門司城の歴史を調べるシリーズ。
同じ北九州市門司区内にある猿喰(さるはみ)城跡に行ってきました。
先日、門司城跡に行ってきまして、門司城の歴史を見たところ…。
南北朝時代、北朝についた吉志系門司氏が門司城を拠点にしており、南朝についた伊川系門司氏は、この猿喰城を拠点にしていたとのことでした。
これは行くしかない!
行き方!
JR九州 門司駅で下車して、バスで『桜ケ丘団地下』まで乗ります。
で、この交差点を右➡️に行きます。
突き当たりで、右➡️を見ます。
すると、猿喰城跡の看板があります。
看板からは登山です。
山道を進みます。頂上まで206mとのこと。少し大変です。
一応、山道に目印が打ってあるので、道には迷わないと思います。
勾配は急です。
登山あるあるだと思いますが、写真だと伝わり難い難いんですよね。
横から撮影して、こんな感じです。
雨の日は登頂は無理だと思います。
で、頂上に行くと、デジタルテレビの送信所みたいな施設があります。
これを通ります!まさかの施設内の通り抜けです。
すると、猿喰城跡の史跡に辿り着きます。
ちなみにですが、麓に設置されている看板によると、門司城の吉志系門司氏が夜襲をかけ、猿喰城の伊川系門司氏73名が討ち死。伊川系門司氏は断絶という結末を迎えたそうです。
南北朝時代は細かく言うと和睦を図ろうとしていた時代とかもあるのですが、ザックリ言うと全国各地で北朝と南朝に分かれて戦いが繰り広げられていた時代です。勿論、九州でも。
門司氏の戦いなど、歴史の教科書には登場しないレベル…郷土史に辛うじて載るドマイナーな戦いです。
とは言え、この画像にある九州全土を舞台した勢力争いで、北朝が勝利したので、その勢いで門司でも北朝が機運を掴んで攻め込んだようです。だから、全く無関係というわけでもないみたいですけど。
まあ、このような歴史があったことを、今日の今日まで知りませんでした…。
猿喰城など観光案内にも載りませんから。
でも、小倉城や門司城と猿喰城を比べると面白いです。
小倉城と門司城跡を比べると、門司城は一国一城令で廃止になった負けた城と言える。
門司城と猿喰城跡を比べると、猿喰城は南朝朝時代の争いで負けた城。
3つの城の現状を比べると、勝者と敗者の様子が感じられて興味深いです。
あと、郷土史を調べようと豊前志を見ていると、門司~小倉(旧企救郡)には、狭い区域なのに24箇所も城跡が記されています。
城跡を巡ります?
郷土史にすら何のエピソードも載ってない城跡に行ったところでなぁ…と思いますが、全城跡制覇企画…は気持ち的に無理としても、門司氏が分かれて治めていたと言われる『門司六郷』の拠点となる城跡くらいは足を運んでおきたいと思います。