大蔵卿法印覺寛を召て仰せられけるは、
「六波羅へ行て云ん様は、『』山城守廣綱が子、七歳より召し使われて、不便に思召せ共、父罪深して切られぬれば、其子遁れ難けれ共、此れが稚なきには何事をか仕り出すべきなれば、法師になして親の後世をも弔はせんと思召せ共、定て近仕の人人取沙汰申んずらんと覚る間、先ず出し遣わさるる也。餘に不便なれば、我に預けん哉。大事有らば我に懸よ』と云て見よ」と仰せられて、
又勢多伽に仰けるは、
「汝、不便さ限り無けれ共、力及ばず、恨めしく思ふなよ。双の岡をば死出の山と思ひ、鴨河をば三途の河と思ふべし」と仰せ含める、その後、我御身を遊ばさるると覚えしくて、
埋木(うもれぎ)の 朽ちはづべきは 留(とま)りて 若木の花の散るぞかなしき
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勢多伽丸を寝所でも愛したと思われる道助入親王はこの時まだ25歳の若さでしたが、和歌の中で自らを朽ちはづべき埋木と称しています、その分、14歳の「若木の花」たる勢多伽丸のみずみずしい美しさが浮きぼられた形となっています、否、愛する稚児との永遠の別れを親(後鳥羽上皇)の敵たる
鎌倉方から強いられた道助入道(法)親王としては是が非でもそう修辞したかったのではないでしょうか。
以下、承久記「勢多伽丸の事」(三)に続く予定でいます。
また勢多伽丸の事は現在まで「文学・歴史等」テーマ(カテゴリ)に組み入れていますが、機を見て「勢多伽丸の悲劇」と題したテーマを新設しそこにこれまでの同少年関連欄を移動するかもしれません。
追記