そばにいて

 

10.よかったな 1

 

 

  朝から一度も目を合わせずにプイと横を向いたまま家を出た愛花を

 こっそりリビングの陰から見送った優花は、忘れ物がないかもう一度

 カバンの中を確かめて、いつものように母に行って来ますと言って

 家を出た。

  今日は何があっても学校に行くと決めたのだ。昨日、突然帰って

 しまった麻美に誤解を解くために。そして吉永君に昨日の礼を言う

 ためにも、これ以上欠席はできない。

 

  愛花はやはり母の仕事場に逃げ込んでいた。

  負けず嫌いな妹は優花とのいざこざは何も話さず、ただ悔しそうに

 泣き続けていたらしい。

  でも、すぐに姉妹げんかだと察した母は、夜寝る前にこっそり優花の

 部屋に入って来て、けんかの理由を問いただした。

  だからと言って、面と向かって母に吉永君のことが原因で妹と

 けんかになったなどとはとてもじゃないが言えない。

  どうでもいいささいなことで言い合いになって、つい妹の腕を力任せに

 引っ張ってしまったと話したら、明日から一週間、夕食の支度を手伝う

 ようにと言われた。

  妹を泣かせた罰としてはとても軽い内容だ。夕食の手伝いは、母が

 仕事の日は進んでするようにしている。女の子だからとか、姉だから

 とかいうのではなく、家族のため、出来る人が出来ることをする、と

 言うのが日々母が子どもたちに伝えていることで、優花にとって

 夕食の手伝いは罰になるほど苦痛なものではなかった。

  母の申し出に反抗する理由もない。けんかの真実が暴露される

 ことを思えば、これくらいなんてことはない。

  優花はしおらしく、わかりました、ごめんなさい、と言って肩を

 落とし、それ以上の追及を免れた。

  不本意だが、これも仕方がない。愛花とやり合ったのは本当だし

 妹も悪気があったわけじゃないのもわかっている。

  麻美の件がなければ愛花のとった行動は、吉永君に恋する優花

 にとって、願ったり叶ったりのサプライズになっていたのだから。

 

  優花は昨日のジェットコースターさながらの出来事を思い出しながら

 とぼとぼとマンションの階段を降りていた。

  そして三階の踊り場に着いた時、左手の共用廊下を見るのを……

 やめた。

 

  夕べ絵里から電話をもらって、麻美に事情を説明する段取りもすでに

 決めている。

  愛花の早合点のせいでショックを受けた麻美に対して、せめてもの

 償いだと思い、吉永君の家をみないようにした。

  なのに。

  優花が三階から二階に下りかけた時に、またもや麻美に顔向け

 出来ないことが起こってしまったのだ。

 「……ゆう」

  遠くの方で、誰かが呼ぶ声が聞こえた気がした。

  まさかそんなことがあるはずがない、と思いそのまま下りようとしたら

 今度ははっきりと聞こえるのだ。「ゆう」 と。

  階段の真ん中で立ち止まり、ゆっくりと後ろを振り返る。するとそこに

 まぎれもない吉永君本人が立っていた。

 「ピッタリだな。俺の予測どおりのタイミングで、ゆうが下りてきた」

  その声は意外なほど軽快で優花を再び惑わせるのに十分だった。

  機嫌のいい彼を見るのは悪くない。でも昨日から続く神出鬼没な

 彼には驚かされっぱなしだ。

 「何でそんなにびっくりしてんの? 言っとくけど、別に待ち伏せして

 たわけじゃないから。わかるんだよ、ゆうが下りてくるタイミングが」

  い、いや。別に待ち伏せしてたとか、そんな風に悪く思ったわけでは

 ない。だから、そうじゃなくて。

  そんな楽しそうに、おまけに真っ直ぐな目をしてこっちを見ないで

 と思っただけだ。

  せっかく今日から彼のことをこれ以上好きにならないように努力

 しようと決めたのに。だめだ。絶対に昨日より好きになっている。

 「よかったな」

  彼が唐突にそんなことを言う。よかった……っていったい何が

 よかったというのか。優花が昨日の姉妹げんかで母にあまり強く

 叱られずに済んだことを言ってるのだろうか。

  だが彼がそこまで家の事情を知るはずもなく。返事に困ってしまう。

 「なあ、おまえって、なんかズレてるよな。だから、俺が言いたいのは

 あいちゃんが見つかってよかったなってこと」

 「あ……そうか。そうだよね。なーんだ、そのことか」

  ようやく合点がいった。彼の言う通り、自分の理解力の未熟さに

 苦笑いを浮かべることしかできない。

  昨日、愛花が母親の仕事場にいたと彼に知らせたら、「そうか」

 とたった一言返信があった。気の利いたスタンプも絵文字も何もない

 そっけないほどの一言が。

  彼との初めてのやり取りは短い一往復の文章で終わった。

  付き合っているわけでも親友なわけでもない。何でもないただの

 同級生同士ならば、用件さえ伝え合えば、それ以上の美辞麗句は

 必要ない。

  このたった一言の彼からの文章は本来なら優花の一番の宝物に

 なり得るはずだったが、今夜で彼とのラインは消去する。

  不毛な恋はもうこれくらいにしておこうと決心したのだから。

 

 「ゆうは、昔と全然変わってないな」

  そんな優花の感傷に浸った気持ちに気付くはずもなく、彼がさも

 愉快そうにそんなことを言う。

 「えへへ。みんなにもよく言われる」

  優花は家族や友人だけではなく、彼にまで同じ事を言われて、やや

 ショックを受けたが、努めて明るく返事をする。

 「なあ、ゆう……」

  いつの間にか笑顔が消えた吉永君が、神妙な面持ちで優花を見た。

 「な、何? 真澄ちゃん」

  そんな風に見つめられたら目のやり場に困る上に、さっきから何度も

 ゆう、ゆう、と繰り返し呼ばれる。

  彼のいつになく甘い声のトーンに心が震えて、わけもなく涙が出そう

 になった。

 「俺、今までの空白を埋めたいんだけど……」

  優花はきょとんとして彼を見上げた。あまりの緊張と歓喜の波に

 優花の脳内は全面思考停止になっていた。

 

 

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