そばにいて
9.今日だけは 1
「なあ、俺のこと、なんで、よしながくんって呼ぶの? 」
耳のすぐそばで声がした。優花はまばたきをするのも忘れ、じっとその
声に聞き入る。
「じゃあ俺も、いしみずさんって呼んだ方がいいのか? 」
「そ、それは……。別に、どっちでも」
右頬の数センチ先まで近付いた彼の顔なんて、到底直視できるはずもなく
優花は前を向いたまま答える。
石水さんと呼ばれたいような、呼ばれたくないような。複雑な心境だ。
でも、学校内でゆうちゃんと呼ばれるのはもっと恥ずかしい。
絵里だけでなく、クラス中のみんなに冷やかされそうだ。
「じゃあ、こうしよう。学校では石水って呼ぶ。帰ってきたら今まで
どおりってことでどう? だからそっちも、家ではその、よしながくんっての
やめろや。どこかに別人のよしながとやらがいるみたいで落ち着かない」
「そうだね、わかった。そうする」
ようやく彼の顔が離れていった。
優花は彼に気付かれないように、そっと深呼吸をする。
それにしても。なんて不思議な光景なんだろう。今日は朝から学校を
休んで、絵里と麻美がお見舞いに来てくれて、それで……。
愛花の暴走に振り回されたあげく、今こうやって、我が家の廊下で
吉永君と二人きりで話をしている。
どう考えても現実の出来事とは思えない。ましてや彼が優花の欠席を
心配して、愛花に声をかけたなどと、誰が信じるだろうか。
つい昨日の朝までは、目すら合わさないほど吉永君は冷たくて
優花を見ることなどいっさいなかったのだから。
優花はこっそりと足をつねってみた。うっ、痛い。やっぱり本当だ。
とたんにまた心臓が暴れ出した。
横に立っている吉永君は、いつのまにかこんなにも大きくなって、優花の
背もとっくに追い越してしまった。
さっきまでつかまれていた手も少し骨ばっていて、力も強い。声だって昔は
こんなに低くなかったはずだ。
でも今日という日が終われば、またいつものようにお互い何もしゃべらなく
なって、それぞれの高校生活を過ごしていくのだ。
現実に向き合ったとたん、気持ちがしゅるしゅるとしぼんでいく。今のひと
時は、二度と戻っては来ないのだ。
少しでも長く、彼とこうして話していたいと願った。
「ずっと訊きたかったことがあるんだ」
ようやく馴染んで来た彼の声が、優花の耳にすっと入ってくる。
いったい、なんだろう。
「え? 何? よしな……いや、真澄ちゃん」
危ない、危ない。さっき決めたばかりなのに、また吉永君と言って
しまいそうになる。
心の中で来る日も来る日も吉永君と言い続けてきたのだ。そんな
簡単に、真澄ちゃんに戻れない。慣れるまで時間がかかりそうだ。
ふっと笑顔になりかけて、たちまち真顔になった彼が話しを続ける。
「俺のこと、ずっと避けてなかった? エレベーターも乗って来ないし。
俺、かなり嫌われてるって思ってた。いや、今だってそう思ってる。昔
いろいろからかったりもしたからな。やっぱりまだ根に持ってるのかな
って……。その辺は、どうなんだ? 」
「どうって……」
なんでそうなるのだろう。優花が彼を避けていたなどありえない。
それを言うなら全く逆だ。
「今もこうやって俺と一緒にいるのが、実はうざいとか。そう思ってない? 」
「何言ってるの? それは違う。わたしは真澄ちゃんのこと、そんな風に
思ってないよ。真澄ちゃんこそ、わたしを避けてたじゃない。わたしさ、絶対に
真澄ちゃんに嫌われてるって、ずっとそう思ってた」
「俺が、避けてたって? 」
「うん。そうだよ。それに、エレベーターに乗らないのは、その……。運動不足
解消のためなんだけど。わたし運動部じゃないしね」
まさか、彼の住んでいる三階を、自分の足で踏みしめないと気が済まない
だなんて、本人を前にして言えるわけがないし。
ストレッチのごとく、腕を回して腰までひねって見せる。なんとも苦しい
言い訳だ。
「それ、ホントなのか? 」
吉永君が驚いて優花をまじまじとのぞき込む。ということは。
お互い今まで、壮大な勘違いをしていたのだろうか。
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