小倉城桜祭りステージレポ①『小倉城武将隊』 | 上条武術研究所

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楽しみにしていた小倉城武術隊さんの新作『小倉城ものがたり 小笠原白黒騒動編』の舞台を見に行きました。


おおよそ世間的な各地の武将隊のイメージと言えば、戦国時代の武士や剣豪などが演じるキャラクターとして選ばれますが、今回の劇の題材になっているのは、俗に言われる白黒騒動。

戦いの少ない江戸時代中期(1811年~)の出来事。チャンバラのない地味な劇になるのでは?と危惧していましたが、遊女の踊りや創作に登場する狐などで、派手なステージになっておりました。

これですよ。素晴らしい。

やっぱり小倉城武将隊さんの劇は面白い。
エンタメ集団だ。


私の個人的な話ですが、東京にいた時に小劇団の人達の強引なチケットの売り込みが嫌(お笑いライブと違って、劇は高いのよ…あとそこまで知り合いじゃなくても連絡きたり…)だったので、あまり劇団員に良い印象はもってなかったのですが、小倉城武術隊さんを見るようになって劇団の方々への印象は変わりました。

まあ、武術、地元史という私が興味を持っていることと共通しているからかもしれませんけど。

 


以下、色々と感想。


①今回の白黒騒動では、最初に殿がいないという演出があるんですよ。これが凄い!

小倉城武将隊さんの劇の導入部分ってば、家来役が「殿~!」と伝令に来るのが定番なんですよ。で、ラストには次回ストーリーの殿に対して伝令が入り終わるという様式美があるんです。

でも、今回は最初に殿となる人物がおらず、伝令が「あれ?」となる。

ギャグみたいなシーンになっているんですけど、おそらく白黒騒動前の小笠原騒動で、すでに小笠原忠苗が失脚しているところを表してるのよ、これ。

ちょっと笑いも起きるんですけど、小笠原騒動の史実を事前に勉強して、かつ小倉城武将隊さんの劇を何度か見たことのある人からすれば、むしろ「なるほど」とか「おおーっ!」って唸る演出。実際に客席からどよめきが聞こえました。

武将隊の演出も凄ければ、それに気付くコアな地元ファンも凄い。



②史実だけでなく、創作も勉強してこれば良かった…。

観劇していると、近くのお客さんから「狐の意味がわからない。」との声。

「野暮なこと言うなよ、小笠原騒動と言えば狐なんだわ…」と思いつつも、ふと考えてみると…

誰かに恩返ししているのかしら、取り憑いてるのかしら?いや、登場するのは白黒騒動じゃなくて、小笠原騒動のほうだったような気もするな…

私もよく分かっていなかった!

狐。


前にいのちのたび博物館で見た小笠原騒動企画展で学んだことなんですが…

狐は小笠原騒動が、狂言や歌舞伎等で劇として創作されていく中で登場したオリジナルキャラクターで、由来としては、小笠原家に代々狐信仰があったことかららしいです。あと、小笠原騒動自体は内々に片付けられた事件で、その話は白黒騒動の時に暴露的に表に出てきた話なので、当時の庶民は正しい詳細まで知らなかったみたいなんです。だから、小笠原騒動には狐とか創作の要素が盛り込み易かったとかなんとか。


そんな感じで、小笠原騒動企画展のときに色々と学んではいたのですがね…。

如何せん、白黒騒動のほうに狐はどう絡んできていたのか…残念ながら記憶がないんです。

辛うじて、手持ちに「創作に狐が登場した。」という資料の画像はあるが…これは小笠原騒動のもの。

もっと創作のほうも勉強してから観劇すればよかった…。

ちょっと白黒騒動の狐について、調べてみます…。


③次回の四境戦争がマジで楽しみだ。

高杉晋作が攻めてくるぞ!


何が楽しみって、小倉城の大太鼓についての解釈ですよ!この題材の劇なら避けられないでしょう。


過去に私なりに小倉城の大太鼓について調べていますが、どう考えても下関の厳島神社側に理があると思うんです。


厳島神社の大太鼓は、四境戦争の際に高杉晋作によって、小倉城から戦利品として持ち帰られた大太鼓。

小倉城が「返せ返せ。」と言い続けているか、その事実をちゃんと認めていて、小倉城にあるのはそのレプリカという掲示がされているなら理解できる。


でも、厳島神社に小倉城の大太鼓があることは周知の事実なのに、それを無視して、昭和になってから「天守閣の大太鼓が別の場所から発見された。」は不自然すぎる。ヤバすぎる。


さらに、その別の場所から発見された大太鼓が、小倉城の太鼓であることを示す根拠とされる『太鼓に刻まれた作者の刻印』とやらは、写真すら公開されていない。何故?何故?マジで何故だかわからない。

とても、寛永三年に彫られたものには見えないからかな~?

ちなみに、その刻印の文字がコチラ。(私の字です)
寛永三年に明石潘の潘命で作られた太鼓が福岡で見つかったということは…小倉に来る以前からの小笠原家の持ち物だと推測され、つまりはこれが小倉城の太鼓だったんじゃないかという話なんです。
なので、その刻印が公開されたとしても、やっぱり推測の域は出ない。

あと、厳島神社の大太鼓は、小倉城の北の楼門・太鼓櫓にあった大太鼓というのが定説。これは下関のガイドブックとかにも書かれている。


それに対して、現在の小倉城に展示されている大太鼓は天守閣にあった大太鼓らしい。
互いの言い分を信じるなら、そもそも別の太鼓。
北の楼門にある太鼓より、天守閣にある太鼓のほうが格式は高くなるよね~。

でも、刻を告げる大太鼓って天守閣においておくものかしら?そんなことをしたら、天守閣が太鼓を叩くためだけのスペースになりません?

北の楼門にも似たような大太鼓があるのに、天守閣を太鼓スペースとして使います?

どうなんでしょう?


もう一つ言いますと、小倉城の天守閣焼失は1837年。長州潘との戦いは1866年。その間の30年、大太鼓はどこに置いてあったのかしら。

戦争は予めわかるから、前もって貴重品を避難させておくことは可能なわけですけど、開戦時点では天守閣自体がないのよ。

だとすれば、天守閣以外の何処かにあった太鼓ということになる。1837年の焼失まで天守閣にあったとしても、これを【天守閣の太鼓】と呼び、小倉城の目玉の一つとしているのは如何なものでしょうか?


そもそもの話をすると、小倉城の大太鼓は、あの高杉晋作が四境戦争で戦利品として持ち帰って、厳島神社に奉納したからこそ、大事にされ現存しているわけだし、高杉晋作にまつわる物語があるので歴史的な付加価値を見出せるわけですよ。

火災前か戦争前か分かりませんが、曽根の庄屋か戸畑八幡神社かに避難させているだけの小倉城の大太鼓…よく考えている下さい。そんなのは何の逸話もないただの普通の大太鼓なんや!


一つの矛盾があるから、辻褄を合わせるうちによく分からなくなっている例ですね。これは。


世間ではそれを、捏造って言うんだ!


なんか正直に『厳島神社が大太鼓を返してくれないから、小倉城再建に合わせて、観光用にそのレプリカを作った。』が、色々と正解じゃないですかね。高杉晋作の知名度の恩恵も受けれるし、変な疑惑もなくなるし。レプリカだったら叩く体験も開催できるでしょう、小倉城が提唱する体験する展示にバッチシではないでしょうか!


熱くなってしまいました…。誰か真実を教えて下さい。



でも、小倉城側の武将隊さんなら、平穏無事かつ小倉城側に理のある解釈を見せてくれると思うんです。

そして、その劇中での解釈が、小倉城の側の大太鼓の件に対する最新の公式見解になるはず。


いや、何だったら、次回作の『小倉戦争』のラストに「神主!神主!」って導入があって、大太鼓に関する厳島神社と小倉城の対立を、番外編で演じて欲しいくらいです。


まあ、何にしろ次回の作品は歴史が動く瞬間になる。楽しみでございます!






そんな感じです。楽しかった。



コラボステージの時には、各俳優さんが定番の衣裳で登場してました。
やはり、コチラのほうがしっくりきますね。