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The Zone of Interest(2023 アメリカ、イギリス、ポーランド)

監督/脚本:ジョナサン・グレイザー

製作:ジェームズ・ウィルソン、エバ・プシュチンスカ

原作:マーティン・エイミス

撮影:ウカシュ・ジャル

美術:クリス・オッディ

編集:ポール・ワッツ

音楽:ミカ・レビ

出演:クリスティアン・フリーデル、サンドラ・ヒュラー、ラルフ・ハーフォース、ダニエル・ホルツバーグ、サッシャ・マーズ、フレイア・クロイツカム、イモゲン・コッゲ

 

①最後まで途切れない怖さと緊張感

ルドルフ・ヘス(クリスティアン・フリーデル)とその妻ヘートヴィヒ(サンドラ・ヒュラー)は子供たちとたくさんの使用人と共に、郊外の豪華な屋敷で暮らしていました。美しい自然に囲まれたそこは、暮らすには理想的な環境に思えます。ただ、隣がアウシュビッツ強制収容所であり、毎日絶えず悲鳴や銃声が聞こえてくることを除けば…。

 

アカデミー国際長編映画賞カンヌ国際映画祭グランプリを受賞した、ジョナサン・グレイザー監督の野心作。A24制作の異色作でもあります。

ホロコーストをテーマに、ユダヤ人虐殺の最大の現場であるアウシュビッツを描いた映画ですが、虐殺シーンは一切見せない。

見せるのは、その壁一つ隣で楽しそうに暮らす、所長一家の穏やかな暮らしだけ。

虐殺はすべて、音と気配だけで伝えられます。

悲鳴。銃声。怒声や命令、苦しみの声。

毎日多くの囚人を運んでくる汽車の音、その煙。

毎日多くの囚人を「処理」するボイラーの音。その煙。

あまりにも恐ろしい「そこで行われているであろうこと」を、あえて見せず、余さず観る者に想像させる。その怖さ。

そして、そんな異常な出来事が進行している隣で、そこにはまったく目を向けず考えもせず、平気で平和な暮らしを送ることができる家族の有り様。その怖さ。

 

怖い映画です。めちゃ怖い。そこらのホラー映画よりずっと怖い。

「アウシュビッツの隣で暮らす家族の日常を、虐殺は直接見せずに描く」というコンセプトは公開前によく知られていて、そのコンセプトありきの作品ではあるのですが。

でも実際に観てみると、予想を遥かに超えてくる怖さと緊迫感

一切ダレることなく、最後まで途切れず画面に惹きつけらました。

「面白い」と言うのは憚られる内容だけど、でもとても面白い映画でした!

 

②当たり前の感覚が歪む恐怖

様々な形で、「隣で粛々と進行する大量虐殺」と、「それに対する無関心」が描かれていきます。

冒頭から、家に持ち込まれる大量の衣服。それを事務的に山分けする。

高級そうな毛皮のコートを羽織ってみて、ポケットに口紅が入ってるのに気付き、それも使ってみて、こともなげに自分の持ち物に加える…。

 

それは要するに強制収容所の収容者から剥ぎ取られた衣服であって。

それが女性であって、以前は裕福な生活をしていて、口紅をしておしゃれして出掛けていく、そんな生活をしていたことが伝わる。

それが剥ぎ取られ、他の大量の衣服とひとまとめにされて「いらないもの」として扱われている。

だって、彼女はもう着ないから。強制収容所から出てきて再びおしゃれな生活をすることは、もう二度とないから。

 

たった一着のコートからでさえ、そんな物語が否応なく立ち上がってきます。

それは、その持ち主が「人である」という物語。普通に生活していて、喜びや悲しみを感じていて、自分と同様に「生きている」という事実です。

映画を観ていてさえ、それが伝わる。現場にいて、それに触れていて、それを感じないはずはない…と直感的に思うのだけど。

 

でも画面の中では、徹底した無関心が貫かれていきます。何の共感もなく、やましさもなく、ただ台所の日用品を扱うように、事務的に「収容者の衣服」を扱っていく。

心が動くはずの場面で、まったく心が動かない不気味。無感動の怖さが、ひたひたと画面を支配していきます。

 

いったいこれは何なのだろう…と、現代の感覚で見ると異常に思えて、平衡感覚が狂うようなアンバランスな気持ちにされてしまうのだけど。

考えてみれば、そもそもこの時代この場所で行われているのは、ユダヤ人という民族そのものを絶滅させようとする、常軌を逸しためちゃくちゃな計画である訳です。

狂気の沙汰。それを国策として、国を挙げてやっている。

そういうことがまかり通るためには、一般の国民全体がその狂気に取り込まれ、感覚を狂わせてしまう必要がある。

国全体が、狂気を共有する。そしてどうやら、そういうことは割と容易に起こってしまうようなのです。

 

同じ人間でも、ユダヤ人なら殺していい、殺して当たり前という感覚。

そんなアホな、と思うけれど、例えば同時代の日本人だって、お国のためなら死ぬことが誉れであるという感覚を疑いない常識として持っていた訳ですよね。

国家によって、植え付けられる常識。皆がそうしているから、自分もそうしなくてはという感覚。

それは強い。時には人として当たり前の倫理や人道さえも無視できてしまうほどに強くて、そして誰にでも起こり得ることであるという。

そういう普遍的な恐怖が、早くもここから立ち昇ってくる訳です。

③「普通の主婦」の感覚の歪み

家族だけでなく使用人まで含めて、前提とする正気が歪んでいる。人としての感覚が狂っている。

それが当たり前の日常になって、毎日が続いていく世界。本作で描かれるのは、そんな異世界のような「本当にあった世界」です。

その中でも焦点が当てられていくのは、ヘス所長その妻ヘートヴィヒ

 

ヘスが出世して転勤を命じられ、引っ越ししなくちゃならないとわかると、奥さんは猛然と怒るんですよね。

私はここを離れない!と言い出す。ここは理想の場所で、子供たちのためにも最適の場所だから、ここを出て行くなんて嫌だ!と。

 

彼女には、本気で虐殺が「見えてない」。知識としては知ってるはずだし、銃声も悲鳴も聞こえてるし、立ち上る煙だって見てるのに、彼女はそれらを完全に自分の心から閉め出しています。

その怖さを体現するサンドラ・ヒュラーが凄い。「落下の解剖学」に続いて、強烈な存在感です。

 

とは言え、彼女は別にサイコパスじゃない。彼女のようにならないと、この状況で生きていくことはできないのでしょう。

実際、他所からやって来て滞在した母親は、隣から聞こえる音に神経を参らせて、書き置きを残して立ち去ってしまいました。

普通の神経なら、そうなる。そうならないためには、自分の中の回路を切って、見えても見ない、聞こえても聞かないというモードになるしかない。

 

だから彼女もまた、状況の被害者であるとも言えるのだけど。

彼女が「見ない/聞かない」ことに決めた物事は、そこで育つ子供たちにはバッチリ見えて聞こえている訳です。

隣から聞こえる虐殺の声を子供が聞いて、遊びに取り込んでるシーンがありましたね。隣からの声に、そこだけ字幕がついてた。つまり、大人は聞かないことにしている声は、子供たちには聞こえている

子供の教育にいいどころじゃないですね。

④「サラリーマンの順応」の先にある虐殺

家族の中で唯一お父さんのヘスだけが、収容所の実態を知っている人物です。所長ですからね。

彼は毎日、虐殺の現場を見ている。その命令を出している。

送られてくる大量の収容者を「効率的に処理する」方法に、頭を痛めている。

業者が「画期的なガス室システム」を売り込んできて、それで仕事が達成できると安心する、そういう仕事を日々やっている。

 

それでも、やはりヘス所長もまた、サイコパスではない

それはそうです。残酷な命令を遂行したナチスの将校たちが全員たまたまサイコパスだったなんてことはあり得ない。

彼らも元はと言えば心を持つ普通の人間であり、奥さんや他の人々と同様に、国を挙げての状況に巻き込まれ、順応したに過ぎない。

だからと言って、彼の罪が減免される訳ではもちろんないのですが。

 

だから彼は、川に灰が流れてきたら慌てて子供たちを遠ざけるし。

残りたいと言う妻に、複雑な表情を見せる。

健気に単身赴任して、戻れると知って大喜びで妻に伝える彼は、本当にありがちなサラリーマンのお父さんって感じなんですよね、

仕事の内容は、どこまでも虐殺なんですが。

 

映画のラストに置かれた彼が嘔吐するシーンが、言葉でなくそれを物語っています。

彼が嘔吐しているのは、自分の行為に対して。

パーティーの会場に行っても「全員を効率的に殺すには」と考えてしまう自分自身に嘔吐している。

いや本当に、ゲロ吐くのが当たり前なんですが。

 

このヘス所長のサラリーマン然とした描かれ方も、すごい皮肉だと思うのですよ。

「必ずしも意に沿わない仕事でも、仕事であれば仕方がない」と考えるのは、多くの人に理解できる感覚だと思うので。

ヘス所長の有り様も、そんな感覚から繋がっているという事実に気付かされるのです。

⑤リンゴの少女と、現代に突きつけるもの

淡々と生活が描かれる中で、サーモグラフィーの映像で描かれる少女の幻想的なシーンが挟まれます。

泥の中にリンゴを埋め込んでいく少女のシーン。

これは、収容者に食べ物を与えた実在するポーランド人の少女からインスパイアされたものである…という監督の発言を見たのですが。

 

でもそんなことは映画の中ではわかりようのないことなので、別にそんな知識は必要ないと思います。

映画の中では、素直にただ映像を見て、そこに込められた象徴をそれぞれに考えればいいのでしょう。

 

少女のシーンはヘス所長の娘が夜に眠れずにベッドを抜け出している場面から繋がるので、娘の見ている夢であるようにも見えました。

彼女が眠れないのも、虐殺の隣で育てられるという酷い虐待による影響と言えるでしょう。

 

そんな中で、リンゴという生命の象徴を、土に掘られた穴という収容所の象徴に置いていく少女。これは、娘の状況への抗議、抵抗を示しているように感じました。

大人たちが皆揃って順応し、完全な見て見ぬふりを達成している状況の中で、それは異常であって、抵抗しなくちゃならないと言う思い。

それが託されたシーンであるように感じました。

 

本作が現代に発信する強いメッセージは、「人は(特に大人は)見て見ぬふりをすることができる」という事実だと思います。

その方が楽だから。直視するとしんどいし、何かと面倒ごとに巻き込まれるから。

そういう意味では、順応した方が賢い。

この時代この場所のナチス政権下においては、ユダヤ人は殺してよし!という「常識」を疑わない方が賢い。反対したら、殺されたり自分が収容所送りになるかもしれないのだから。

でも、それは客観的に見れば、本作で様々な形で描かれたような狂気の沙汰、自ら人間性をかなぐり捨てるという、嘔吐するような最悪な行為であるのだということ。

 

そしてそれに似たようなことは、現在でも、今ここでも、私やあなたの上にも起こっている。

私もあなたも、世界でたった今起こっている虐殺を知っていますよね。テレビやネットを通して、銃声も聞こえている。煙も見えている。

でも何もしていない。「見て見ぬふり」をしている。

そして私たちの近くでは、子供たちが虐殺のニュースに晒されていて、何もしない大人たちを見ている。

 

それを突きつけられている。

さて、自分はどうしようか…と、誰しもが考えざるを得ない。観てしまった以上は…

そんな力を持つ、すごい映画だと思います。

 

 

サンドラ・ヒュラーどっちもすごい。どっちも「わんこ映画」であるという示唆もいただきました!確かに!