仕事から帰宅し、洗濯物を入れていると、娘がスーパーの袋を持ってやってきました。
「これ、もういちどたたみたいの。」
既に畳まれている袋。けれども、最近幼稚園でも折り紙がブームの娘は、何かを畳みたくて仕方がない様子。以前一度畳み方を教えたけれど、どうやら自分の秩序感とは合うような仕上がりにはならず、もう一度畳み方を教えて欲しいというのです。
一瞬「後にして」と出かかりましたが、子どもはやりたい時に提示してあげるのがベスト。手を止めて、ゆっくりと提示をしました。そこから約30枚近くあった袋を黙々と畳み直す娘。まさに「折る」ことへの敏感期が続いているようです。
敏感期という言葉の意味を、理解するきっかけになったのが、お馴染み相良先生のこちらの書籍。
お母さんの「敏感期」―モンテッソーリ教育は子を育てる、親を育てる (文春文庫)
読んだ当初は大変救われた気分になったものの、実際時が経つと娘の敏感期を逃したと感じるような場面も多々あり、落胆する時もありました。
■敏感期を逃してしまった後悔
実はモンテッソーリ教育と出会い救われたと感じることも多い中、逆に知ってしまったからこそ子どもの敏感期を逃してしまったと残念に思うママさんたちは多い印象を受けます。教師養成講座でもそのようなコメントが多く飛び交います。
まさに母もその一人。けれども、「敏感期」という言葉を知らなくても、私たち親は子どもが好きなことは無視するのではなく、きちんと応えてあげているケースがほとんどだと言います。本好きなお子さんなら、絵本を読んであげる、一緒に図書館へ行ってみるなどなど。医学の知識は持ち合わせていなくても、子どもが具体が悪いときには、病院へ連れて行ったり、応急処置をしてあげたり、その都度対応できているのが親というもの。
たとえ敏感期を知らなくても決して失われているものでなく、知っていれば子どもの援助がしやすくなる。
それだけのことだとモンテッソーリアンの講師は言います。
モンテッソーリ教育でなくとも、素晴らしい子育ての方法はいくらでもあるでしょう。けれども、母にとってこの教育法は子どもだけでなく自分自身を育ててくれる手段の一つです。
■自立という課題を持って生まれた子どもたち
理想ばかりが先行し、立ち止まることも多いモンテッソーリ教育の子育て。
けれども、最近は少しリラックスできるようになりました。なぜなら、親があれこれ手を出さなくても、子どもは自立という課題を持って産まれてきたと感じるからです。出生という最初の自立の関門をくぐり、次は母子分離。まさに、日々自立への道へ辿っているのだと思います。
見逃した敏感期はあっても、今後の敏感期に応えられればそれでよし!
そんな風に感じています^^
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