、アニメが静かなブーム(?)になっている「戦う司書」シリーズの最終巻が漸く出ました。
僕は前巻の「絶望の魔王」から購入を控えていて、最終巻が出たら一緒に読もうと考えていたのです。


そのやり方は間違ってなかった。


あんなんで「続きは次号!」とかされたらマジで生殺しだわ。
まぁその代わり最終巻の表紙あらすじで思いっ切りネタバレされたけどね。

みんなは見るなよ……いいか、絶対見るなよ!

それを補ってあまりある超展開なのでネタバレしても充分楽しめましたが。


正直に申し上げると、このシリーズ5巻ぐらい(ヴォルケンの話)まであんま好きじゃなかったんだよね。
一巻の『恋する爆弾』はプロットの妙があったけれども、それ以降はそこまで凄い! と感じるほどでもなかった。
ただ読み続けられたのは特異な世界観とそれを用いる巧さがあったからだと思う。
しかしながら5巻で「おっ」と思い、6巻では本気で唸らされ、本当の意味でこのシリーズを認める契機になった気がする。
そして最終章の始まる8巻『終章の獣』でビックリ、一筋縄ではいかないと思っていたが、それを更に上回る奇怪な世界観。
そして今回読んだ9巻10巻はまた更に予想以上の展開の連続で、しかも相当に感動的だった。


山形さん……俺はあんたを見くびってたよ!!
マジで済まねぇ!!!



と、頭を地にこすりつけたくなる思いでした。
正直ライトノベルをそれなりに読みながらも、本当に気に入った作家は冲方丁、桜坂洋など片手で足りるくらいだった。しかし山形石雄もその狭き門をくぐった一人になった、そう確信出来る。

この人の凄いところは、発想が尋常じゃないのがまず一つ。
人が死んで本になる、という世界観からして既に奇妙なことこの上ないが、それを取り巻く世界と人間の残酷さ、歪さも普通ではない。世界全体が通底して全体的に狂気を纏っているのが、この作品の特徴だ。
主人公格のハミュッツ自身がもう人格破綻のキ○ガイなのだが、実はこれにもちゃんと設定や理由がある!
その奇想、その異常、読んでひっくり返ったぞ僕は。


そして本やらそれを取り巻く設定を最大限に生かして物語を作ろうとする姿勢がまた好感触。
それを利用してプロットを組むから、意外性にも事欠かない。
ぶっちゃけ後付け設定だろうと思われるものも結構あるのだが、殆ど全て物語に組み込まれているので全然違和感が無く、むしろすんなりと繋がっている。この辺り、藤田和日郎みたいだな。

しかしそういった全てより僕が好きなのは「人の気持ち」をとても大切にするところだ。
彼らを取り巻く世界は残酷で、強大だが、その残酷さを打ち破るのは常に「人の真摯な気持ち」だったりする。
そこがカッコいい。こういう話ではついつい単なる残酷物になったりしてしまう、でもそこには落ちない。
最終巻まで読んだ立場として言い切るが、『戦う司書』シリーズのテーマは何かと問われれば僕はこういうだろう。





だと。
なるほど陳腐な言葉であり、陳腐なテーマだ。
しかし物語で重要なのはシニフィアン以上にシニフィエ、僕はそう思っている。
この物語での「愛」の内実を観る時に、一抹の悲しさと共に誇らしさを感じる。
戦う司書では、常に誰かが誰かを想う事が話の中核として存在し、それは必ずしも綺麗な終わり方とは限らないが、最悪の悲劇を打ち払い続けている


この辺り、鬼頭模宏『ぼくらの』とか、この『戦う司書』シリーズを大プッシュしている荒木飛呂彦先生の作品にも通じるところがある。


そして最後には全ての要素が一つの糸として紡がれるのだ。

この組み合わせ方、最高!

俺の好きな物語ってなんでみんなこうなるかな、という自虐めいた気持ちがある一方で、物語ってこうでなくちゃイカンよな、とも想う。
『黄昏色の詠使い』も好きだったし似たような展開だったけど、二重三重に捻って、更に基本を残酷世界にした為により一層凄い物として昇華されてる。
段々と面白くなっていく作品だし、様々な要素が密接に絡まり合っているので読むとしたら全巻読まないと意味がない。

と言う訳で、是非とも読んでみよう!

ちなみにアニメはかなり良く出来ているけれども明らかに足りないであろう尺が心配です。
かいじゅうたちの、にんげんどらま





かいじゅうたちのいるところ/モーリス・センダック
¥1,470
Amazon.co.jp





誰でも知ってる、とまでは行かないかもだけど、何処かで見たことがあるというくらい有名な絵本を原作とした映画。なんだけれども、監督がスパイク・ジョ-ンズ(俺はあんまり観てないけどね)だから一筋縄じゃあ行かない作品に仕上がっている。

原作のあらすじ。
ふざけてお母さんに叱られた子供・マックスが部屋に閉じこめられる。
すると部屋が森のように変化して、マックスはそこからボートに乗って一年と一日航海して「かいじゅうたちのいるところ」へ到着する。
かいじゅうに脅かされるも対抗するマックスはかいじゅうたちから一目置かれ、王様になって踊ったり騒いだり。
しかし何処からかいい匂いがしてきたのでホームシックになり帰ろうとする。
かいじゅうたちは「食べちゃいたいくらいお前が好きなんだ、食べてあげるから行かないで」と言うが、「いやだよ」と断り一年と一日航海して部屋に戻ってくると、まだ温かい夕食がテーブルの上に置いてあった。

というお話。

正直これを1時間半から2時間にするという事自体が難しい。
アニメでそのままやれば、15~30分くらいで終われるレベルの話だからだ。
映画にするとしても、せいぜい騒いでるシーンを増加させるくらいだろう。
しかしひねくれ者のスパイク・ジョーンズは、この作品を解体&再構築して、同じ筋であるにも関わらずかなり毛色の異なる作品に仕立て上げてしまった。

流石、というべきか。

原作者センダックも気に入っていると言うことだし、原作の行間を埋めるみたいな話でもあったようだが、結果的には受ける印象がかなり違う。お陰で映画公開自体が危ぶまれたという話だが、その作品性を評価されて無事公開に漕ぎ着けた由。

何が一番異なっているか。
マックスとかいじゅうたちとの関係性だろう。
原作ではマックスは母親に叱られるも、部屋の中から異世界に飛び出して「かいじゅうたちのいるところ」を征服し、恋しくなったから帰る。短い筋だからと言うのもあるが、そこには子供らしい万能感・全能感という物が見え隠れしている。かいじゅうたちは恐ろしい部分も無いではないがユーモラスで、全体を通してマックスに従属する存在だ。
最初はマックスの威嚇に驚いて王様に仕立て上げ、最後は「食べてあげるから」と懇願するもにべもなく断られる。だからマックスの部屋が森に変貌するという状況も加わってある種の子供の理想郷、空想の世界を思わせる(但し、空想なのか現実なのかを困惑させる仕掛けもある)

一方映画ではマックスは孤独な存在として描かれる。
父親の居ない家庭。
マックスは一人でイグルーを創って遊び、姉に見せようとするも相手にされない。
姉の友達に雪合戦を仕掛けて束の間楽しむも、巫山戯た彼らにイグルーを壊されて泣きわめき、姉の部屋を荒らす。母親はある程度の理解を示すが、マックスが自室に秘密基地を創っても見に来てくれない。
若い男性と仲良くお酒を飲んでいる。
マックスはこれに怒り、母親と喧嘩をして外に飛び出し、外の川からボートで航海をする。

単なるイタズラ、喧嘩ではなく、孤独感が埋められない為の逃避であることが示されている。

「かいじゅうたちのいるところ」の性質も、かなり異なっている。
かいじゅうたちにはそれぞれの性格付けがなされており、彼らには彼らの関係性を持っている。
マックスはその中の一人、キャロルの持つ不満ややるせなさに自分を重ね合わせて共に暴れる。
キャロルはKWというかいじゅうと仲違いをしており、その怒りをぶつけてかいじゅうたちの家を破壊する。
マックスも協力するが、他のかいじゅうに詰め寄られる。
そこで苦肉の策として自らが力ある者、王様であることを語るのだ。

絵本ではマックスは自らの威嚇によってかいじゅうたちを驚かせて(力を示して)王様に推戴される。
映画でもキャロルに望まれる部分こそあれ、危機を脱する為の方便として自らの力を誇張する。
この時点で、既にマックスの立場の危うさが示されている。
王様の冠と杖も、「前の王様」らしき骨の中から取り出される。
キャロルは骨について「最初からあった」と語るが、これが嘘であり前にも何人か王様が居て、みんな食べられてしまったことが終盤で分かる。

そしてマックスは孤独を埋めることをかいじゅうたちに懇願され、請け負う。
かいじゅう踊りを踊り、みんなで重なって寝て、キャロルの理想とする世界の模型を見せて貰い、みんなで一つの家を造ろうと提案する。KWもなし崩し的にコミュニティへ帰還し、一応の平和が築かれる。

しかしマックスの子供らしい提案は、根本的に問題を解決出来ずに、再びかいじゅうたちに亀裂が入り始める。

最終手段の泥団子合戦は姉の友達との雪合戦同様、楽しいと思った矢先に問題が暴発してしまう。

KWはキャロルの元から去り、キャロルは王様に対する苛立ちと不信感をあらわにする。
そしてマックスがただの子供であることをしって怒り狂って追いかけ始める。
KWにかくまって貰って難を逃れたが、そこでマックスは家に帰ることを考えるのだ。

ここに示されるのは万能感とはほど遠い
マックスがぶち当たる現実の壁であり、無力感だ。

実際マックスはかなり利己的に描かれており、特にデイヴィスはマックスに皮肉やからかいの言葉を投げかけ、アレクサンダーはかいじゅうたちの中でも軽んじられていて、マックスにも無下に扱われる(しかし単に嫌な奴、どうでもいい奴じゃないところがこの作品の面白いところだったりする)


マックスは家族というコミュニティの断裂に不満を感じて逃避し、同じように不満を抱いていたキャロルへ共感を覚えるのだが、今度はキャロルを中心としたコミュニティの断裂に耐えきれず、元の世界に戻ろうとする。
これもまた逃避であり、「かいじゅうたちのいるところ」も理想郷と見えたのは僅かの間だった。

理想郷など存在しない。
ある意味、子供には過酷すぎる事実を容赦なく叩き付けてくるのがこの作品だ。

映画会社のお偉方が渋面を作ったのも理解出来る。
しかしこれはスパイク・ジョーンズが子供をナメていない証拠だ。
かいじゅうたちの複雑さも、問題の提起も、親が見せたい子供の映画では取り払われる類のものだ。
けれど『ジャッカス』というガキみたいな大人の企画をやってきた彼にとっては、子供はあやす者ではなく、包み隠さず対等に話し合い語り合う者なのだろう。

理想郷は存在しないし、問題の無いコミュニティも無い
それは隠してはいけない、必要なことだからこそ示すのだ。
もちろん、問題だけを言いっぱなしという訳でもない。
希望も提示する。

別れのシーンがそれであり、家に帰ってきたシーンも同様だ。
生きている限り問題は起きるかもしれない、でも、許し合うことだって、仲直りすることだって出来る
大好きという気持ちさえあれば。
声優郷里大輔さん、自殺か
http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2010011800735


オッサン声優が好きだ。若手のアイドル声優の声はサッパリだけど、好きなオッサン声優の声はゲストクラスでも反応したりする。特徴が有りすぎるから。
もちろん郷里大輔さんもそうだった。

そのオッサン声優に対するレスポンスの速さは要するに初期ドラゴンボール直撃世代の名残だと気付いたのは結構最近の事。

青野武(ピッコロ大魔王)
中尾隆聖(フリーザ様)
若本規夫(セル)
etc.

郷里さんは、牛魔王。
何故かミスターサタンの印象は薄いけど、あの独特のしゃがれ声は頭に刷り込まれていて『電脳コイル』でのダイチチや『ウルトラマンメビウス』でのテンペラー星人&デスレムの時は自然とテンションが上がってしまった。
また報道やオカルト系番組のナレーションでは、あのドスが効いた声が聞こえるだけで場の空気が一変するような気持ちを味わった。

だけど。

正直、天寿を全うされた田の中さんよりショックがでかいかもしれない。

『真(チェンジ!)ゲッターロボ』のコーウェン君(と、スティンガー君)はこう言った



「明日という名の希望なのか、はたまた破壊という名の絶望なのか、それは神のみぞ知る」



自己中心的な話だが、もっとあの声を聴かせてくれる気は無かったのか、本当に明日への希望を持つ事が叶わなかったのか……と様々に問いたくなってしまう。

何故、郷里さんがそういう行動に走ったのかは部外者には分からない。
大ベテランだし、ナレーションの仕事もある以上金銭的な問題とは思いにくい。
心根の優しい方だというから、鬱の傾向が出てしまって同じ所属である大先輩・田の中さんの逝去に思う所があったのかもしれない。

それこそ「神のみぞ知る」ような話なのだろうが、もう新しい映像であの声を聴けないのが悲しい。
オッサン声優好きは、こういう事も増えてくるのを覚悟しておかなきゃいけないんだろうか。

郷里大輔さんの、御冥福を心よりお祈り申し上げます。

今日は『電脳コイル』の「ダイチ、発毛ス」と『ウルトラマンメビウス』の「デスレムのたくらみ」を観よう。