ムーンワーカーズ -27ページ目

ムーンワーカーズ

一人ひとりの人生があり、仕事がある。
自分というものをもっと知ろう。
個性は十人十色、作業も十人十色。
仲間の数だけ楽しさは増え苦しみは減る。
人に迷惑かけたら人の迷惑もらおう。
それがどうした? そんなもんでしょ。
地域と仲良く家族を信じ自分を大切に。

 時代は急変している。百貨店、家電量販店、そして銀行までもが業界2位以下の統合によるNo.1争奪戦を繰り広げている、そこに生き残りを賭けて。つい最近ではPanasonicSONYが業務提携をするという。だが、本当にそれでいいのか。ちなみにSONY信奉者だった(アホなアメリカ人に乗っ取られた時期を除く)私は、がっかりしている。良くも悪しくも業界スタンダードなPanasonic製品、それに類似したSONY製品を買う気にならないからだ。

車で言えばHONDAファンが決してTOYOTAを買わないのと同じことだ。その理由は、ナンバーワンとオンリーワンの本質的な違いに起因している。

 PanasonicTOYOTAは、売上シェアで業界No.1を誇示してきた、言わば優良児。対して、SONYHONDAは、他に先駆けて新しいコンセプトやデザインを製品化するオンリーワン志向を貫いてきた、言わば異端児。

 市場が成熟し消費者に選択の自由が与えられたその日から、私のように人と同じ事をするのが本能的に嫌いな「少数派タイプ」の人間は、往々にしてNo.1や流行品を避けて通る。天邪鬼と嫌われても気にしない連中だ。逆に、「多数派タイプ」の人間には、周囲が自分と同じだという安心感や共有感がある。どちらが良い悪いではなく、どちらが好きか嫌いかの問題なのである。もしかするとDNAの思し召しかもわからない。

 さて、我がムーンワーカーズの利用者は、「もともと特別なオンリーワン」である。彼らの個性を開花させるためには、少なくとも前述の少数派タイプの支持を得ることが必要だと思っている。そのためには、先ず我々職員が、数の論理に屈することなく既製の常識社会に立ち向かっていく覚悟が必要なのである。いつの日か「世界に一つだけの花」をたくさん咲かせたい。

 ♪ナンバーワンにならなくてもいい もともと特別なオンリーワン・・・♪ と始まるこの曲は、当時国民的アイドルグループNo.1のSMAPが歌ったからこそ大ヒット曲となった。また、歌詞にも説得力があった。もしも無名の人が歌っていたなら単なる「犬の遠吠え」に過ぎなかっただろう。

 かたや、スーパーコンピュータ仕分論議の場で、“なぜNo.1でなければいけないんですか、No.2ではだめなんですか”と迫った口の達者な女性代議士がいたが、物事の本質を知らないおバカ発言である。NHKのあのヒット番組「プロジェクトⅩ」にNo.2以下が取上げられたことがあっただろうか。ギネスブックにNo.2以下の記録が刻まれるだろうか。つまりNo.1No.2の間には天と地の開きがあるのだ。だから、何事もやるからにはNo.1を目指そう。・・・とその当時は思っていた。ところが、産業界No.1に君臨していた米国GMが破綻し、日本でもJALが破綻、東京電力も事実上破綻。角界では力の有り余っていた横綱朝青龍が引退に追い込まれ、芸能界では飛ぶ鳥落とす勢いの島田紳助が引退した。う~んむ、No.1・・・ その一寸先は破綻か引退か・・・。

 さらには、破綻しかけた米Apple社がipadで、また、日影族だったLinuxAndroidMicrosoft社の牙城Windowsを切り崩し始め、牛丼といえば吉野家だったが、いつの間にか新参者のすき家に1位の座を奪われ、お笑い界M1グランプリでは、1位よりも、2位のオードリーやスリムクラブのほうが売れるという現象が起きている。

 大切なことは、No.1かどうかではなく、消費者や大衆の支持を得ているかどうかである。             

♪ナンバーワンにならなくてもいい もともと特別なオンリーワン・・・♪ と始まるこの曲は、当時国民的アイドルグループNo.1のSMAPが歌ったからこそ大ヒット曲となった。また、歌詞にも説得力があった。もしも無名の人が歌っていたなら単なる「犬の遠吠え」に過ぎなかっただろう。

 かたや、スーパーコンピュータ仕分論議の場で、“なぜNo.1でなければいけないんですか、No.2ではだめなんですか”と迫った口の達者な女性代議士がいたが、物事の本質を知らないおバカ発言である。NHKのあのヒット番組「プロジェクトX」にNo.2以下が取上げられたことがあっただろうか。ギネスブックにNo.2以下の記録が刻まれるだろうか。つまりNo.1とNo.2の間には天と地の開きがあるのだ。だから、何事もやるからにはNo.1を目指そう。・・・とその当時は思っていた。

 ところが、産業界No.1に君臨していた米国GMが破綻し、日本でもJALが破綻、東京電力も事実上破綻。角界では力の有り余っていた横綱朝青龍が引退に追い込まれ、芸能界では飛ぶ鳥落とす勢いの島田紳助が引退した。う~んむ、No.1・・・ その一寸先は破綻か引退か・・・。
 さらには、破綻しかけた米Apple社がipadで、また、日影族だったLinuxがAndroidでMicrosoft社の牙城Windowsを切り崩し始め、牛丼といえば吉野家だったが、いつの間にか新参者のすき家に1位の座を奪われ、お笑い界M1グランプリでは、1位よりも、2位のオードリーやスリムクラブのほうが売れるという現象が起きている。
 大切なことは、No.1かどうかではなく、消費者や大衆の支持を得ているかどうかである。

 時代は急変している。百貨店、家電量販店、そして銀行までもが業界2位以下の統合によるNo.1争奪戦を繰り広げている、そこに生き残りを賭けて。つい最近ではPanasonicとSONYが業務提携をするという。だが、本当にそれでいいのか。ちなみにSONY信奉者だった(アホなアメリカ人に乗っ取られた時期を除く)私は、がっかりしている。良くも悪しくも業界スタンダードなPanasonic製品、それに類似したSONY製品を買う気にならないからだ。車で言えばHONDAファンが決してTOYOTAを買わないのと同じことだ。その理由は、ナンバーワンとオンリーワンの本質的な違いに起因している。

 PanasonicやTOYOTAは、売上シェアで業界No.1を誇示してきた、言わば優良児。対して、SONYやHONDAは、他に先駆けて新しいコンセプトやデザインを製品化するオンリーワン志向を貫いてきた、言わば異端児。

 市場が成熟し消費者に選択の自由が与えられたその日から、私のように人と同じ事をするのが本能的に嫌いな「少数派タイプ」の人間は、往々にしてNo.1や流行品を避けて通る。天邪鬼と嫌われても気にしない連中だ。逆に、「多数派タイプ」の人間には、周囲が自分と同じだという安心感や共有感がある。どちらが良い悪いではなく、どちらが好きか嫌いかの問題なのである。もしかするとDNAの思し召しかもわからない。

 さて、我がムーンワーカーズの利用者は、「もともと特別なオンリーワン」である。彼らの個性を開花させるためには、少なくとも前述の少数派タイプの支持を得ることが必要だと思っている。そのためには、先ず我々職員が、数の論理に屈することなく既製の常識社会に立ち向かっていく覚悟が必要なのである。いつの日か「世界に一つだけの花」をたくさん咲かせたい。
今朝、ラジオで流れていた話です。
『ネイティブアメリカンのナコタ族には、婿を選ぶ基準というのがあるそうだ。それは、男が狩りから帰って来た時、獲物をまず誰に与えようとするか!である。 自分の家族で独占する男は?・・・ もちろん失格! 好きな女性の家に持っていく?・・・これもダメ! “親を亡くしたり、夫を亡くしたりして、部族の中で一番困っている人に先ず獲物を持って行くかどうか” 父親は、娘に言い寄ってくる男たちの、ただその一点を見極めたという。』
 単なる強さではない、その中に併せ持つ思いやりこそが人間の価値だと説いています。
自己中心的大国アメリカは今、彼ら先住民から「本当の偉大さ」を学ぶべきです。
一方、障がい福祉にたずさわる我々にとって、常に肝に銘じておかねばならない厳しさであり優しさだと思います。また一方、利用者にも教えなければなりません。“世の中には自分よりも弱い立場の人がいる” ということを。 “んナコタあ 知らねえ”なんて“だアメリカン”
 一丁前に私も一女一男の父親です。もう何年も生活を共にしてはいませんが、いざその時が来たなら、娘にも息子にも、この話を伝えなければなりません、出来るだけネイティブに。ムーンワーカーズ

障がいのある人が自分の住む地域で日常の生活をする為の福祉支援やサービス、そして手当てなどいろいろな制度を受けたいと思ってもまずはそれなりの申請手続きをしなくてはならない。その為には、最初に地域の福祉課の窓口を訪ねなければならない。

次に、どのような支援サービスが利用出来るのか職員の人に一つひとつ尋ねるか、もしくはその種の手引書、サービスガイドを読みつくして探すのが当たり前となっている。自分で行動出来る研究熱心な人はその利用価値を最大限発掘できる。また自分で出来なくても身の回りにその内容を理解し手続きが出来る人が付いていれば支援やサービスを受ける事ができる。しかし、もし自分自身にその力がなく、なおかつ、身の回りにしかるべき人がいなかった場合はどうなるのか。それらの支援やサービスを知らず、何の援助もなく、若くして老人の孤独死のごとく終わってしまうのではないのだろうか。近年の事だが自分の親が亡くなった後も年金を止めることなく不正に受け取っていた事件があった。その人に手続きをする能力がなかったのか、悪いと知りつつやっていたのかは分からないが、もし前者ならば仕方のない事であろう。ここで言えるのは、両者とも手続きを知らなかったと考えられるという事だ。

福祉の支援、サービスを受けられるのに、知らない為に提供を受けられないというのは著しく不公平なことだと思う。

人間は社会的動物であるがゆえ弱者を守って生活するのが当たり前のことである。健常者が障がい者を助けるのは当然の事である。 

障がいのある人が住む地域において、“助けて”の声がない限り当たり前の事の様に放っておくのは行政の怠慢ではないだろうか。

道に倒れている人を、ただ見つめるだけで救護しないのとなんらかわりがない。せっかくの地域の社会資源があるのに、知らずに生活していて利用してもらえないのはもったいない話である。地域の福祉課の方々が、弱者に対しサービスや支援の必要性や利用価値を説明し、そして行政自らが手を差し伸べ、その人に申請の手続きを教え、出来ない人には代筆をし、弱者救済の人道的な支援をすることが真の福祉の姿ではないだろうか。        
「老いることは限りなく障がい者に近づくことだ」という言葉が真実ならば、自分が障がい者を共感できるようになるまで、あと20~30年かかることになる。それまでの間、我々は彼らに対し、どんな訓練作業を供給していけばよいのだろうか。一般社会への復帰を目指す就労支援において、それは本質的な課題である。
▼人はヒト、物はモノ
 作業する人が健常者であれ障がい者であれ、そこで造られたモノを世に出す以上、そのモノには、いただくお金に見合った価値がなければならない。なぜなら、モノづくりの業界では結果としてのモノが全てであり、そのプロセスを担っているヒトは何ら関係ないからである。したがって「べてるの家」に根付く合言葉、失敗しても“それで順調”などという“ダメもと的価値観”は大変な足かせになっていて当然だ。
 今や、年間1億円を超える昆布を製造販売しているこの授産所には、おそらく何億円にも上る“人並み以上の苦労”があるのだろう。

▼責任者はいない、みんなが当事者だ
 べてるの家には、責任者がいないらしい。事業のルール上、「サービス管理責任者」はいても、生活共同体としての責任者やリーダーを決めないということなのか。
 私は大賛成である。なまじっかに責任者を作ることで、個人の責任が集団の責任になったり、その逆だったり、かえって責任の所在を不明瞭にしているのが健常者社会の常ではないか。役人や政治家がその典型であるように、とかく群れをなしたがる日本人が国際社会において自立できない理由はここにあると思う。
 反対に責任者がいないことの裏返しは、全てが自己責任ということであり、だからこそ、べてるには、自己を問いただすための「当事者研究」が存在しうる。障がい者一人ひとりの自立を促す上で、このようなべてるのポリシーは、是非とも見習いたいものである。

▼淡水魚は海では暮らせない
 今いえることは、健常者の価値観を強要して健全?な社会に送り出すことが、必ずしも障がい者を救うことにはならないということ。川の清流に対して海水が淀んでいるという意味も込めて、そのことは淡水魚を荒漠たる海に放つ行為に等しいからだ。
 だがそうなると、そもそも障がい者の自立支援とは何か?と振り出しに戻ってしまうのである。思うに、健常者の立場からのみ「受容と共感」を掲げるなど、実におこがましいことではないのか。
 10年ほど前に“今日も順調”と昆布を売り歩いていた「べてるな人たち」と出会って以来、私は“それがどうした?人生そんなもんでしょ”を座右の銘とし、自らを受容している。 
ムーンワーカーズ
ムーンワーカーズ
ムーンワーカーズ
新年に、福祉教科書の決まり文句「受容と共感」を書初めしながらこんなことを思った。
▼健常者に近づくことが障がい者の自立なのか?
 入所当時、人前で話すこともしなかった利用者が、今では大勢の人前で試食販売ができるようになり、5+6の繰上げ算ができなかった利用者が、今では3桁の加減算ができるようになり、決して笑おうとしなかった利用者が、今では毎日笑顔を見せるようになった。それなりの成果が現れてきたと思う。しかし、この調子でどんどん進めること、つまり、どんどんと健常者に近づけることが利用者を自立させることなのだろうか? いや、大半の利用者にとって、それは見当違いなのだろう。なぜなら、我々健常者の常識がそのまま彼らの常識ではなく、むしろ我々が見ることも聞くこともない幻覚や幻聴と普通に会話することのほうが、彼らの常識だからだ。
 「受容」はできる、けれど「共感?」・・・ “できっこないでしょ! 僕たちが見えたり聞こえたりするものが何かわかりますか? 10本の指を使わなければ繰上げ算ができない私のイライラがわかりますか?”と、それこそ彼らのつぶやきが背中のほうから聞こえてきそうだ。
▼社会復帰を目指さない「非」援助論
「幻覚妄想大会」とは、北海道浦河町にある精神障がい者のグループホーム・ケアハウス・授産施設「べてるの家」の名物行事である。精神病の煩わしい症状である幻聴・幻覚・妄想に正面から向き合い、それどころか“幻聴から幻聴さんへ”と敬意を払いながら自分たちに見えたものを発表しあうこの大会では、人気の高かった幻覚類に“ぱぴぷぺぽ大賞”などの賞が贈られる。また、自分の病気や障害に名前をつけることから始まる「当事者研究」で、しばしば施設や職場を脱走してしまう自分のことを、“統合失調症”ならぬ“逃亡失踪症”だと自慢し、“流行語大賞”が贈られたそうだ。他にも「べてるの家」には、ユニークな決まり文句がたくさんある。“偏見差別・公私混同大歓迎” “勝手に直すな自分の病気” “安心して絶望できる人生” “生きる苦労を取り戻そう”授産所の中では、“安心してサボれる職場づくり” “手を動かすより口を動かせ” 失敗しても“今日も順調”などなど 我々の常識とは、まるで真逆の価値観が彼らの心の支えとなっているようだ。このようにべてるの家は、病気や障害をもつ利用者に対して健常者が援助の手をさしのべるのではなく、障がい者が集まれる場所と作業を“供給”するだけで、自ずと生きる苦労を “共感”する場所になっていくのである。少なくとも健常者の社会よりも安心できる場所に違いない。
$ムーンワーカーズ
 ムーンワーカーズ作業所が開所して5ヶ月が経った現在、10人の利用者たちは作業所の内外で元気に作業に励んでいます。

 入所当時、ほとんど無口だった人も次第に口数が増え、最初から口数の多かった人は相変わらずでしょうか。マイペースながらも、みんなそれなりに一生懸命でした。

食品のシール貼りや袋詰め等の作業を淡々とこなしてくれた人、
イベントでパフェを作ったり、コロッケを売ったりしてくれた人、
毎朝早くから南知多に出かけ、車に何杯もイモヅルを採ってきてくれた人、
毎日毎日、イモヅルの選別やイモ洗いをしてくれた人、
シールを作るため、何枚も何枚も金時イモの絵を描いてくれた人、
出来た食品を持って、日曜日でも半田や一宮で販売応援をしてくれた人、
畑作業をしてきたなかで、休みの日でも野菜の成長記録を採ってくれた人、
老人福祉センターで40人以上の似顔絵を描いて、お年寄りを喜ばせてくれた人、
作業所のゴミ捨てやトイレ掃除をいつもすすんでやってくれた人、

 …などなど、色々な作業を一通りやってみる中で、共同作業で力を発揮する人、一人でこつこつやる人、人が持っていない才能を持っている人という具合に、利用者各々の特性や得手不得手が表れてきており、職員とのコミュニケーションもより親密なものになってきています。

 今後ともムーンワーカーズ作業所は、利用者の特性を活かして、より一層新しい作業にチャレンジしていきます。どうか本年も宜しくお願い申し上げます。
$ムーンワーカーズ
“お年寄りに喜んでもらいたい”という思いを胸にムーンワーカーズ利用者4名は、小牧老人福祉センター「野口の郷」開催のクリスマス会におじゃました。我らミニ訪問団、今回の親善大使は、スピードお絵描きでおなじみとなった“はるちゃん”とその仲間たちだ。
 
 受付コーナーに似顔絵サンプルと順番予約表を置いて、“さあ、10時から始めますよ~”と準備もおぼつかぬ中、“どれ、一つお願いできますか”とお姉さん(若めのおばあさん)が はるちゃんの対面に腰かけた。と、みるみる絵が出来上がり
“あらっ、こんな可愛く描いてくれてありがとっ”と乙女の恥じらい?を見せてくれたところに 周囲からは
“いやぁ、見た目そのままですよ”な~んてね…。 こんなお世辞まじり会話が次々と人を呼び、気が付くと長蛇ならぬ長寿の列。

 そこで仲間たちが登場、“さあ、お待ちの方、こちらにお座りくださ~い。肩揉みしますよ~”脇役ながら彼らもしっかり仕事をしてくれた。

 こんな具合に、ようやく予約表もいっぱいに時が過ぎること約1時間半、なんと描いた似顔絵は40枚以上! 2分半で一人を描くそのスピード、質を落とさず描き続けるその集中力、手前味噌ではあるが我がムーンワーカーズの月星(ムーンスター)ともいえる彼女を心から褒めてあげた。
 
 ただ、来年からは“クリスマス会くらいは、ゆっクリスィマスかい?” 一方、館の職員さんたちは、ケーキやコーヒー、カラオケに抽選会まで朝からサンタの格好をしてやりクリスィマス、“ほんとに「サンタ苦労す」でしたね、最後にぼくたちが肩を揉みますよ”と我が仲間たち。
 
そこで一つ、思いがけない発見があったのは“肩揉み”だ。障がいを持つ彼らよりも私のほうが年齢が近いにもかかわらず、彼らにだけ安心して肩を揉ませてくれるお年寄りたち。“老いることは限りなく障がい者に近づくことだ”と聞いてはいたがそういうことなのか。
 
 ならばこの先、彼らを率いてお年寄りへの訪問行脚を続けるしかない! と決意をあらたにした一日だった。
ムーンワーカーズ
ムーンワーカーズ

その3.地下資源から地域資源へ

 
 TPP問題で日本が揺れ動いている。農林水産業(一次産業)を管轄する農水省と自動車やエレクトロニクスなど輸出産業(二次産業)を管轄する経産省との対立、それに医療、金融、ITなどのサービス産業(三次産業)が複雑に絡み合い、国民の想いも混迷をきわめている。一方で、TPPは大国アメリカとの国際対立でもある。そして、これら国内外の対立は、とりもなおさず政治家や官僚たちとそれに群がる民間団体(農協や経団連など)が巻き起こしている醜い利権争奪戦にほかならないのである。そんな国をして、アイデンティティの確立した民主主義国家といえるだろうか。

 宮崎駿氏が30年前に予想していたかどうかはともかく、この状況は、「風の谷のナウシカ」で辺境の小国を飲み込んできた大国トルメキアと拮抗勢力であるドルク連合国との領土紛争に似ている。それにしても、今ここに「風の谷」があったなら…。 仮にTPP参加で関税が撤廃され、外国産ジャポニカ米が10kg 1000円で国内に出回ったとしても、風の谷の住人には何処吹く風だろう。なぜなら作物を自給自足しているからだ。また、仮にTPP交渉決裂により外国から原油輸出規制という制裁を受け、石油価格が暴騰したとしても、風の谷は何らダメージを受けることはない。エネルギーも自給自足しているからだ。そう、辺境の小国でよし、住人が幸せならばそれでよし…と、みなさんは想われないだろうか。

 

さて、官僚制社会主義ともいえるとこの崖っぷちの大国を真の民主主義へと自立させていくのは、己自身を見失った国ではなく、内から全体を見れる位置にいる地方だと考える。ただし、中央集権から地方分権へといった在り来たりな発想ではない。下図にある一例は、我々が暮らす地域と隣接地域での資源の流れである。農水産物、企業、学校・研究施設、行政などの公的機関、そして住民、これらまとめて地域資源と呼び、地域の人が介在する限り、いくら使っても無くなることのない再生可能資源を、できるだけ有効に循環させることで、まずは地域社会が自立していくという考え方である。

そもそも、地下資源を食いつぶして己の利益をむさぼる経済成長が悪の根源と考えてきた筆者であるが、これ以上過去の批判をする者ではない。けれども、自分たちが暮らす日本を、そしてこの地域を、少しでも良くしていきたいと願うのは私だけではないだろう。「風の谷のナウシカ」にはなれないまでも「風の谷の“なう”」あたりを目指して立ち上げた「ムーンワーカーズ作業所」。その中で、障がい者自立支援法に基づく福祉サービスを提供していくからには、文字通り「障がい者の自立」が最終目標となるわけだ。そのためには、彼らと我々が一緒に暮らすこの地域社会が、まず自立していなければならないのである。

農作物もエネルギーも、そして福祉施設も、みんなを幸せにする資源として、潤沢に地域を循環してくれる日を望んでやまない。

 *バックナンバーと番外編 『成長から悪循環へ』は

http://craft-moon.com/seicho/ にてご覧いただけます。