豊前志を取り寄せた | 上条武術研究所

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プロレス・サンボ・合気道を経験。
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・自宅ジムを開放(不定期)
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門司城を調べるシリーズ。

ついに豊前志が到着しました。
これは昭和44年度版。
実際に本を手に入れると、事前にネット記事で調べていたことがかなり要約された内容であったり、間違いであったりすることがあります。

この『豊前志』なる書籍は、文久3年に渡辺重春なる人物が作成した豊前国の歴史本。その後、明治、昭和初期と再販されている本のようです。
元々を言うと、元明天皇の時代(奈良時代とかの人よ)に郷土の編纂事業が行われたそうなんですが、この時に豊前国のものがなかったために作成されたのだとか。

で、驚いたことがありまして、リアル『豊前志』には門司城を築上したのは、下総前司親房とある。
平知盛ではない!

で、要約された文章じゃなくて、原文であろう漢文も載っているのですが、ここにも平知盛が築城したなんて載ってないのです。

うわ~。この動画で、平知盛が築城した根拠を『豊前志による』とか書いてしまいましたよ…。
申し訳ありません。動画の概要欄で訂正しておきます。
まあ、この時点で20再生いってない動画ですから間違いがあっても誰も気がつかないでしょうけど。

でも、現地の石碑には、平知盛が築城したと言い伝えられていると書いてます!
これだけは証拠を残しておこう。
Wikipediaにも『豊前志などによれば…』と豊前志を根拠とする平知盛説が書かれてるですけどね。


しかしながら、平知盛が築城したと考えると、おかしいと思うことは確かに色々とあるのです。

これは名前の問題なのでどうにでもなるのですが、『門司』という名前は前出の下総前司親房なる人物が下向して、その子孫が名乗った名前とされてます。平知盛の時代に門司城とは付けないはず。

檀ノ浦の戦い直前、平家は彦島に陣地を構えてました。反対岸の門司にはかろうじて城跡がありますが、彦島には城や砦の跡はありません。
一応、彦島には清盛塚なる清盛の骨が納骨されたと言われている場所があり、ここに彦島城(引島城or根緒城)なる平家が急造した砦があったと言われていますが、城や砦の形跡は残されていません。
本陣とされる場所に何の形跡もないのに、本陣じゃないところに形跡が残るくらいの築城をする余裕はあったのかな~という疑問。

最後。
最近の研究に基づいた檀ノ浦の戦いの動画とかを見ていると、下関側にも門司側にも陸地に源氏の兵士がいて、平家が陸地には逃げられないようになっていたとか。
確かに、平家の有力人物は入水していますし、平家の残党は海路で彦島の裏側に退却したなんて話もあります。彦島の裏側に身投げ岩っていう平家伝説があるんですよ。陸地に逃げる話はない。
そうなると、やはり門司城は平家が築城したものではないのではないかと思うのですよ。
築城はしたけど、あっさり手離したのかしら。

歴史系の記事は難しいですね…。