(口述筆記)
こんなに素敵な日々を送り続けることができるとは思ってもいなかった。
自宅療養をはじめて16日が経過し、寝たきりではあるがとても健やかな気持ちだ。
先生とほほ笑みあった翌日からも同じ生活を繰り返しているが、これからも変わらないだろう。
家族と訪問看護師と翌日に繋がる会話が続くことをうれしく思う。今日も良い日だ。
こうして口述筆記に一行を加えられるのは連れのおかげ。感謝しかない。
(口述筆記)
きのう、医師と顔を合わせ互いにほほ笑みあった。
生きていることを実感、ことばの必要がなかった。
娘とのリハビリや息子ら(娘の夫ら)の適切なアドバイスもあり加減がずいぶんよくなった。
例えば、水分補給。
みそ汁やスープ、果物が口当たりよく体に入っていく。
リハビリもそうで、体には辛いこともあるがその後の爽快感は言いようがない。
いずれも希望が見えて来る。
波は厳しいが、まだ先がありそうだ。
(口述筆記)
そもそも寿命とは与えられた命の長さのことをいい、余命とは残された命のことをいう。
寿命ならばあと少しゆとりがあるものの、もし余命ならもう少し欲が出る。ところが、現実は逆でもうすぐ先に余命が迫っている。
告げられた余命は明日までで、残り一日なそうだ。
受け入れる気にはとてもならないが、どうやらそういうことになるらしい。
反骨精神そのままに生きてきたものにすれば明日で命が終わるとはとても思えないが、その要素を否定することはできないらしい。
それでも、何とか余命の宣告を越えようと思っている。
さて、明後日の朝が楽しみだ。
(口述筆記)
暫く休業状態だったブログを再開すると多くの読者から反応があり、何人かの見舞客があった。
実に嬉しい!
朝、 所望していたカットスイカを抱え弟夫婦がやって来た。
続いて、物書きをはじめてから得た仲間が来た。
彼女は、自ら漉いた和紙で名刺入れを作り届けてくれていたが、今度はこれに入る二つ折りの名刺を持参した。
喜ばせてくれたのは実にありがたいが、自分の不甲斐なさにがっかりもした。訳は、「一等賞を取ったときに」と公言していたからだ。
彼女はそんなことにもこだわらず「私の腕がもう少し上がってからの方が良かったのに」と謙遜した。
知己を得た出会いだった。嬉しく思う。
かつての級友が自作のパンを持参する。
彼女はいつも笑わせてくれる。
きょうもそうだった。
彼女は笑いの渦を作って帰った。
来客の続く日は、続くものだ。
終いには弟夫婦が再び来訪。今度は洋野町のウニ二本を持って来る。食してはいけないのだが、連れにねだり二口ほど飲み込んだ。
実に忙しい日だったが、きょうも良い日だ。