「おはよう、羽柴」


下駄箱で上履きに履き替えていると、後からやって来た市原が軽く俺の肩を叩いた。


「はよ。――お前さ、春樹に早く諦めろって言ってくれよ」


「んー?何の事かなー?」


俺は上履きを履き替えながらしらを切る市原を睨む。

だけど、こいつに何を言っても無駄だと思い直し深い溜息を吐いた。

応援はしても、邪魔するつもりはないらしい。


「あ、そうだ。最近、学校に行く春が楽しそうなんだよね」


教室へと肩を並べて歩いていると、市原が嬉しそうにニコニコしながら俺に言った。

横から見るその表情は、心から弟の変化を喜んでいる兄のそれだった。


「そっか」


春樹をそういう気分にさせてるのは間違いなく俺だろう。


「羽柴」


「何・・・?」


市原は妙に真剣な表情で俺を見る。


「春の事・・・よろしくね」


「よろしくって――」


「春って何でも出来てあの性格だろ?それが原因で、今まで特定の友達が出来た事がないんだ」


俺は静かに市原の話を聞いていた。


出来の良い人間の傍にいると、自分の欠点っていうのが嫌でも解るようになる。

そういう自分と出来の良い人間を勝手に比べて、どうしようもない劣等感に襲われたりする。

でもどうしたって、相手は相手だし自分は自分だ。


そもそも人と比べる事自体が間違っているのかもしれない。

それでも比べてしまうのが、人間っていう生き物なんだろう。


そういう理由で春樹と関わりたくないって人もいるのかもしれないけれど、俺は生まれ持った性格なのか、春樹のような人間と一緒にいても劣等感など感じない。感じるとすれば、羨ましさだけだ。


(例えば、あの身長の高さとか・・・・)


「春も春で、友達が出来るように努力しようとしないし」


困るよね、と付け足し市原は溜息を吐いた。


春樹はきっと、人と関わるのが苦手なんだろう。

何を喋って何をすればいいのか分からないだけ。

それさえ教えてやれば、彼の排他的な部分も変わると俺は思う。


「そんな春がだよ?羽柴には自分から積極的に関わろうとしてる。兄としては、嬉しい事なんだよね」


パッと表情を明るくした市原は、心底嬉しそうだった。


でも俺は、少し不安だった。

春樹は俺だけでいいと言った。それは嬉しい言葉だったけれど、身内と俺以外には心を開かないつもりなのかと時々不安になるんだ。


「だから、よろしくなんだよ。羽柴なら春を変えられるかもしれない」


市原は笑顔でポンッと俺の肩を軽く叩いてから、教室へと入って行った。


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


黄色い玉子焼きを口に運んで、もぐもぐと食べる。

俺好みの甘い味に、自然と顔が綻ぶ。

そんな俺を見て同じように顔が綻ぶ男が一人。勿論、春樹だ。


「何か嫌いな物でもあったのか?」


不安そうに眉を顰める春樹に 「べ、別に」 と、視線を合わせずに答える。

彼に会った瞬間、頬にキスされた時の事を思い出し、それから一度も彼の顔を見ていない。

たかが頬にって思うんだけど、どうしても意識してしまう。


「そう言えばお前、弁当作んの上手くなったな」


気を紛らわすように、俺は話題を振った。


最初の頃は食べられなかった程じゃなかったけど、結構味にむらがあったりして俺が思う 『完璧な弁当』 とは程遠かった。でも元々器用なのも手伝って、日にちを重ねる毎に春樹の弁当作りの腕は上がっていったと思う。

と言うか、何で男の春樹が甲斐甲斐しく俺の為に弁当を作って来るようになったのか。


それは 「手作り弁当っていいよな~」 と、何気なく俺が呟いたのを春樹が聞いていたからだ。

ちょっと感慨深くなって口を突いて出た言葉っていうのに。


「お袋に教えてもらってるから」


母親と一緒にキッチンに立って弁当を作ってる春樹を想像するだけで笑える。


(母親、かぁ・・・)


タコさんウィンナーを口の中に放り込み、そっと空を仰ぎ見る。

青い空にサッと薄く伸ばした白い雲が所々に散らばっている。

時折、小鳥が小さく鳴きながら俺の視界を通り過ぎて行く。


(“母さん”って、もう何年言ってないんだっけ・・・)


特に仲が悪いって訳じゃないんだけど、俺にそう呼ばれるのが嫌みたいで。


(あの人は“母親”って言うより、“女”に生きる人だから仕方ないんだけど)


昔はそれなりに気にしたけれど、今は別に育てて貰ってるだけでも有り難いと思えるようになっていた。


「梓?」


「・・・・・・・ッ!」


沈黙したままの俺を怪訝に思ったのか、春樹が心配そうに俺の名前を呼んだ。

その声に誘われるように視線を地上に戻すと、春樹の端整な顔が目の前にあった。

ある意味、彼のドアップは心臓に悪い。お陰で、現実に引き戻されてしまった。


「あ、顔赤くなった」


「一々口に出すな!」


恥ずかしくなった俺は残りのおかずをささっと平らげ、直した弁当箱を春樹に突き返した。


頬に触れるだけのキスだったのに、何で俺はこんなに意識してしまうんだろう。

男が相手だっていうのに、おかしいじゃないか。てか、自分ばかり気にしてるのが悔しい。

春樹はいつもと変わらないし、彼にとっては気にする程でもない出来事だったのだろうか。


「もしかして、この間の事まだ気にしてんの?」


春樹はそう問いかけ、スッと俺の頬に触れる。優しく、撫でるように。

その仕草に、我知らずドキドキと胸が高鳴る。


「そ、そんな訳ないだろ!」


春樹の手から顔を背け、自分だけが意識してるんだと悔しくなって虚勢を張る。


「嘘つくの下手だな、アンタ」


春樹が僅かに口角を上げた。


「まぁそういう所がいいんだけど」


急に春樹の手が伸びて来て、ガシッと俺の顔を両手で固定した。

無駄だと分かっていたけれど抵抗してみるが、案の定無意味な行為だった。


「は、放せ!」


「俺と付き合ってくれたら、放してやってもいい」


「何でお前は年下のクセに偉そうなんだよ!ちょっとは先輩を敬え、バカッ!!」


そう怒鳴ったところで、春樹は微動だにしない。

最初の頃は少しビビった表情を見せたけれど、今はすっかり免疫がついてしまっているようだ。


「じゃあ、キスしてくれたら放してやるよ」


その言葉にカァと顔が熱くなるのが分かる。

怒りのせいなのか、恥ずかしさのせいなのか区別がつけられない。


でも、自然と視線が春樹の口元に向かう。

薄くて形の良い唇で、それに自分のそれを重ねたらどんな感触がするんだろうか。


(――って、何考えてんだ俺!!)


自分自身を叱りつけ、放せと渾身の力で春樹の手から逃れた。

戒めが解かれた俺は、立ち上がってその場から逃げようとしたけれど、春樹に扉の前に立たれてしまう。


「退けよ」


「嫌だ」


「お前な・・・いい加減にしろよ。そろそろ授業始まるだろ?」


そう言っても、春樹は道を譲ろうとはしない。

ただ押し黙って扉の前から動こうとしない彼は、これから始まる授業よりも俺との時間の方が大事のようだ。


「・・・お前さぁ、一体どうしたい訳?」


初対面の俺に 『惚れた』 と言って。

高校に入学してからひたすら俺に会いに来て、付き合ってくれと言いまくって。

その行動全てを含めての言葉だった。


「俺は、アンタが欲しいだけなんだ」


春樹は、面と向かって俺に欲望をぶつける。

その言葉にドクンと、大きく心臓が跳ね、手に僅かな汗をかく。


「誰にも渡したくない。梓の一番近くにいるのは、俺じゃなきゃ駄目なんだ」


子供じみた独占欲。けれど、嫌じゃない。

寧ろ・・・嬉しいかもしれない。人から求められるのは、こんなにもドキドキするものなのだろうか。


「・・・分かったよ」


俺はボソッと呟く。

ここまで言われて、動かない訳にはいかないだろう。


「俺のものになってくれるのか・・・・?」


縋るように俺を見詰める今の春樹は、年相応に見える。

そんな表情をされると、こいつには俺がいてやらなきゃって気持ちにさせられるから不思議だ。

でも、優しくしてやれるかは分からないけど。


「自惚れんな。前向きに考えてやるってだけだ」


俺はそう言って、春樹から視線を逸らす。


「梓・・・・・・」


そう俺の名前を呼ぶ主を見ると、思わず息を呑む程の笑顔を浮かべていた。

俺が今まで見た彼の笑顔よりも、今の笑顔が一番胸に沁みる。



この笑顔は、素直に好きだと思った―――