「おはよう、羽柴」


下駄箱で上履きに履き替えていると、後からやって来た市原が軽く俺の肩を叩いた。


「はよ。――お前さ、春樹に早く諦めろって言ってくれよ」


「んー?何の事かなー?」


俺は上履きを履き替えながらしらを切る市原を睨む。

だけど、こいつに何を言っても無駄だと思い直し深い溜息を吐いた。

応援はしても、邪魔するつもりはないらしい。


「あ、そうだ。最近、学校に行く春が楽しそうなんだよね」


教室へと肩を並べて歩いていると、市原が嬉しそうにニコニコしながら俺に言った。

横から見るその表情は、心から弟の変化を喜んでいる兄のそれだった。


「そっか」


春樹をそういう気分にさせてるのは間違いなく俺だろう。


「羽柴」


「何・・・?」


市原は妙に真剣な表情で俺を見る。


「春の事・・・よろしくね」


「よろしくって――」


「春って何でも出来てあの性格だろ?それが原因で、今まで特定の友達が出来た事がないんだ」


俺は静かに市原の話を聞いていた。


出来の良い人間の傍にいると、自分の欠点っていうのが嫌でも解るようになる。

そういう自分と出来の良い人間を勝手に比べて、どうしようもない劣等感に襲われたりする。

でもどうしたって、相手は相手だし自分は自分だ。


そもそも人と比べる事自体が間違っているのかもしれない。

それでも比べてしまうのが、人間っていう生き物なんだろう。


そういう理由で春樹と関わりたくないって人もいるのかもしれないけれど、俺は生まれ持った性格なのか、春樹のような人間と一緒にいても劣等感など感じない。感じるとすれば、羨ましさだけだ。


(例えば、あの身長の高さとか・・・・)


「春も春で、友達が出来るように努力しようとしないし」


困るよね、と付け足し市原は溜息を吐いた。


春樹はきっと、人と関わるのが苦手なんだろう。

何を喋って何をすればいいのか分からないだけ。

それさえ教えてやれば、彼の排他的な部分も変わると俺は思う。


「そんな春がだよ?羽柴には自分から積極的に関わろうとしてる。兄としては、嬉しい事なんだよね」


パッと表情を明るくした市原は、心底嬉しそうだった。


でも俺は、少し不安だった。

春樹は俺だけでいいと言った。それは嬉しい言葉だったけれど、身内と俺以外には心を開かないつもりなのかと時々不安になるんだ。


「だから、よろしくなんだよ。羽柴なら春を変えられるかもしれない」


市原は笑顔でポンッと俺の肩を軽く叩いてから、教室へと入って行った。


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


黄色い玉子焼きを口に運んで、もぐもぐと食べる。

俺好みの甘い味に、自然と顔が綻ぶ。

そんな俺を見て同じように顔が綻ぶ男が一人。勿論、春樹だ。


「何か嫌いな物でもあったのか?」


不安そうに眉を顰める春樹に 「べ、別に」 と、視線を合わせずに答える。

彼に会った瞬間、頬にキスされた時の事を思い出し、それから一度も彼の顔を見ていない。

たかが頬にって思うんだけど、どうしても意識してしまう。


「そう言えばお前、弁当作んの上手くなったな」


気を紛らわすように、俺は話題を振った。


最初の頃は食べられなかった程じゃなかったけど、結構味にむらがあったりして俺が思う 『完璧な弁当』 とは程遠かった。でも元々器用なのも手伝って、日にちを重ねる毎に春樹の弁当作りの腕は上がっていったと思う。

と言うか、何で男の春樹が甲斐甲斐しく俺の為に弁当を作って来るようになったのか。


それは 「手作り弁当っていいよな~」 と、何気なく俺が呟いたのを春樹が聞いていたからだ。

ちょっと感慨深くなって口を突いて出た言葉っていうのに。


「お袋に教えてもらってるから」


母親と一緒にキッチンに立って弁当を作ってる春樹を想像するだけで笑える。


(母親、かぁ・・・)


タコさんウィンナーを口の中に放り込み、そっと空を仰ぎ見る。

青い空にサッと薄く伸ばした白い雲が所々に散らばっている。

時折、小鳥が小さく鳴きながら俺の視界を通り過ぎて行く。


(“母さん”って、もう何年言ってないんだっけ・・・)


特に仲が悪いって訳じゃないんだけど、俺にそう呼ばれるのが嫌みたいで。


(あの人は“母親”って言うより、“女”に生きる人だから仕方ないんだけど)


昔はそれなりに気にしたけれど、今は別に育てて貰ってるだけでも有り難いと思えるようになっていた。


「梓?」


「・・・・・・・ッ!」


沈黙したままの俺を怪訝に思ったのか、春樹が心配そうに俺の名前を呼んだ。

その声に誘われるように視線を地上に戻すと、春樹の端整な顔が目の前にあった。

ある意味、彼のドアップは心臓に悪い。お陰で、現実に引き戻されてしまった。


「あ、顔赤くなった」


「一々口に出すな!」


恥ずかしくなった俺は残りのおかずをささっと平らげ、直した弁当箱を春樹に突き返した。


頬に触れるだけのキスだったのに、何で俺はこんなに意識してしまうんだろう。

男が相手だっていうのに、おかしいじゃないか。てか、自分ばかり気にしてるのが悔しい。

春樹はいつもと変わらないし、彼にとっては気にする程でもない出来事だったのだろうか。


「もしかして、この間の事まだ気にしてんの?」


春樹はそう問いかけ、スッと俺の頬に触れる。優しく、撫でるように。

その仕草に、我知らずドキドキと胸が高鳴る。


「そ、そんな訳ないだろ!」


春樹の手から顔を背け、自分だけが意識してるんだと悔しくなって虚勢を張る。


「嘘つくの下手だな、アンタ」


春樹が僅かに口角を上げた。


「まぁそういう所がいいんだけど」


急に春樹の手が伸びて来て、ガシッと俺の顔を両手で固定した。

無駄だと分かっていたけれど抵抗してみるが、案の定無意味な行為だった。


「は、放せ!」


「俺と付き合ってくれたら、放してやってもいい」


「何でお前は年下のクセに偉そうなんだよ!ちょっとは先輩を敬え、バカッ!!」


そう怒鳴ったところで、春樹は微動だにしない。

最初の頃は少しビビった表情を見せたけれど、今はすっかり免疫がついてしまっているようだ。


「じゃあ、キスしてくれたら放してやるよ」


その言葉にカァと顔が熱くなるのが分かる。

怒りのせいなのか、恥ずかしさのせいなのか区別がつけられない。


でも、自然と視線が春樹の口元に向かう。

薄くて形の良い唇で、それに自分のそれを重ねたらどんな感触がするんだろうか。


(――って、何考えてんだ俺!!)


自分自身を叱りつけ、放せと渾身の力で春樹の手から逃れた。

戒めが解かれた俺は、立ち上がってその場から逃げようとしたけれど、春樹に扉の前に立たれてしまう。


「退けよ」


「嫌だ」


「お前な・・・いい加減にしろよ。そろそろ授業始まるだろ?」


そう言っても、春樹は道を譲ろうとはしない。

ただ押し黙って扉の前から動こうとしない彼は、これから始まる授業よりも俺との時間の方が大事のようだ。


「・・・お前さぁ、一体どうしたい訳?」


初対面の俺に 『惚れた』 と言って。

高校に入学してからひたすら俺に会いに来て、付き合ってくれと言いまくって。

その行動全てを含めての言葉だった。


「俺は、アンタが欲しいだけなんだ」


春樹は、面と向かって俺に欲望をぶつける。

その言葉にドクンと、大きく心臓が跳ね、手に僅かな汗をかく。


「誰にも渡したくない。梓の一番近くにいるのは、俺じゃなきゃ駄目なんだ」


子供じみた独占欲。けれど、嫌じゃない。

寧ろ・・・嬉しいかもしれない。人から求められるのは、こんなにもドキドキするものなのだろうか。


「・・・分かったよ」


俺はボソッと呟く。

ここまで言われて、動かない訳にはいかないだろう。


「俺のものになってくれるのか・・・・?」


縋るように俺を見詰める今の春樹は、年相応に見える。

そんな表情をされると、こいつには俺がいてやらなきゃって気持ちにさせられるから不思議だ。

でも、優しくしてやれるかは分からないけど。


「自惚れんな。前向きに考えてやるってだけだ」


俺はそう言って、春樹から視線を逸らす。


「梓・・・・・・」


そう俺の名前を呼ぶ主を見ると、思わず息を呑む程の笑顔を浮かべていた。

俺が今まで見た彼の笑顔よりも、今の笑顔が一番胸に沁みる。



この笑顔は、素直に好きだと思った―――







俺――羽柴 梓は、先月悲しい失恋を経験した。

そしてその翌日から、ある後輩から熱烈なアプローチを受けるようになった。

正直言ってあまり嬉しくない。なぜならその相手は 『男』 だからだ。


「おい、羽柴。また来てるぞ」


面白い事が始まるぞと楽しそうな表情をした友人の市原が声を掛けてきた。

彼が指差す教室の後ろ扉に視線を遣ると、昼休みの度に俺のクラスに現れる後輩がいた。


「あれ、お前の弟だろ?何とかしてくれよ」


深い溜息を吐いて助けてくれよと目で訴えるが、「嫌だ」 と笑顔で一蹴される。

この時ばかりは、俺達に一切干渉してこようとしない我が親友を恨めしく思う。

自分の弟が過ちを犯そうとしてるんだから、それを止めるのが兄の役目じゃないのか。


「薄情なヤツ」


ボソッと愚痴を市原にぶつけ、重い足取りで例の後輩が待つ後ろ扉に向かう。

背後で楽しそうな表情をした市原が俺を見ているのが分かる。


「何か用かよ」


癪に思いながらも、自分よりも遥かに背の高い後輩を見上げ声を掛ける。

叶う事ならその高さを半分俺にも分けて貰いたいところだ。


「今日天気いいから、一緒に屋上に行こうと思って」


彼はそう言うと、俺の目の前でお弁当をチラつかせる。

彼の事だからそのお弁当は彼の手作りに間違いない。


甲斐甲斐しいとは思うさ、俺だって。

自分の為に朝早く起きて作ってくれたんだから。

でも素直に喜べないのは、目の前にいるヤツが男だからだろう。


「あ、春樹くんだ!」


どう言い返そうか言葉を選んでいると、ゾロゾロと数人の女子が彼の周りに集結し始めた。

俺はそれから一歩下がって溜息を吐く。

こうなるのが分かってるから、あの後輩――市原春樹に付き纏われるのが嫌なんだ。


春樹がどうしてこんなに女子に人気があるのか。

言うまでもないが、一応説明しておく。


背が高く体格もいい。顔は二枚目で、かなり整っている方だと思う。

ただ欠点を挙げるとすると、信じられない程愛想がない。

感情が表面に出にくいし、常に怒っている様にも見える。

目鼻立ちが整っている分だけ、余計に迫力があるのかもしれない。


そんな春樹に群がっている女子は、逆に彼のようなタイプが好きだからだろう。


そして、色んなクラブから勧誘を受ける程の運動神経を持ちながら、春樹はどのクラブにも所属していない。

なまじ何でもそつなくこなすうえ、他人に媚びる事もなく飄々としているせいで、上の人間からは 『生意気』 と取られる事が多くて、どうしても部内の上下関係が上手くいかないのだ。

団体競技は苦手だからと、中学の時は陸上部に所属していたみたいだけど、結局人間関係がしんどいと止めてしまったらしい。


スポーツが得意なだけじゃなく、春樹は頭もいい。

何と言っても、この前の実力テストでは学年十七位。

つまり勉強もスポーツも人並み以上で、しかも顔もよく格好いい。


(まぁ存在自体が嫌味なヤツなんだよな)


「梓」


不安を含んだ低い声に呼ばれて仕方なく彼の傍に行ってやると、慣れた手付きで肩を抱かれた。

これもいつもの事だから、今更抵抗する気も起こらない。それに、力では到底敵いっこないし・・・。


「俺、梓しか眼中にないんで」


俺が傍にいる事で自信がついたのか、いつもは寡黙な春樹がはっきりと気持ちを口にした。


(何で呼び捨てなんだよっ)


胸中で愚痴りながら妙に納得してその場を去って行く女子達を見送った後、キッと春樹を睨み付けた。


「馴れ馴れしく名前で呼んでんじゃねーよ!年下のクセにっ」


「そう怒るなよ」


まるで、小さな子供を宥めるように俺の頭を撫でる春樹の手を振り払う。


「俺を子供扱いす・ん・な!それから、そのタメ口やめろ」


「止めたら俺と付き合ってくれんの?」


「・・・何でそういう話になるんだよ」


ガクッと肩を落とし、取り合えず屋上に行こうと春樹の制服の袖を引っ張った。

チラッと春樹を盗み見ると、キツイ印象を与える切れ長の双眸が嬉しそうに垂れていた。

しかも若干、頬まで赤い気がする。


流石にここまで初々しい反応をされると、さっき冷たく当たった事に罪悪感を感じられずにはいられない。


そして、俺達の昼休みは大概こんな感じで過ぎて行く。


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


俺と春樹が出会ったのは、俺が高一で春樹が中学三年の時だった。

市原の家に遊びに行った時に、偶然春樹とばったり会ったのだ。

そして初対面だと言うのに、いきなり 『惚れた』 と告げられた。


この時はただの冗談だろうと、真に受ける事なくその日は終わった。

そして年が明けて、俺が通う高校に春樹が入学してきた。

兄と同じ高校に入るのは別におかしい事じゃないが、春樹の場合、俺と会った翌日に本来目指していた志望校を諦めうちの高校を受験する事に決めたらしいのだ。


一人の人間の人生を動かした俺って、ある意味凄いんじゃないかって思う。


入学してからの春樹は兄の市原に用があるとの名目で、俺のクラスに現れては 「付き合ってくれ」 のオンパレードだった。


そういう趣味のない俺は、ちゃんと三組の可愛い女子に片想いしていた。

だから諦めろとキツくお灸を据えてやると、パッタリと付き合ってくれ攻撃は止まったが、相変わらず俺には会いに来ていた。


そして暫くして、俺が片想いしていた相手に年下の彼氏が出来たらしく、想いを告げる事なく十七の俺の恋は終わりを告げた。それを知ってか知らずか、春樹の付き合ってくれ攻撃がその翌日から再開したのだった。


「はぁ~、分かんねー」


今日中に提出しなきゃいけない数学の課題プリントを前に、俺は溜息と共に弱音を吐いた。

放課後の静かな教室に一人ってのは、結構心細い。


そんな俺の気持ちを表すかのように、窓から見える外はどんよりと曇っていた。

空一面を灰色のぶ厚い雲が覆っていて、今にも雨が降り出しそうだ。


「傘持って来てないんだけど大丈夫かな・・・」


ボソッと呟いた瞬間ガラッと扉が開く音がして、俺はビクッと肩を揺らし、音がした後ろ扉の方に視線を遣ると春樹が立っていた。


「驚かせた?」


俺の表情から読み取ったのか、春樹がこちらに近寄りながらそう問い掛けてきた。


「べ、別に。そんな事より、何でお前がここにいるんだよ」


本当は心底驚いたが、それを素直に認めるのはプライドが許さず少し虚勢を張ってみた。


「貴に教えて貰った。梓がここにいるって」


“貴”とは貴明の事で、市原の名前だ。

逆に市原は春樹の事を“春”と呼んでいて、傍から見ている限りはそこそこ仲の良い兄弟だと思う。


「市原のヤツ、余計な事を・・・」


春樹に聞こえるか聞こえないかの声で呟くと、彼は俺の前の席の椅子を引いて俺と向かい合うように座った。


「何やってんの?」


春樹はサラッと髪を落とし、俺の手元に視線を移した。

その近さに我知らず心拍数が上がった。


「課題だよ、課題」


「ふぅん。――あ、ここ違う」


長い指に指された問題文に目を落とすと、「この公式じゃなくて、こっちの公式を使うんだよ」 と言いながら、俺の手から奪ったシャーペンで正しい回答を空白部分に書いて行く。

俺はそんな春樹に呆気に取られる。何故なら、二年の問題を一年の彼がいとも簡単に解いてしまっているからだ。


「よ、余計な気ィ回すんじゃねーよ」


ここは礼の一つでも言っておくべきなのだろうが、俺のプライド様がそれを良しとしない。

それに悔しいし。


そんな俺の気持ちに気が付いたのか、机に頬杖付いていた春樹がフッと笑った。


「素直になればいいのに」


「なっ・・・・」


カァと頬が熱くなるのが分かる。

正直言って、俺は春樹の笑顔には弱かったりする。


(こいつは男だろ!)


急いで正気を取り戻した俺は、頬の朱を振り払うように頭を振った。

顔がいいヤツは、どんな表情をしても様になるから困るんだよ。


「あのさ、何でお前、俺と一緒にいる時みたいにしてねーの?普段」


春樹から奪い取ったシャーペンを走らせながら、ふと思い付いた事を問い掛けてみた。


普段の彼は不愛想なうえに寡黙で、あまり人を寄せ付けない。

たまに人と会話する事があっても、必要最低限の返答しかしない。

けれど俺と会話する時は、その素っ気なさがないのだ。


寡黙なのは変わらないが、思った事をスラッと何でも口にする。

それに普段皆に見せないような表情を、俺には見せてくれる。

そういう事をされると、俺は春樹にとって 『特別』 なんだと思ってしまう。

いや、実際そうなのだろう。


「普段もそうしてたらいいと思うぜ、俺は。そうしたら、友達も増えるのに」


ちょっと生意気な所はあるが、本当は優しいヤツなんだって事は充分理解している。

だから俺と一緒にいる時みたいにしていれば、きっと友達の一人や二人は出来る筈だ。

春樹と話したいって思ってるヤツは沢山いるだろうと思うから。


「お前さえいれば俺はいい」


心底困ってしまうのは、その言葉は決して上辺だけのものじゃなく、彼が本気で言ってるって事だ。

春樹は、俺さえいれば友達なんか要らないと言って憚らない。

俺はいいけど――いや、やっぱり良くないのか。春樹の事を考えたら、これはマズイだろう。


(――って、何で俺がこいつの心配しなきゃいけねぇんだよ)


「よし、出来た!後は提出するだけだっ」


さっさと帰り支度を済ませ、春樹と一緒に教室を出る。

そして職員室に寄ってプリントを提出し、下駄箱で靴を履き替え、春樹と肩を並べて立ち尽くした。


「げっ。雨降ってんじゃん」


ザーッと、雨が地面を叩く音だけが聞こえる。


どうしたものかと思案していると隣でパンッと何かが開いた音がしたので、隣を見ると春樹が開いた青い折り畳み傘を片手に立っていた。


「お前、準備いいな」


思わず感心した俺の手から鞄を奪い、傘を持っていない方の手で自分の鞄と一緒に持ち、そっと俺を自分の傘の中に入れた。


「春樹・・・?」


「いいから、行くぞ」


俺は促されるままに、春樹と肩を並べて昇降口を出た。


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


道端で名前も知らない花が、しっとりと雨に濡れている。

色鮮やかな花びらの表面をコロコロと、透き通った水の玉が転がる。


木も草も空から降る水に濡れる中、人間だけが傘を差す。

一つの傘の中に二人。肩を寄せ合い並んで歩く。

一度はやってみたかった相合傘だ。


(でも、男同士ってのがなぁ)


肩幅の広い人間が、極めて限られたスペースを共有し、ぴったりと身体をくっ付けて歩いてるんだ。

はっきり言って――


「狭っ」


「文句言うな。折り畳み傘なんだぞ、直径なんかたかが知れてる」


「まぁそうだよな。物理的な限界だろうな、これが」


傘の縁からぽとぽとと雫が滴り落ちる。

小さな布ばりの屋根の下、雨の当たる音が籠って聞こえる。


「欧米の人は、滅多に傘差さないらしい」


「マジ?」


「あぁ。普段から防水性の高い上着着てるし、この程度の雨なら気にせずざっかざっか歩くらしい。男も女も、子供も」


「ほえー。大胆っつーか、豪快だなぁ」


「何たってバイキングの子孫だからな。それに、家の中に入ればすぐ乾いちまうんだろうな。温度も低いし、空気も乾燥してるし」


「そうなんだ。よく知ってんなーお前」


「チラッと見たテレビでやってた」


うっかりすると肩が触れる程、二人の距離は近い。

そこはかとなく漂う照れくささ、気まずさから意識を逸らそうと、他愛のない事を喋りまくった。


「・・・しかしこれ、絵的にどうなんだろうな?」


「今俺達がどう見えてるのか、なんて自分達からは見えないんだから気にならない」


「ま、確かにそうだな」


雨の中、歩いている人は殆どいない。たまにすれ違っても、前だけ見て足早に通り過ぎて行く。

何となく気になって動きだけを目で追っていたら、通り過ぎてからチラッとこちらを振り返り、ばっちり目が合ってしまった。


同じ年ぐらいの女の子だった。

ついと目を逸らして、何も言わずにスタスタと歩いて行ってしまった。


(やっぱり変だと思われたんだろうな・・・・・・)


男同士、二人でぴったりくっ付いて相合傘なんて。

本人達が平気でも、やっぱり他人から見れば妙だよ、変だよ、つか絶対おかしい。

でも片っぽが女の子だったら、そうじゃないんだよな。羨ましいような、微笑ましいような。

きっとそんな気分になる。


雨が染みる。靴の縫い目からひしひし染み込んで、足を、靴下を濡らしていく。

じっとりと。ひんやりと。


ふと隣を歩く春樹を見上げると、本来表情が乏しい筈の彼の表情が嬉しそうだった。

道端で偶然百円玉を拾った時の小さなラッキー感のような、そんな嬉しさが彼の表情に僅かに滲み出ていた。


「何かお前、嬉しそうだな」


「本当に好きなヤツと、こういう事するの初めてだから」


俺が思った事を何の躊躇いもなく口にすると、少し頬を赤らめた春樹が俺とは目を合わせずただ前だけを見て、ボソッと呟いた。


その姿に我知らずキュンとトキメイてしまった。

今時ここまでピュアな人間はいないんじゃないだろうか。


(可愛いとこもあるじゃん)


そういう反応をされると、また相合傘をしてやってもいいかなって思ってしまう。


「あ、もういいよここで」


自分の家が見えた所で立ち止まり、春樹から鞄を受け取る。

そして意を決して、俺は顔を上げた。


「い、一度しか言わないからよく聞いとけよ」


「・・・・・?」


春樹はなんだろうと、これまた可愛いく首を傾げた。

それに気を取られまいと頭を振ってから、春樹の目を見て笑顔で口を開いた。


「か、傘に入れてくれて、そ、その・・・・・ありがとうな・・・」


たったそれだけを言うだけなのに心臓がバクバクいっている。

笑顔がぎこちなくなかっただろうかと色々考えていると、ふっと視界に影が差した。

そう気付いた瞬間には、ばっちり春樹にキスされていた。唇にではなく、頬に。


「な、何やってんだよ!俺の許可なくっ」


キスされた左頬に手を添え、春樹を怒鳴った。


「何って、キスだろ。もしかして、頬だったのが不満なのか?」


「・・・・・・・・っ!!」


恥ずかしさや怒りで顔が熱い。


「も、もういい!やっぱりお前は生意気だっ!!」


そう言って、俺は家までダッシュした。春樹を振り返る事なく。

5話―最終話―



目の前に、ずっと想いを寄せ続けていた人がいる。

もう二度と会えなくなるのではないかと覚悟を決めた相手が、優しい眼差しで泉を見詰めている。


「泉くん・・・」


静かな室内に溶け入るような、穏やかな声音にきゅっと胸が締め付けられる。

あんな事があっても自分と会ってくれようとしてくれた秀一に、あぁやっぱりこの人は優しい人だと、彼への愛しさが胸いっぱいに広がっていく。


これから何を言われるのだろうか?

気持ち悪いと軽蔑される可能性はないに等しいとしても、自分の想いは受け入れて貰えないかもしれない。

それは彼を好きになってしまった時から分かっていた事だ。だから、何を言われても平気・・・な筈だ。


秀一はまだ早苗の事を愛している。パッと忘れて次へ進める程度の想いの強さではない事は、ずっと彼の傍にいた泉が痛いほど分かっている。忘れる必要もないとは思うけれど、同時に二人の人間を心に住まわせる事が出来ないだろう。秀一は恋愛の事には真っ直ぐな男だ、そこまで器用ではない。だから、彼に何を言われても受け入れる。


「大事な・・・話があるんだ」


沈黙を破ったのは秀一で、あまり見た事がない緊張した面持ちをしている。

泉はぎゅっと拳を握りしめ、視線を足元に落とす。


(あれ・・・・?)


僅かに視界に入って来た秀一の左手から、いつもある筈の指輪がなくなっている。風呂に入る時以外は片時も外した事がなかった筈だったのだけれど、今日は一体どうしたのだろうか。


――そんな事を考えていると、いきなり大きな手が泉の両手を優しく包み込んだ。驚いた泉はパッと顔を上げ、目の前にある秀一の瞳を見詰めた。


「いつも、僕の傍にいてくれてありがとう。それから・・・情けない僕に見切りを付けずにいてくれて、ありがとう。えっと、それから・・・・」


少し頬を紅潮させながら気持ちを紡いでいく秀一を、泉は静かに見守る。


「早苗の事は、絶対に忘れられないと思う・・・」


その言葉にズキッと胸が痛む。分かっていた事とはいえ、本人の口から聞くのはやはり辛い。

初めて本気で好きになった女性だったのだと前に秀一が言っていた事を思い出し、当たり前だよなと、落胆する。


「でも、それでもいいんじゃないかって・・・思うんだ。無理に忘れる必要はなくて、でも過去に囚われ過ぎるのもいけない。ちゃんと前を向いて歩いて行く事が、残された僕の役目だとしたら・・・僕は泉くんと一緒に歩んで行きたいんだ」


「え・・・?」


何を言われたのか急には理解出来ない泉に、秀一は決定的な言葉を口にした。


「僕は・・・君を愛してる」


ドクッと一際大きく心臓が跳ね、夢と現実の区別がつかないフワフワとした気持ちに満たされ、思わず言葉を失う。


「今まで辛い思いさせてごめん」


不意に影が覆い被さって来たと思ったら、泉は秀一の腕の中にいた。

確かに抱きしめられている感触はあるのに、どうしても現実のものだとは信じ難い。

ずっとずっと、願い続けていた事が叶った事実が嬉しくて幸せで、まさに夢心地だった。


「好きだよ、泉くん。これからも僕の傍にいてくれると嬉しいんだけど」


優しい声音に促されるように、泉も秀一の背に腕を回す。頬を彼の肩口にすり付け、身体全体で彼の存在を確かめる。


「嫌だって言っても離れませんから・・・」


「それでいいよ」


そっと腕を解いて、至近距離で秀一と見詰め合う。暫くそうしていた後、不意に背後に回った秀一の手が、そっと泉を引き寄せる。泉はじっと、その瞳を見詰めていた。


薄暗かった室内に、夕暮れの赤い光が入り込んでくる。

それを感じながら、秀一の唇と自分のそれが触れ合う。優しい感触。彼の温かみが身体中に流れ込んでくる。

そこに、恥ずかしさはなかった。ただお互いの存在を求め、お互いを支え合い、お互いを大切に想う気持ちだけが、そこにある。


不意に、目から涙が溢れ、頬を伝うのが分かる。


(やっと、つかまえた・・・)


泉は、秀一の身体をぎゅっと、抱きしめる。彼は、自分と一緒に、そこにいた。

もう彼から距離を感じる事はない。こうして、唇から、その身体から、温かい心を感じる事が出来る。

彼の穏やかで優しい気持ちを感じられる。


「泉くん、ちょっとごめんね」


唇を離した瞬間そう言われたかと思うと、フワッと身体が浮いて秀一にしっかり抱き上げられていた。


「えっ!?ちょっ、浅井さん!?」


自分がお姫様抱っこをされている恥ずかしさに顔を赤くして、じたばたと秀一の腕から逃れようとするけれど無駄な足掻きだった。


「僕の事は、これから“秀一”って呼んで貰えるかな?」


ニコニコした笑顔が目の前にあって、恥ずかしさを振り払うように力強く頷く。

秀一はそんな泉にクスッと小さな笑みを洩らすと、近くにあったベッドに泉をそっと下ろし組み敷く。


「あ、あの!」


混乱して今の状況に着いて行けない泉は、両手で秀一の肩口を押し返す。


「あぁ、気付いてあげられなくてごめんね」


自分が伝えようとしていた事が彼に伝わったのだと泉は安堵したのだけれど、


「下に親御さんがいたんだよね? それの事なら大丈夫だよ。大事な話があるから、暫くは二人だけにしておいて下さいって頼んでおいたから。それに、この部屋にちゃんと鍵付いてるみたいだし」


「へ・・・・?」


予想外の事を言われ、不安がいっきに押し寄せる。


「バレないように君も・・・・泉も協力して欲しい」


初めて呼び捨てされ、ドキッとしてしまう。

それだけではなく、何だか今の秀一はいつもの彼とは違う。

優しいのは変わらないけれど、こんなに強引な人だっただろうか。


秀一との行為が嫌という訳ではないのだが、それがいきなりだった為、充分な心の準備が出来ていないのだ。

おまけに、一階には母親がいる。協力してくれと言われても、色々頑張れそうにない。好きな人に抱かれるのだ、頑張る事も我慢する事も出来る自信がない。


「努力はしますけど・・・手加減して下さいよ、秀一さん」


「分かってるよ・・・」


秀一は微笑むと、優しく泉の髪を撫でた。


「・・・・好きです」


「うん」


ちゅっともう一度泉の唇に自分のそれを押し当て、秀一は泉に 「僕も君が好きだ」 と耳語する。

照れてどうしようもなくなっている間に身に着けていた衣服を脱がされてしまい、泉の肌が露わになった。


(こういう事は器用なんだ・・・)


感心しながら、自分と同じように肌を晒す秀一を見詰める。

彼のしなやかな肢体が魅力的に見えて、ドキドキと鼓動が速くなっていく。


フッと目が合った瞬間、秀一はニコッと優しい笑みを見せてくれた。

それが愛しく感じられて、泉は上体を起こすと唐突に自分から秀一を抱きしめた。

弾力に富んだ肌と心地好い体温を同時に手に入れ、泉は至極満足だ。


他人と初めて肌を合わせる緊張も、秀一の熱にたちまち溶かされてしまう。

なめらかな背中に掌を置き、泉は満ち足りた吐息を漏らした。


陽が完全に落ち切っていない部屋の中はオレンジの光が洪水のように溢れ、お互いの睫毛の動きまでがはっきりと見える程だ。そんな場所で一糸纏わぬ姿を晒すのには、もう少し理性を飛ばしてからでないと難しそうだった。


「泉・・・?」


背中に回された掌の熱さに気付き、秀一がそっと声を掛けてくる。綺麗に浮き出た肩甲骨に指を這わせ、泉は無言で溜息をついた。秀一の温もりがじかに重ねた肌から流れ込んでくる。濡れた唇を深く合わせて、眩暈を起こすほど長い口づけに二人はしばし没頭した。抱きしめる力に想いを込め、飲み込む吐息に揃って願いを託す。


いつまでも、こんな時間をあなたと持てますように。

いつまでも、あなたがここにいますように。


「泉、大丈夫?胸が、凄くドキドキいってる・・・」


「自分から誘っておきながら何なんですか・・・。――大丈夫ですよ、秀一さんなら」


いつの間にか、答える声が熱で掠れている。素肌を重ねているだけで、細胞が甘く生まれ変わっていくのを泉は感じていた。今までの自分は全部熱に溶けて、秀一の触れた先から新しく生まれ変わっていく。

どんな部分に快感が潜み、どんな動きにそれが煽られていくのか、全て秀一の指と舌で教えられていった。


泉はシーツの上で魚のように跳ね、切なげに声をベッドに散らす。

体温が上がるごとに身体のあちこちで口づけの跡が色づき、それが凄く綺麗だと秀一が囁いた。

綺麗なんて単語、生まれて初めて言われました。荒く弾む息の下で切れ切れにそう答えると、指先を淫らに操っている最中にも拘わらず、秀一は短く笑い声を立てた。


肌が湿り気を帯び、指先まで走る快感に幾度も我を失いそうになると、その度に秀一はわざと愛撫を止めてしまう。焦れた泉は不機嫌に眉を寄せ、切なく彼を睨みつけた。その唇がぞくぞくするような艶が泉の表情にふわりと膜を張った。


「泉・・・・・・」


「・・・え?」


「このまま・・・抱いていい?」


秀一の問い掛けに、泉は僅かに頷いて目を閉じる。それでも、膝にかかった手が脚を開かせようとした時は、無意識に力を入れて逆らってしまった。秀一は決して焦らず、泉のこめかみに軽いキスを贈りながら、慎重に泉の中へ身体を推し進めていく。浅く深く呼吸を繰り返し、腰から背中へかけて走る鈍痛を何とか堪えながら、泉は秀一の全てを受け入れた。


いったん鎮まったかに思えた情熱が、秀一の動きによって再熱する。繋がった箇所が熱く疼き、今度は泉も意識を飛ばさないようにするのが精一杯だった。むきだしの肩にしがみつき、何度も激しく揺さぶられながら、ただひたすら秀一の名前を呼び続ける。


泉、と耳元で繰り返される音が、自分の名前だと気付いたのはもっと後の事だった。

秀一の動きが一際激しくなり、身体を駆け巡る熱い塊が出口を求めていっきに膨れ上がる。

限界まで引き上げられた次の瞬間、泉は短く叫んで全ての熱を吐き出していた。


続いて秀一も絶頂に達し、それまで浮いていた身体がずっしりと泉の上で重みを増す。驚くほど早いスピードで爪先まで気だるさが拡がっていき、次いで痛みと快感の余韻がかわるがわる泉水を襲った。


「・・・・・ふぅ」


直ぐには動けなかったので、泉はぼんやりと天井を見詰める。傍らに身体を移した秀一が、長い吐息を吐くのが耳に入った。その掠れた響きのなまめかしさに、泉の胸に甘く痛みが走る。

秀一があちこちに何度も唇を寄せたせいで、肌がまだ愛撫を忘れていない。そんな風に食い散らかされた身体は、異様に感覚が鋭くなっている気がした。


「・・・泉、大丈夫だった?」


「え・・・・・・・?」


「やっぱり、少し性急過ぎたんじゃないかって思って」


秀一はゆっくりとベッドに上半身を起こす。

シーツに肩まで潜り込んでいる泉は、秀一の身体をよく見ようとして、いつの間にか部屋が真っ暗になっている事に気付く。こんな風にして、陽の落ちるペースは毎日少しずつ早くなっていくのだ。ふと物寂しさに襲われた泉は、秀一の左腕をそっと引っ張ってみた。


「でも、嬉しかったです・・・好きな人と一つになれた事が。それに、普段見れない秀一さんを見れた事も嬉しかった・・・」


泉が幸せそうに満面の笑みを浮かべそう伝えると、秀一は頬を赤らめ 「そっか・・・」 と柔らかい笑みを浮かべた。そして今度は泉が頬を赤らめる番だった。


その後はお互い妙に緊張しながら脱いだ衣服を身につけた。

堪え切れなかった声が漏れていなかったか心底心配になったけれど、それは無駄な杞憂に終わった。


隆史の事は秀一から事情を聞き、今度二人で謝りに行こうと決めた。

正直、隆史がそこまで自分の事を大切に想っていてくれたとは知らなかった。

どうやら、彼にも思う所があったらしい。




そして、思った以上に頑固な彼に謝る作戦を傍らにいる 【愛しい人】 と考える泉だった――。