ちょっとした呟き。



日本語にすると陳腐な言葉でも、英語で聞くと限りない可能性を感じる事があったりする。


それはおそらく、経験の差。



僕はこれまで、本当に沢山の本を読んできた。当然、和書だ。



沢山の日本語に触れてきた。僕は日本人だから。


最近、意識せずにきっちりした日本語を使える今の状況が、もの凄く恵まれていると、月並みの事を思うのです。



僕が初めて日本語に出会った時、僕は知らず知らずに、無限の可能性を感じていたのかもしれません。


聞き慣れてしまった今となっては、心が動く機会が殆どないのが現実です。

内包する物は変わらないのに、僕はそれに気づけない。


そして、僕がenglish sentences に出会う時、無限の可能性を感じるのは


その「内包する意味」にあるのではなく。



「僕の内」にあるのだと



考えてみる今日の昼。




なんて素晴らしい日でしょうか。


「年をとっていい事は、自分のできない事を知る事だわ。限界を超えた事を目指して自分を傷つけている人が沢山いるの。」


「出来ない事ってのは、単に今できない事じゃなくて、10年たってもできない事よ。」



大人になる事は、まだまだ僕には遠い話みたいです。


本を読んで、映画を見て。色んな人の考えに触れるたび、そう思う。



I`m still a child.



もっと経験を積む必要がある。ずっと感じているのだけども。


留学なんて、そのための1ステップにすぎない。


留学した人の話を色んなところで見てみると、愚かな人だっている。


家で本を読んでいた方が遥かに有意義だと思わせるような人がいるのです。



そうして僕は思うのです。


できない事って何だろう。と



僕にとって「単にやらない事」は彼らにとっての「出来ない事」かもしれないのです。


基準はそれぞれ自分しかない訳ですから、自分が出来るかできないか、経験で物を言う他ないのです。

そして他人のそれに対して判断をするべきではない訳です。


こんな事、中学生くらいの時にも考えました。

僕は本当に成長しているのでしょうか。


やっぱり僕は子供です。

起きたら12時でした。こんにちは。


最近、生活のリズムがバラエティに富んでいます。


決まった時間に何かをするって事がなくなった。これも大学生ならではなのでしょうか。


おかげで、最近は色々な事を考える時間が増えました。


大半はくだらない事で、たまに真面目な事を。


真面目な事を常に考えたところで、答えがでるかというと、それが微妙なのです。


むしろバランスが悪くなってしまう。


そういえば、去年の4月くらいに、mixiで知り合った人達の勉強会に2回程参加しました。


宗教系ではないのですが、生きる意味について、先人たちの考えを学ぼう、という趣旨でした。


ぼくは、ただただ興味心から参加しましたが、こういった大それた命題を、複数人で考えるというのは少し抵抗がある事に気づきました。


これはぼくの中では、少し大切な発見でした。


ぼくが人間を好きである事実はあれど、人間の本質、人生の本質について、自分以外の人間を介したくない。そんな思いが少々あったのです。


しかし、人間は何かと何かを比較する事で物事を究明していきます。


人間を究明するにあたって、他者を介さないというのは、何もしないと同じではなかろうか。


日常、感情はどこからくるのか、どうしてぼくは物を考えるのか、そんな事を知りたい知りたいと思いつつも、実際のところ、答えはでないままでいいと思っているのです。


これは、いわゆる不可知論というものですね。


ぼくは不可知論者でした。


ぼくがこの考えに至った理由はいくつか思いつくのですが、それはまたの機会にしましょう。


そう、生きる意味など我々にわかるはずもないのだ。


mixiの勉強会では、ヨーロッパの哲学は生きる意味を結局解明できなかったが、仏教のなんちゃらは解明した。みたいな話をしていたが、それは欺瞞である。


むしろ、生きる意味など、わからないからこそ人間は生きれるのである。たぶん。






と、ぼくは割りと真面目な類の事を考えてもいる。


しかし、こんなのを毎日考えるやつの気がしれない。



自分のペースでバランスよく。こうでなくっちゃ。




今日は日曜日。さざえさんでも見ましょうか。