ちょっとした呟き。



日本語にすると陳腐な言葉でも、英語で聞くと限りない可能性を感じる事があったりする。


それはおそらく、経験の差。



僕はこれまで、本当に沢山の本を読んできた。当然、和書だ。



沢山の日本語に触れてきた。僕は日本人だから。


最近、意識せずにきっちりした日本語を使える今の状況が、もの凄く恵まれていると、月並みの事を思うのです。



僕が初めて日本語に出会った時、僕は知らず知らずに、無限の可能性を感じていたのかもしれません。


聞き慣れてしまった今となっては、心が動く機会が殆どないのが現実です。

内包する物は変わらないのに、僕はそれに気づけない。


そして、僕がenglish sentences に出会う時、無限の可能性を感じるのは


その「内包する意味」にあるのではなく。



「僕の内」にあるのだと



考えてみる今日の昼。




なんて素晴らしい日でしょうか。