門司城の築城について | 上条武術研究所

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プロレス・サンボ・合気道を経験。
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・自宅ジムを開放(不定期)
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門司城を調べるシリーズ。

今日から本格的にスタートします。

門司城の築城を命じたのは平知盛。檀ノ浦の戦いにおける平家の総大将です。

檀ノ浦の戦いは…1185年3月24日。

門司城の築城は…1185年。細かい月日は分かりませんでしたが、平知盛が檀ノ浦の戦いで命を落とすことを考えると、檀ノ浦の戦いに備えて築城されたと考えるのが自然です。

屋島の戦いから檀ノ浦の戦いまで1ヶ月くらいあるんですよね。源氏側が海戦を得意とする平家に対抗するために訓練や戦力の増強をしていたそうですが、平原側も門司城の築城も含めて準備をしていたのでしょうかね?


これですね、私も今回の【門司城調べるシリーズ】のために、一般的な檀ノ浦の戦いが書かれた歴史の本(小学生や中学校の教育用みたいなヤツ)や関連する歴史ブログさんに書かれている記事等は読んでいるのですが、檀ノ浦の戦いに関連ついた門司城の記述は全く見当たらなかったのですよ。

だから「…準備をしていたのでしょうかね?」という想像しか書けないのです。



ただ、この時点で一つ疑問を感じます。


檀ノ浦の戦いの直前、平家は彦島に拠点を構えています。

彦島。

この理由は、一ノ谷・屋島の戦いに敗れ、瀬戸内海に沿って退却していたからです。もう1つの理由は、すでに源頼朝の手が回っており九州側にも源氏の勢力がいたためです。

挟み撃ちされているような形で彦島に陣取るしかなかったわけです。


あれ?

門司も九州なんですが…。

門司はまだ源氏の勢力圏内ではなかったのでしょうか?


とりあえず、門司城跡に行ってきました。

この私の疑問はあっさりと解決しました。

門司城跡のある和布刈公園にある源平合戦の解説パネルより。
平清盛は途中で病死するのですが、京を追われた平清盛も始めとする平家は、まずは縁のあった太宰府に逃げようとするんです。
しかし、太宰府はすでに源頼朝によって抑えられていたのです。
で、陸路で山鹿(現・遠賀郡)に行くもそこも源氏の勢力圏だったので、海路で柳ヶ浦なる場所へ上陸します。
柳ヶ浦とは彦島と関門海峡を挟んだ場所ですね。ここから平家は上陸をしてます。
余談ですが、この地区は現在『大里』という地名で、安徳天皇を有する平家がここから上陸したことに由来じます。ここを新たな御所にしようとする計画があり、御所→内裏→だいり→大里となったと言われています。
ただ、出所は忘れましたが、関門海峡に身を投げた安徳天皇がこの地で生きていたから大里になった説も聞いたことあります。

話を戻しますが、九州がすでに源氏の勢力圏だったと言え、まだ門司は平家の勢力圏だったことが分かります。

だから、平家が門司城を築城できた。


で、門司城跡へ行く道に石碑があり、この石碑には門司城の歴史を、築城から廃止まで細かに書かれています。
ネットで調べたやつより詳しく書かれている。
どこで区切るかは微妙ですが、文章の段落から6つの歴史に分類できそうです。
①平知盛による築城。なお、この石碑によると紀井通資は長門国の人間だったことが分かる。
②1244年からの幕府より派遣された下総前司親房による平家残党制圧時代。
③下総前司親房の子孫が門司氏を名乗り、門司を統治した時代。
④南北朝時代に北朝についた吉志系門司氏の時代。(南朝についた門司氏は猿喰城にいたようです。)
⑤大友氏から大内氏の時代を経て、大内氏VS毛利氏の門司城争奪戦時代。
⑥江戸時代の細川忠興統治での一国一城による廃止。

ガンダム好きとしては【残党制圧】の話を詳しく調べたいところですが、【下総前司親房】なる人物を検索しても、門司城のこの文章しか出ないんですよね…。

誰なんだー!千葉県北部辺りを前に統治していた親房さんってことなのかしら?


あと、ここにもう一時代を加えるなら、先の大戦時代に陸軍の砲台と弾薬庫があった時代になるかしら。



まあ、そんな感じです。

門司城を極めようと思うと、色々とその時代時代の歴史的を背景を調べないといけませんね。

門司城そのものの情報が極端にないですから。


次回は、檀ノ浦の戦いの話か、門司城自体というか山城の話か、例の豊前志をネットで注文したので新情報が手に入ればそれを書きます。