クワガタムシモドキ

 

顎は調理用のはさみ。100円ショップの中国製で、簡単に折れてしまったのを再利用。40年前からあるドイツのヘンケルは切れ味共に全くの現役。

 

元がハサミなのに気が付かなかった人もいた様子。

今回の新作はこれで終了、一年分の作品でした。

次回に向けて続々と新作が出来上がっていますので、来年もお楽しみに。

たまの経過報告用に若干の画像を残していますけれど、今年はアップロード終了。

 

今後の予定は現在ドイツ・マンハイムで委託販売の展示が進行中。

福島県の教員グループ展は会場の文化ホール改装中で今年は休み。

スイス・チューリヒアートフェア出展。

秋以降、国内アートフェア検討中。

以上、今後ともよろしくお願いいたします。

ご覧いただいた皆様、本当に有難うございました。

 

                     もも猫工房・菊地信介 敬白

 

別カット

 

ちなみに頭部はアイスクリーム用のスプーン。

どこまで作品に説明を加えるか、言葉でなくとも迷う事がある。

以前セントジョージのモチーフで、竜の体をクラインの壺にしたことがあるけれど、

気が付かなかった人もいるかも知れない。

クラインの壺の事を知らずとも、例えばグラデーションで視線を誘導したり、あるいは直接小さな矢印を表面に記し、意味するところを説明する。

本来なら、メビウスの輪は一瞬で判別できるがクラインの壺は知らない場合、理解に少しだけ時間がかかる。

一瞬で判断できる美術作品としてはギリギリアウトか、見る者に知識があった場合とない場合で違ってくる。

小説などではSFや推理のジャンルのみ、その手のお約束が許される。

美術系にも耽美系やステージならタカラヅカなど、少々世界が狭くなる分、世界が深くなる中毒気味の世界。

あまりボーダーには拘らず進めていく次第。

 

カブトムシモドキ

 

昆虫系スタート。昆虫も実に面白い形をしているから、色々なスタイルで毎年2点くらい出していく予定。

今年はカマキリとアシナガバチあたりを狙っている。

カブトムシの角、大きい方は普通のフォーク、小さい方は菓子用のヒメフォーク。

そういえば5又や6又のフォークは見たことがない。

後述のクワガタとセットでその辺りの必然性を考えると、牙(吻)が巨大化したクワガタと角が巨大化したカブトムシ、はさむ方向が90度違うからがっぷり4つに組みやすい。

5又は勿論3又も少なめだから、落ち着くところに落ち着くということか?

今回、ヒメフォークだけは長すぎるのを切って研いだが、大きい角は敢えてそのまんま。

美術サイドの発想としては10又のフォークが必要になる食べ物を捏造してみたいところ。どうしてもアイディアがSF的になる。

 

ディーゼルノマド 前から

 

今までこのシリーズは少し安めの値段設定にしていた。

「美術にストーリー設定はどうか、言葉で説明したら画家の負け」、「とっておきのガラクタだが、なかなかお呼びがかからないアイテム最優先で制作する」、「資源のなくなった世界での寄せ集めゆえ、美しさより混乱を優先する(お洒落なショッピングモールよりアジアンマーケットの猥雑エネルギー優先)」などが理由だ。

どうやらイメージは伝わっている様なので、今後は普通の値段にする。

マッドマックスやニール・ブロムガンプのおかげで荒廃した世界がポピュラーになった事も追い風であろう。

あるいは自家中毒気味の「ダサかっこいい」か?

 

かつては画材の勉強で岡鹿之助の本を読んだり、小磯良平の巧さ、品のいい調和した世界に敬意を持っていた画学生だった訳だが、この歳になってきて考えることもある。

軍部の言いなりに戦争画を描いて、敗戦後はフジタひとりを追い出したり、「絵描きは政治や戦争など知らずとも好い」というプチブル極まりない本音を聞いたりすると、こぎれいな世界観自体げんなりしてくる。

世界の真実ににじり寄るには、美しくない半分の事も絶対必要だ。

めでたしめでたしの世界には真実が半分しかない。

感動ポルノにならって、真実ポルノとでも云おうか?

 

ディーゼルノマド2024 スクーター乗り(後ろから)

 

いよいよ今回の新作アップもあと3点。

ノマドシリーズの新作はスクーター、後向きで載せたのは後輪を見て欲しいから。

久々にゴツイ後輪を作った。木のドーナツ型に実際の自転車タイヤを無理矢理張り込んだもの。

無暗とバイクが作りたくなり、前輪も同じゴツイものにしようと迷ったが、思いとどまった。

現在の人類が資源を使い果たしてしまったため、正規部品はおろかまともな部品も満足に手に入らなくなった世界で、ありあわせで頑張る我らが子孫たちという設定。

バイクはバイクでまた後日作る事にしよう。

 

さて、先日「負動産試案」と称して土地の問題を書いたが、2022年の4/30にまったく同じネタを挙げていたことに気が付いた。

還暦を過ぎてボケてきたか、同じ脳みそだからほぼ同内容だったことに妙に感心したり・・・。

頭の柔軟体操代わりに最近見つけたのが「世界の終わりに柴犬と」なるアニメ。

柔軟どころか腹筋崩壊でブートキャンプレベル。

やっぱりシベリアンハスキーって・・・・。

 

SHPOON! 後から

 

トビウオの尾びれは下の方が長い。

飛んでいる姿を見ると、着水前に波がしらを利用してもうひと飛び、あるいは舵の代わりにもなるのかも。

 

AIの続き。

拙作のようにAIには向こう数十年真似できない物もあるが、これはアウトプット次第。

日本画・東洋画の話に戻ると、平山画伯が西安あたりの中国人画家と違うシルクロード絵画を描けるとして、そこに画伯や日本画のオリジナリティ・アイデンティティがあるのだろう。多分。

一方、最新の西洋の生物学者が「やはり魂は物理的に神経線維の中にある」と、聖書の堂々巡りにリセットされてしまった様子。

 

人間はとても愚かだからこそ芸術が大好きで、俗物まみれなおいしい結果だけ食べたがる。でも本当においしい結果を食べられるのは、生まれながらの天才と与えられた身の丈を目いっぱい使ったものだけだ。

AIに人間以上の結果が出せるとして、その結果は人間の為の物ではない。AIの為の物だ。

天才ミケランジェロの生涯を見ると、彼が本当に幸せだったかは判らない。

天才に余生はない。

私は身の丈を目いっぱい使って、おいしい芸術を身の丈分貪るとしよう。

 

SHPOON!

 

トビウオの飛んでいるところ。

擬音をそのままタイトルに。頭部がスプーン3つなので、ちょっと駄洒落的でもある。

さて、美術の世界でもAIが話題になっているが、その前段階として絶滅危惧種のエアブラシ周辺を考えてみたい。

一頃一般向けに大ブレイクしたクリスチアン・ラッセンだが、厳密にいうとラッセンの絵が好きというより、ラッセンの描いているハワイが好きという方が正しいだろう。

似たところで平山郁夫からシルクロードを抜いたところに平山画伯の真骨頂があるだろうという周辺の話。

エアブラシの魔術師という画家は沢山いたが、画像ソフトと様々なアウトプットが現れて、ブラシテクがなくてもソフトで色々描けるようになって、エアブラシはガンプラの塗装器具になってしまったようだ。

かつて様々なノズルピースが画材屋に並んでいたが、今は見る影もない。

だれでも苦労なく技を使えるようになると、新しい才能も出てくる反面、へたくそさや根本的な無知をさらけ出してしまう人も増えてくる。

さらに単なる画僧ソフトも通り越してAIが出てくると、パクリをはじめ人間側の劣化の著しさが目も当てられない事になってくる。

 

宇宙象 別カット

 

先の海老塚対談では、ローソクの明かりと作品の見え方にゲストのこだわりがあったようだ。国学の話なども出てくる。

日本画と東洋絵画の違いをどう説明するか、以前もまとめたことがある。

補足として「唐様」があるだろう。

縄文系の文化は今日のアイヌ・沖縄に見られるように、為政者が基本弾圧・抹消を目指していたのは、奥州藤原氏や幕末の開国後に受けた扱いなどから、今日再確認されてきたのは遅すぎると言えるだろう。

「日本は単一民族」と言われて疑問に思う者もいなかったくらいだ。

縄文系を坂上田村麻呂あたりで封殺した後、導入・定着した半島文化を更に進めるべく、大陸本土から「唐様文化」の輸入に余念がなかった。

朝鮮半島の文化とさらに先進の中国本土、更には長い江戸時代の後、西洋文化も吸収しようとする「アマルガム」こそ日本の本質であろうとは、かなり以前に述べてある。

隠れキリシタンがある程度縄文エリアと被るのは、理の当然とも言える。

やはり天皇家という「お言わず様・サンクチュアリ」を避けている以上、中国・朝鮮、西洋に対して「日本画・日本の文化」に説得力のある説明が出来ないのは当然だ。

実際には長かった江戸の文化を何となくすり替えているのが実情だが、制作サイドではより真実を見据えなくてはならない。

 

東洋バザールの宇宙象レプリカ

 

これはかつて初台の画廊珈琲「ザロフ」にて巨匠の作品オマージュというお題を頂いた折の物。

いうまでもなくダリの宇宙象。個展では今回初出品。

 

さて、先日ラトゥールの件を挙げて、「もう一つのアプローチ」とした。

今月の月刊ギャラリーの、同じく海老塚耕一対談コーナーでろうそくの件が出てきて驚いた。

前々号あたりでも「事実は一つだけど、真実はたくさんある。ひとの数だけ真実はある」という自分の言葉をほぼ同じに語っている作家がいて驚いた。

この程度はパクリなどと野暮なことは言わず、優れた作家が自分と同じ結論に至っていることを大いに寿ぎたい。

オマージュではなくパクリの横行するアート界ではあるが、真実のシンクロニティや美を求める同志もまた少なくはないことに意を強くする次第である。
 

歌を孕む赤出目金

 

先述の黒出目金と対。来年用の「月を孕む青出目金」も間もなく完成。

 

先日動画のベスト集成(戦闘妖精雪風・神林長平)を見ていたが、いわゆる初音ミクのポップがよく合っている事に感心した。

動画は少々古いながらも(メーターがアナログの針だったり)近未来のSFで、戦闘機のドッグファイト等に定評があった。

映像と特定の音楽が定番のセットになっているものは多いけれど、成人男性の合唱による「グレゴリオ聖歌」は厳かな響きがかえってあだとなり、映画などで使用されるときは決まって惨劇が粛々と行われる場面の定番BGMだ。

映画や演劇では、音楽・効果音・セリフ・間など、聴覚だけでも色々工夫出来て楽しい。いい曲に出会ったりすると、どんな場面に合うかなど妄想したりする。

高校の頃、FMをよく聴いていたが、ラジオドラマでは聴覚のみなので、かえってよく練り込まれて感服したものだ。

美術も制約は多いが、個人で出来る仕事。ますます頑張らねば。