マスチックは、主に油絵に用いるワニス用の樹脂である。ピスタシアの木から取れる。これはピスタチオの一種である(正確にはピスタシアの中のひとつがピスタチオである。ピスタチオからもマスチックは取れる)。(余談だがテレピンもテレピンの木とかいう、ピスタシアから取れるらしい)
樹脂というのはもともとは木に傷がついたら、それを塞ぐ目的で滲み出てくる傷薬のような分泌液であった(人間の傷に血が出てくる時と同じ役目を果たす)。しかし人類にとって非常に役立つ性質を持っているので、マスチックに限らず有用な樹脂は昔から世界各地で広く使われていた。採取方法は木の樹皮に切り傷をたくさん入れて、溢れ出る樹脂を取るという非常に残酷な方法である。こうやって木に切り目を入れることをタッピングという。樹脂のうち採れたてで揮発性油分を含んでいるものをバルサム、乾いて固形になったものが狭義の意味での樹脂となる。
マスチックは涙粒ほどの塊状で、画用の品質に耐えられる産地がギリシャのキオス島に限られている上に木一本当たりからの産出量が少ない。ほぼ同じ使われ方をするダンマル樹脂と比較すると、ダンマルの木一本当たり年収量は40kg以上、マスチックは300~400g程度(デルナーは5kgと言ってるが、そうだとしても少ない)。なので、マスチックはかなり高価である。樹脂としての評価はダンマルと同じか少し劣る。使い心地の問題は好みがあるだろうが、湿気に弱く白濁するという弱点があるので、日本の環境には不向きかもしれない。
噛むと甘い香りがすると言われている。私も食べたことはあるが、よく分からなかった。古代ギリシャ時代にはチューインガムとして使用され、ほか歴史的に各地でお香として焚かれたり、歯の詰め物にされたり、包帯の接着剤として使われた。
画用での使用方法はほぼダンマルと同じである。通常はテレピンに溶かしてワニスとする。ペトロールには溶けない。テレピンを入れた瓶に、マスチックをガーゼかストッキングで包み吊るし入れる。配分はデルナーによるとテレピン:マスチックが3~4:1で、エマルジョンや溶材を作る場合は2:1と濃い目にするという。
普通は油と調合して用いる。樹脂だけで描いた場合非常に脆くなる。
マスチックのテレピン溶液にリンシードオイルを加えて混ぜると溶液が固まって、ぷよぷよしてくる。この独特のゼリー状のメディウムを「メギルプ」といい、絵の具の伸びが良くなり、つるつるした絵肌が作れるので昔かなり流行った。メギルプの名では売ってないが、簡単に自作できる。またルフラン ・ブルジョアの「フレミッシュメディウム」が組成的にほぼ同等。メギルプの処方は例えば乾性油:マスチック:テレピンを3:1:3だが、人によっててんでバラバラである。
メギルプは放っておくとぷよぷよしていて、触っているとどろどろしてくる。放置するとぷよぷよに戻る。これはメギルプが高分子ゲル(物理ゲル)の特性を持つからであって、たぶん油と樹脂の分子が水素結合を起こしている。水素結合とは、電気的にはちょっとマイナスな水素原子とかが他の分子を静電気に似た力で引っ張ってくっつく力で、ファンデルワールス力の10倍くらい強い(すごそう)。
なおメギルプは耐久性に乏しく、経年により黄変や亀裂などの事故が報告されている。
完成ニス(画面のコーティング)にも使用できると長年言われていたが、カナダ修復保存学会の会議において適さない材料であると結論された。ひび、黄変のほか、経年変化によるワニスの張り替えに必要な可溶性がなくなっていき、落とせなくなる。現在は天然樹脂で使用可とされているのはダンマルのみで、人工の樹脂が上位互換品となってその地位を占めている。
それでも19世紀になってダンマルが普及するまでは、天然樹脂の中ではかなりの重要な位置を占めていた。9ー15世紀において西洋で最も使用された絵画用ワニスは、このマスチックをリンシードオイルに溶かしたものであった。ただし、しばしばサンダラックが混ぜられた。サンダラックは同じく天然樹脂だが、非常に脆く黒ずむので、現在は絵画用にはほとんど流通してない。カリグラフィー用の樹脂としては今も使われている。
総論として、それなりに優秀な樹脂であり、描き味とつやの品がいいので今も根強いファンは多い。しかし性能でダンマルに競り負け、科学の進歩で優秀な合成樹脂が登場してきて活躍する場面がちょっと少なくなっている。無駄に高いのも敬遠される理由にあるかもしれない。しかし、画材は性能が全てではなく、愛される理由があるのならば、致命的な要因さえなければ淘汰されないのである。




