2000年10月10日。
当時の体育の日に相応しい
雲ひとつない、晴れ渡った青空の日。
父の63年の人生が、静かに終わった。
亡くなる2年前の夏、しきりに体のだるさと頭痛を訴えた。
体の動きが硬くなり、歩いていても腕を振らずにロボット歩きのように見えた。
その年も連日の猛暑で、父は最初に診てもらった病院で
夏バテのような診断を受け入院した。
現状に納得出来ずにいた私は
父の血液検査のデータを握り、知り合いの薬剤師の元へと走った。
「カリウムの数値が高すぎる!
このままだと心臓が急に止まる事態になりますよ。
大きな病院へ転院させた方がいい!」
「大きな病院」から独立したはずの、知り合いの外科医が経営する個人病院で
当時の父は入院していた。
血液検査のデータすらまともに判断出来ないのかと
憤慨する想いで、父を総合病院へと転院させた。
転院してからも連日の血液検査を重ね
そして最終的には骨髄液を採取された。
病名、多発性骨髄腫。
腫瘍性の性格を備えた形質細胞が、骨髄に増殖して骨を機械的に破壊し
正常に造血が営まれる余地を制約する。
それは当時、10万人に1人、2人と言われた白血病とも違う血液のガンだった。
主治医の説明が一通り終わった後、私達は事の重大さに打ちのめされ
しばらく何も言えずにいた。
その沈黙を破るように
「先生、弟はあとどれ位生きられるんでしょうか・・・」と
同席していた伯母が震える声で聞いた。
そのひと言を
テレビドラマの世界のような、何だか実感の沸かない気持ちで聞いていた。
「そうですね・・・この病気は個人差があり何とも言えませんが
3年という方もいれば、5年という方も。
難しい病気ですので、はっきりとは・・・」
その時、主治医は精一杯の希望的余命を告げたのだと感じ
頭の中が真っ白になった。
当時の私達の頭の中を占めていたのは、目の前で展開されるだろう父の変化
未知の病に対する恐怖心だった。
それでも病名を告げられた日から
私は父とは違う意味で、この病気と向き合った。
病魔は私達家族に、こんな形で挑戦し、牙を剥き、嘲笑って様子を見ている。
父が動けなくなるのとは対照的に自在に活動し、自由を奪い続けるのだ。
「冗談じゃない!」
それは天に向かって、拳を振り上げる行為だったのかも知れない。
怒りや哀しみはどこにも命中せず、振り切った瞬間から形もなく散らばっていく。
父が知らずにいる事実を受け止めながら、それに絶望し、払拭し
哀しみに打ちのめされる繰り返しの日々。
それでも私が奇跡を信じなければ
そのそばから父の命が消えていく気がした。
当時T大で免疫・アレルギーの研究をしていた。
あの日、意識を失い眠っていた父の耳元で
「お父さん、大好きだよ、これからもずっと好きだし、忘れないから・・・」
そう話しかけると
父の左目から、すぅっと一筋の涙が流れた。
だから、私は信じている。
人は意識を失っても、最期まで聴力は失わないのだと。
父は最期まで、自分の体で私達に色々なことを教えてくれた。
お父さん、一緒に過ごしてくれた日々を私達は忘れない。
情深くて、ウソがつけなくて、正面から私達を見つめてくれたお父さん。
時々、お父さんに会いたくて、立ち尽くしてしまうことがあるんだ。
誕生日の時、いつも電話をくれたお父さんを思い出して
その声を天国からたぐり寄せてしまいたくなるんだよ。
私はあの日から、少しは強くなったのかなぁ。
この8年でお父さんの知らないことも増えたけど、きっと分かってくれているよね。
お父さんの命が、私と弟を生み出して、それから
りょーじまると、まさやんとももが生まれたんだよ。
1つの命から5つの命につながったんだ。
命のリレーに感謝してる。
お父さんの力強く生きた姿勢に、感謝してる。
お父さん、またいつか一緒にお酒を飲んで、
生きてる間に語り尽くせなかったことをいっぱい話そうね。
その日が来るまで、最期の日の言葉の通り
お父さんを忘れない、感謝の気持ちを忘れないから。