古(いにしえ)の聖人は大宇宙の自然の原理すなわち神〈本体〉の心を指 して大法と称し、その自然の原理の表現すなわち現象の法則もしくは人間の案出せる種々の法則を指して小法と称したのであります。
故に、小法には異端の法則 〈神の心に違(たが)うもの〉を含んでおるものも多いのであります。
されば、この大法は大宇宙の自然の原理全部を含むものにて、いわゆる無形的もしくは精 神的にて永久的性質を帯ぶるものであります。
小法はその自然の現象の法則の一部分を含むにすぎざるもので、いわゆる有形的もしくは物質的にて一時的性質を 帯ぶるものであります。
ここをもって、大法はただこれを小宇宙と称せらるるところの人間の精神内に体得し、且つ蓄蔵(ちくぞう)することは出来れど、いっ たんこれを言語・文章もしくは行動に表現すれば、すでに小法となるのであります。すなわち自我を没却して真に神の心に同化し、もって真の慈悲の心となって 人心の開発もしくは救済をしようという精神作用そのものは大法に合すれど、いったんこの精神作用を言語もしくは行為に表現するときには、その精神作用の一 部分を開示し得るにすぎぬのであります。いま大法を表現するさえ、かくのごとくでありますから、異端もしくは異端を混ずるところの何々主義とか、何の学説 とか、何の信仰とかいうごときものが、いかでか大宇宙の真理の全部を現すことが出来ましょうか。
しかるに従来世人はこれを知らずして、ある一つの主義・学 説もしくは信仰等に偏りてこれを尊び、これに依拠して、もってその自己の成功もしくは幸福を全うせんとしておったのであります。
されば、その予期する結果 の良好ならざりしはもとより当然のことでありましょう。
しこうしてその自己の不成功の罪をばこれを他に嫁(か)して自己反省をする人なく、かえって聖人の 教えを疑いて今日に及んでおるのは惜しむべきことであります。
されば、いまモラロジーの教育においては、第一に、聖人の教えを遵守(じゅんしゅ)し、大法をもって各自の精神を陶冶(とうや・やきかたむる)し、その 精神に依拠してその物質的生活を全うすることを教え、第二に、人間の精神生活はその物質生活の根本にして、人間の幸もしくは不幸の原因はその精神生活の善 悪にあることを教え、第三に、人間の精神生活の実質は神の心たる慈悲の心となりてすべての事に当たり、常に人心の開発もしくは救済を標準として行動するこ とを教うるのであります。
それ故に、最高道徳の教育法は主として人格の直接感化を必要とするのであります。従来の教育のごとくに、あるいは単に講義を聴か せ、あるいは単に読書に訴うるごとき方法にて当該原理を真に他人の精神に伝達して真にこれを感化することをば、難いこととしてあります。
ただしかしなが ら、偉大なる人格者の感化力は尋常人の感化力と異なる故に、必ずしも直接の接触を要せぬのであります。すなわちキリストの死後の門人パウロがそのキリスト の生前の門人よりはるかにキリストの真の精神を獲得しておった実例のごときもあることを知っておくべきであります。
さて、現代における一般の教育は異端に拠っておるのであります。故に、もとより純粋正統の学問及び二十世紀に入りて特に発達せるところの新科学に依拠す ることなくして、かの不完全なる旧式の倫理学思想と幼稚単純なる物質主義の思想とによるものであります。
されば、現代の人々は人間の精神作用及び行為の因 果律を確認せず、ただ自己の五官に触るるもののほか真理なしと考うるものが多いのであります。
それ故に、上下の人々いずれもただ眼前の小名利に汲々(きゅ うきゅう)として、軽微の不道徳を行うごときはもちろん、およそ他人の五官に触れざることに対しては陰険狡猾(こうかつ)なる精神作用及び行為をあえてし て憚(はばか)らぬのであります。しこうしてその人の陋劣(ろうれつ)なる過去の精神作用及び行為がことごとく自己現在の運命を形成しておるのであります が、毫(ごう9もこれを自覚せず、ただ言語をもってこれを糊塗(こと・ごまかす)しておるのは愚かなことであります。
更に換言すれば、現代の人々はこの重 要なる真理を知らざるが故に、ただ自己の言語・文章もしくは行為のみを飾れば、その精神作用は大宇宙にも他人の精神にも影響なきものと誤信して、毫もその すべての物質生活の源を成すところの自己の精神の善悪を注意せぬのは惜しむべきことであります。
広池千九郎WEBSITE格言の間より