5話―最終話―



目の前に、ずっと想いを寄せ続けていた人がいる。

もう二度と会えなくなるのではないかと覚悟を決めた相手が、優しい眼差しで泉を見詰めている。


「泉くん・・・」


静かな室内に溶け入るような、穏やかな声音にきゅっと胸が締め付けられる。

あんな事があっても自分と会ってくれようとしてくれた秀一に、あぁやっぱりこの人は優しい人だと、彼への愛しさが胸いっぱいに広がっていく。


これから何を言われるのだろうか?

気持ち悪いと軽蔑される可能性はないに等しいとしても、自分の想いは受け入れて貰えないかもしれない。

それは彼を好きになってしまった時から分かっていた事だ。だから、何を言われても平気・・・な筈だ。


秀一はまだ早苗の事を愛している。パッと忘れて次へ進める程度の想いの強さではない事は、ずっと彼の傍にいた泉が痛いほど分かっている。忘れる必要もないとは思うけれど、同時に二人の人間を心に住まわせる事が出来ないだろう。秀一は恋愛の事には真っ直ぐな男だ、そこまで器用ではない。だから、彼に何を言われても受け入れる。


「大事な・・・話があるんだ」


沈黙を破ったのは秀一で、あまり見た事がない緊張した面持ちをしている。

泉はぎゅっと拳を握りしめ、視線を足元に落とす。


(あれ・・・・?)


僅かに視界に入って来た秀一の左手から、いつもある筈の指輪がなくなっている。風呂に入る時以外は片時も外した事がなかった筈だったのだけれど、今日は一体どうしたのだろうか。


――そんな事を考えていると、いきなり大きな手が泉の両手を優しく包み込んだ。驚いた泉はパッと顔を上げ、目の前にある秀一の瞳を見詰めた。


「いつも、僕の傍にいてくれてありがとう。それから・・・情けない僕に見切りを付けずにいてくれて、ありがとう。えっと、それから・・・・」


少し頬を紅潮させながら気持ちを紡いでいく秀一を、泉は静かに見守る。


「早苗の事は、絶対に忘れられないと思う・・・」


その言葉にズキッと胸が痛む。分かっていた事とはいえ、本人の口から聞くのはやはり辛い。

初めて本気で好きになった女性だったのだと前に秀一が言っていた事を思い出し、当たり前だよなと、落胆する。


「でも、それでもいいんじゃないかって・・・思うんだ。無理に忘れる必要はなくて、でも過去に囚われ過ぎるのもいけない。ちゃんと前を向いて歩いて行く事が、残された僕の役目だとしたら・・・僕は泉くんと一緒に歩んで行きたいんだ」


「え・・・?」


何を言われたのか急には理解出来ない泉に、秀一は決定的な言葉を口にした。


「僕は・・・君を愛してる」


ドクッと一際大きく心臓が跳ね、夢と現実の区別がつかないフワフワとした気持ちに満たされ、思わず言葉を失う。


「今まで辛い思いさせてごめん」


不意に影が覆い被さって来たと思ったら、泉は秀一の腕の中にいた。

確かに抱きしめられている感触はあるのに、どうしても現実のものだとは信じ難い。

ずっとずっと、願い続けていた事が叶った事実が嬉しくて幸せで、まさに夢心地だった。


「好きだよ、泉くん。これからも僕の傍にいてくれると嬉しいんだけど」


優しい声音に促されるように、泉も秀一の背に腕を回す。頬を彼の肩口にすり付け、身体全体で彼の存在を確かめる。


「嫌だって言っても離れませんから・・・」


「それでいいよ」


そっと腕を解いて、至近距離で秀一と見詰め合う。暫くそうしていた後、不意に背後に回った秀一の手が、そっと泉を引き寄せる。泉はじっと、その瞳を見詰めていた。


薄暗かった室内に、夕暮れの赤い光が入り込んでくる。

それを感じながら、秀一の唇と自分のそれが触れ合う。優しい感触。彼の温かみが身体中に流れ込んでくる。

そこに、恥ずかしさはなかった。ただお互いの存在を求め、お互いを支え合い、お互いを大切に想う気持ちだけが、そこにある。


不意に、目から涙が溢れ、頬を伝うのが分かる。


(やっと、つかまえた・・・)


泉は、秀一の身体をぎゅっと、抱きしめる。彼は、自分と一緒に、そこにいた。

もう彼から距離を感じる事はない。こうして、唇から、その身体から、温かい心を感じる事が出来る。

彼の穏やかで優しい気持ちを感じられる。


「泉くん、ちょっとごめんね」


唇を離した瞬間そう言われたかと思うと、フワッと身体が浮いて秀一にしっかり抱き上げられていた。


「えっ!?ちょっ、浅井さん!?」


自分がお姫様抱っこをされている恥ずかしさに顔を赤くして、じたばたと秀一の腕から逃れようとするけれど無駄な足掻きだった。


「僕の事は、これから“秀一”って呼んで貰えるかな?」


ニコニコした笑顔が目の前にあって、恥ずかしさを振り払うように力強く頷く。

秀一はそんな泉にクスッと小さな笑みを洩らすと、近くにあったベッドに泉をそっと下ろし組み敷く。


「あ、あの!」


混乱して今の状況に着いて行けない泉は、両手で秀一の肩口を押し返す。


「あぁ、気付いてあげられなくてごめんね」


自分が伝えようとしていた事が彼に伝わったのだと泉は安堵したのだけれど、


「下に親御さんがいたんだよね? それの事なら大丈夫だよ。大事な話があるから、暫くは二人だけにしておいて下さいって頼んでおいたから。それに、この部屋にちゃんと鍵付いてるみたいだし」


「へ・・・・?」


予想外の事を言われ、不安がいっきに押し寄せる。


「バレないように君も・・・・泉も協力して欲しい」


初めて呼び捨てされ、ドキッとしてしまう。

それだけではなく、何だか今の秀一はいつもの彼とは違う。

優しいのは変わらないけれど、こんなに強引な人だっただろうか。


秀一との行為が嫌という訳ではないのだが、それがいきなりだった為、充分な心の準備が出来ていないのだ。

おまけに、一階には母親がいる。協力してくれと言われても、色々頑張れそうにない。好きな人に抱かれるのだ、頑張る事も我慢する事も出来る自信がない。


「努力はしますけど・・・手加減して下さいよ、秀一さん」


「分かってるよ・・・」


秀一は微笑むと、優しく泉の髪を撫でた。


「・・・・好きです」


「うん」


ちゅっともう一度泉の唇に自分のそれを押し当て、秀一は泉に 「僕も君が好きだ」 と耳語する。

照れてどうしようもなくなっている間に身に着けていた衣服を脱がされてしまい、泉の肌が露わになった。


(こういう事は器用なんだ・・・)


感心しながら、自分と同じように肌を晒す秀一を見詰める。

彼のしなやかな肢体が魅力的に見えて、ドキドキと鼓動が速くなっていく。


フッと目が合った瞬間、秀一はニコッと優しい笑みを見せてくれた。

それが愛しく感じられて、泉は上体を起こすと唐突に自分から秀一を抱きしめた。

弾力に富んだ肌と心地好い体温を同時に手に入れ、泉は至極満足だ。


他人と初めて肌を合わせる緊張も、秀一の熱にたちまち溶かされてしまう。

なめらかな背中に掌を置き、泉は満ち足りた吐息を漏らした。


陽が完全に落ち切っていない部屋の中はオレンジの光が洪水のように溢れ、お互いの睫毛の動きまでがはっきりと見える程だ。そんな場所で一糸纏わぬ姿を晒すのには、もう少し理性を飛ばしてからでないと難しそうだった。


「泉・・・?」


背中に回された掌の熱さに気付き、秀一がそっと声を掛けてくる。綺麗に浮き出た肩甲骨に指を這わせ、泉は無言で溜息をついた。秀一の温もりがじかに重ねた肌から流れ込んでくる。濡れた唇を深く合わせて、眩暈を起こすほど長い口づけに二人はしばし没頭した。抱きしめる力に想いを込め、飲み込む吐息に揃って願いを託す。


いつまでも、こんな時間をあなたと持てますように。

いつまでも、あなたがここにいますように。


「泉、大丈夫?胸が、凄くドキドキいってる・・・」


「自分から誘っておきながら何なんですか・・・。――大丈夫ですよ、秀一さんなら」


いつの間にか、答える声が熱で掠れている。素肌を重ねているだけで、細胞が甘く生まれ変わっていくのを泉は感じていた。今までの自分は全部熱に溶けて、秀一の触れた先から新しく生まれ変わっていく。

どんな部分に快感が潜み、どんな動きにそれが煽られていくのか、全て秀一の指と舌で教えられていった。


泉はシーツの上で魚のように跳ね、切なげに声をベッドに散らす。

体温が上がるごとに身体のあちこちで口づけの跡が色づき、それが凄く綺麗だと秀一が囁いた。

綺麗なんて単語、生まれて初めて言われました。荒く弾む息の下で切れ切れにそう答えると、指先を淫らに操っている最中にも拘わらず、秀一は短く笑い声を立てた。


肌が湿り気を帯び、指先まで走る快感に幾度も我を失いそうになると、その度に秀一はわざと愛撫を止めてしまう。焦れた泉は不機嫌に眉を寄せ、切なく彼を睨みつけた。その唇がぞくぞくするような艶が泉の表情にふわりと膜を張った。


「泉・・・・・・」


「・・・え?」


「このまま・・・抱いていい?」


秀一の問い掛けに、泉は僅かに頷いて目を閉じる。それでも、膝にかかった手が脚を開かせようとした時は、無意識に力を入れて逆らってしまった。秀一は決して焦らず、泉のこめかみに軽いキスを贈りながら、慎重に泉の中へ身体を推し進めていく。浅く深く呼吸を繰り返し、腰から背中へかけて走る鈍痛を何とか堪えながら、泉は秀一の全てを受け入れた。


いったん鎮まったかに思えた情熱が、秀一の動きによって再熱する。繋がった箇所が熱く疼き、今度は泉も意識を飛ばさないようにするのが精一杯だった。むきだしの肩にしがみつき、何度も激しく揺さぶられながら、ただひたすら秀一の名前を呼び続ける。


泉、と耳元で繰り返される音が、自分の名前だと気付いたのはもっと後の事だった。

秀一の動きが一際激しくなり、身体を駆け巡る熱い塊が出口を求めていっきに膨れ上がる。

限界まで引き上げられた次の瞬間、泉は短く叫んで全ての熱を吐き出していた。


続いて秀一も絶頂に達し、それまで浮いていた身体がずっしりと泉の上で重みを増す。驚くほど早いスピードで爪先まで気だるさが拡がっていき、次いで痛みと快感の余韻がかわるがわる泉水を襲った。


「・・・・・ふぅ」


直ぐには動けなかったので、泉はぼんやりと天井を見詰める。傍らに身体を移した秀一が、長い吐息を吐くのが耳に入った。その掠れた響きのなまめかしさに、泉の胸に甘く痛みが走る。

秀一があちこちに何度も唇を寄せたせいで、肌がまだ愛撫を忘れていない。そんな風に食い散らかされた身体は、異様に感覚が鋭くなっている気がした。


「・・・泉、大丈夫だった?」


「え・・・・・・・?」


「やっぱり、少し性急過ぎたんじゃないかって思って」


秀一はゆっくりとベッドに上半身を起こす。

シーツに肩まで潜り込んでいる泉は、秀一の身体をよく見ようとして、いつの間にか部屋が真っ暗になっている事に気付く。こんな風にして、陽の落ちるペースは毎日少しずつ早くなっていくのだ。ふと物寂しさに襲われた泉は、秀一の左腕をそっと引っ張ってみた。


「でも、嬉しかったです・・・好きな人と一つになれた事が。それに、普段見れない秀一さんを見れた事も嬉しかった・・・」


泉が幸せそうに満面の笑みを浮かべそう伝えると、秀一は頬を赤らめ 「そっか・・・」 と柔らかい笑みを浮かべた。そして今度は泉が頬を赤らめる番だった。


その後はお互い妙に緊張しながら脱いだ衣服を身につけた。

堪え切れなかった声が漏れていなかったか心底心配になったけれど、それは無駄な杞憂に終わった。


隆史の事は秀一から事情を聞き、今度二人で謝りに行こうと決めた。

正直、隆史がそこまで自分の事を大切に想っていてくれたとは知らなかった。

どうやら、彼にも思う所があったらしい。




そして、思った以上に頑固な彼に謝る作戦を傍らにいる 【愛しい人】 と考える泉だった――。