「家族」について | モカ族一家のワン⭐︎モモな日々♪

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モカ族のチワワっ子達+トイプードル+フクロモモンガとの楽しい暮らしと、てんやわんやな日々の日記です♪




本日6日は、我が息子りょーじまるの20歳の誕生日です。






そして・・・・



先月の9月26日、予定日より2週間早く生まれた命。





わたくしの弟の2人目の子供 「もも」が



この日、産声をあげました。
















実家においては、実に41年振りの女の子。



母にとっては、わたくしを育てて以来の女の子です。












父は2000年に他界しています。



その父にとって、りょーじまるは初孫であり、たった一人の孫でした。





数年後、弟にとって初めての子供「まさやん」が生まれ



りょーじまるにとっては16歳違いの従弟ができた訳です。



ももとりょーじまるに至っては、ほとんど20歳違い。



もし父が生きていれば、71歳で出来た女の子の孫の誕生でした。







わたくしには、まさやんにとっても、ももにとっても



すごく子煩悩だったおじいちゃんが、写真の中の人でしかないことが



残念でなりません。






父親を知らずに育った父は



弟が生まれた事で、手ごたえのある父性を学び



親子の絆というものを掴んだ気がしています。



その弟の子供を抱くことを、父は本来一番望んでいたかも知れません。






しかしながら、残された家族としては



長い時間をかけ、命のリレーがここまで繋がったことに



深い感銘を覚えています。



父は生まれたての「もも」の中にも、確かに存在しているという



そんな実感なのかも知れません。














わたくしは、このテーマを与えて下さった方のブログのコメントに





広い広い世界の中で、縁あって暮らす家族。



この世界は、小さい小さい単位の「家族」が



無数に集まって出来ています。



命なしには知りえなかった。



だから出会えた命に感謝し、慈しみ、お互いを


育てていかなければと思います。







ということを記しましたが、その小さな集合体である「家族」というものを



実感として掴むまでに、わたくしは相当な遠回りもし、葛藤もしてきました。



いえ、家族という関係に十二分に満足していたならば



何もここで、愛や命や家族などのテーマについて



綴ることは無かったのかも知れません。







家族とは常に目の前に起こる現象に、立ち向かうべき集合体であり



そこで人は、長い時間をかけ



自分や、もっとも近しい人達の人間臭い感情を学び



「絆」としての実感を掴んでいくものだろうと思います。














夫婦という単位が誕生したからと言って、必ずしも新しい命が誕生するとは



限りません。



わたくしも、りょーじまるを産んだとは言え次の命にはなかなか恵まれず



37歳でやっと身ごもりましたが



そのそばから出血ばかりして、心音を聴くことなく流産しました。






その同じ月に、まさやんが生まれ



衰弱しきった体の中で、みずみずしい生まれたての命を



感慨深く抱いてその顔を飽きることなく見つめていました。







それから1年後に腎臓病が発覚しましたが



その時にはもう、妊娠すること自体にドクターストップがかかってしまい



いくら高齢とは言え、次の命を考える機会は永遠に絶たれてしまいました。




(わたくしは、腎臓にも肝臓にも疾患を持っており、今は子宮頸部にも



異形細胞が認められる為、2箇所の病院通いをしています)












ここで明かすならば、がっちゃまん酋長とわたくしの間に、子供は恵まれなかった



ということです。












りょーじまるは、わたくしの子供ですが、酋長の子供ではありません。



酋長は初婚でしたが、わたくしは初めての結婚ではありませんでした。



酋長との「絆」としての存在は欲しかったけれど



わたくしでは、手に入らないものだったという事実が残りました。



しかも酋長は、結婚して2年も経たずに



病気持ちの妻を抱えてしまったということでもありました。
















世の中には、血のつながりばかりの集合体ではないということも



ここでは頭に置いておなかければなりません。






夫婦二人だけの人達、動物を子供のように可愛がる人達(我が家も然りです)



親子だけで暮らしている人達、家族は別の場所にいるけれど一人暮らしの人達、



施設に入らなければならない事情を持った人達。







家族とは温かいもの、立派なもの、素敵なものという概念はあるけれど



実際そうであれば一番いいけれど



わたくしは、自分で築く前も築いてからも様々な場面で



その概念を強烈に持つが故、少しの揺らぎの場面でも



右往左往し葛藤してきたような気がします。







今でもそうです。



わたくしが、酋長の子孫を残せない苦しみというものを根底では持っています。



これまでつながってきたものを絶つという事態を、どこかで重く受けとめていて



わたくし達にとっての代わりの何かを



模索し続けているというのが本当の所です。







たまたま病気になる前にミリさんを迎えていて



病気になってからはルークさんを迎えて



わたくし達の重い空気が少し解放され、形を変え夫婦らしく、家族らしくなったような



そんな気がしています。










わたくしの実家で、一番家族らしい、精神的な温かい時間があったとすれば



それは父が不治の病に倒れ、その最期を看取った2年間だった気がします。






不器用な両親でしたので、わたくしは幼き頃から



絶えず「家族」というテーマに大きな疑問と葛藤を抱いていました。






もちろん、場面場面で幸福な時間は与えてもらったし



各自がバラバラな場面で覚えている温かな出来事もありますが



家族がこれほどまとまって、誰かを支え、命の尊さを知り、絆を深めた時間というのは



正直、この時ほど無かった気がします。








命がいずれ終わることは、誰の頭の中にもありますが



それはまるで絵空事のように、不確かで遠い先のものだと心のどこかで蓋をし



正面を向いてはなかなかそれを認めようとしないものです。






けれどその場面が来た時



去りゆく人に対して、これまで培った絆に感謝し



最期まで見守るのは、どんな形で過ごしたとしていても



「家族」という集合体だからこそ



真剣に、その人の為に尽くすことが出来るのだろうと思います。















見知らぬ人の「家族」の形の、何が良いとか悪いとか



そんなことは他人が語れることではないし



ましてやそれぞれの人にとっても、命が終わるまでは何が起こるかも分かり得ない



人生とは不思議な道程です。







その過程で出逢って、家族になって、何がしかの絆を結んでいく。



もしかしたら、命の始まりを見た時、終わりの場面を見た時に



全ての意味が凝縮され、それぞれの胸の内で



「家族」としての自分の役割、そして「絆」が実感として輝くのかも知れない。








「家族」とは、長い時間をかけて作り上げる「絆」



わたくしはそう感じています。