Anatomie d'une chute(2023 フランス)

監督:ジュスティーヌ・トリエ

脚本:ジュスティーヌ・トリエ、アルチュール・アラリ

製作:マリー=アンジュ・ルシアーニ ダビド・ティオン

撮影:シモン・ボーフィス

美術:エマニュエル・デュプレ

編集:ロラン・セネシャル

出演:サンドラ・ヒュラー、スワン・アルロー、ミロ・マシャド・グラネール、アントワーヌ・レナルツ、サミュエル・セイス、ジェニー・ベス

①ぐいぐい引っ張る正攻法のサスペンス

雪の山荘で暮らすベストセラー作家のサンドラ(サンドラ・ヒュラー)、その夫で教師のサミュエル(サミュエル・タイス)、11歳の息子で目が不自由なダニエル(ミロ・マシャド・グラネール)、それに愛犬スヌープの家族。サンドラのインタビューに学生が訪れますが、屋根裏部屋にこもる夫は爆音で音楽をかけて追い返します。ダニエルが犬の散歩に出掛けて帰ってくると、家の前に倒れているサミュエルの死体を発見します…。

 

ジュスティーヌ・トリエ監督によるカンヌ・パルムドール受賞作。アカデミー賞では脚本賞を受賞。

脚本賞にふさわしいと思える、実に面白い、よく練られた物語でした。

観てる途中、何回もすごいな!と。こんなストーリーを思いついて映画に組み上げるなんて、すごい才能だな!と思いましたよ。

 

と言っても、決して奇をてらった物語ではない。極めて正攻法の、ストレートな物語です。

時間軸に沿って、客観的に淡々と、出来事をスケッチしていく。

裁判という「暴き立てる場」を通して、主人公の隠していたものが少しずつ炙り出され、また秘めていた心の奥のもやもやが姿を現していく、スリル。

 

本作は上映時間の半分くらいを裁判シーンが占める法廷ものサスペンスなんだけど、その裁判にしても、そこまでドラマチックな逆転劇という訳ではないんですよね。

新たな証拠の応酬で、逆転につぐ逆転…というような展開にはならない。

ただ状況証拠を積み重ね、何がもっともらしいか、真実に近く感じられるのは何か…を感じさせていくだけ。

でも、その過程が非常にスリリングであり、目の離せないサスペンスに満ちている。

あざとい作為を入れ込まなくても、ここまで引き込まれるドラマ性を作り上げる手腕が、本当に見事だと思いました。

 

②嘘と共に生きること、理由を暴かれる暴力性

すべての事象には理由がある。

妻が学生からインタビューされている最中に夫が爆音で音楽をかけたのも、そこにはちゃんと理由があって、そこに至る背景・道筋というものがある。

サンドラたちがあんな不便そうな山荘に住んでいるのも、息子の目が不自由なのにも、それぞれ何がしかの理由がある。

でもそれは、普段は別に表に出ない。

取り立てて理由は何か?ということを気にかけることもなく、ただ日常の出来事として、次々と流れていく訳です。

何もなければ。夫が変死を遂げて、妻が殺人を疑われる…というような、大きな出来事が起こらなければ。

 

裁判というのは、事実を解き明かすために、そんな理由を一つ一つ拾い上げて、人目に晒していく。おおやけに開陳していく場…ですね。

そうなるとどうしても、普段であれば見たくないこと、あえて触れたくないこと、できれば隠しておきたいことが、何もかもあからさまにされていってしまう。

 

人は誰しも…別にそこまで後ろ暗いことがなくても…何らかの秘密を持ち、何かを隠して生きているものです。

サンドラは夫との間に諍いがあることを隠している訳ですが、それを隠すのはただ保身のためだけという訳ではないでしょうね。

息子ダニエルに、両親の不仲をわざわざ見せつけたくはない。しかも、ダニエルの障害がその不仲の一因にもなっている訳だから。

 

良かれと思って隠している。余計な波風を立てないために、いろんなことを胸の内に秘めている。

「良かれと思って」が重きを占めるのは事実だけれど、一方で自分が恥をかきたくないとか、人間関係の上で不利に立ちたくないとか、利己的な思いも当然ある訳で。

人は誰でも、いくらかの後ろめたさと無縁では生きられないものだろうなと思います。

だから、裁判で「完全な身の潔白を証明せよ」と問われるのは、極めてしんどいことになるのでしょうね。

③「すべてが類推でしかない世界」の不安感

当事者以外に誰もいなかったところで本当は何が起こったかを、状況証拠から推し量っていく。その難しさ。

ダニエルが自信を持って答えた証言も、矛盾があることが明らかになって、ダニエルは次第に自信をなくして証言を変えてしまう。

人の記憶なんてそこまで明確なものではないし、何が本当にあったことだったか、後から知ることは難しい。

 

本作で徹底されるのは、「後から事実を知ることの不確実さ」です。

本作には「回想シーンはない」ということを、トリエ監督は言っています。

劇中には回想シーンに見えるシーンがいくつかありますが、それらは決して客観的な(神様視点の)事実の描写ではなく、後から類推して想像されたものであるということになります。

 

裁判の中で、サミュエルが録音していたサンドラとの激しい口論が再生されるシーン。

映画の画面では映像が流れますが、これはあくまでも客観的な事実ではなく、「録音の音声から類推される映像」ということになります。

客観的証拠として存在するのは音声だけですからね。

 

同様に、映画の終盤で登場する「ダニエルの記憶に基づくシーン」も、客観的な回想シーンではない。

客観的な事実とは言えない。「ダニエルの現在の記憶によればこうだった」というものに過ぎない…ということになります。

そして、ダニエルの記憶は場合によってはあやふやであることが、冒頭の証言を通して語られています。

 

これはもちろん、ダニエルの記憶が当てにできるかどうかという話ではなくて、人というものの生物的な限界として、そうとしか言えない…ということですね。

人は過去に戻ることはできないのだから、過去の出来事はすべて曖昧な記憶を元にした想像に過ぎない。

録音された音声があってさえ、それに付随する映像は想像でしかない。

 

我々が生きているのはそういう世界である、という真理。

それに気づいた時に、何か足元の確かな地面が崩れていくような、底知れない不安と怖さが押し寄せてくるのです。

④映画の面白さが物語る当事者の苦悩

過去はすべて類推でしかない。だから裁判というのも、究極は「どっちがよりもっともらしいか」という、「確からしさ」を比べるものでしかない。

…と考えると、ちょっと怖いですね。もっともらしさで、有罪か無罪かが決まってしまうのだとしたら。

 

最後、サンドラは無罪になって、弁護士と祝杯をあげるのだけど、でもやっぱりそこにはスッキリしないものが残ります。

得たものよりも、失ったものの方が圧倒的に多い。

何かが決定的に損なわれてしまって、それはもう元には戻らない。

 

サンドラが無罪になったのは「証拠不十分」ということだろうから、過去は類推でしかないということが、有利に働いたとも言える。

でも、過去が類推でしかないということは、サンドラが無実であることが証明された訳でもない。

ただ、有罪とするには証拠が足りなかったというだけで。

たとえ法律上無罪と決まったと言っても、夫を殺したのかもしれないという疑惑は、サンドラにずっとついてまわることになるでしょう。弁護士も、ダニエルでさえ、心から無実を信じきっている訳ではないのだから。

 

そこは結局、観客にとってもわからないままなんですよね。サンドラが本当に無実なのか、そうではないのいか。

本作では観客も神の視点に立たせてもらえないので、劇中のサンドラ以外のすべての人と同じ立場に立つことになる。

裁判の結果は出たけれど、でも彼女が無実かどうかは本当のところはわからないぞ…と思っている、そんなような立場に。

 

映画の構造によって、それが示される訳です。サンドラは「彼女本人以外のすべての人が、彼女が有罪か無罪かわからないと思っている世界」に放り出されたのだということが。

これ…とてつもなく恐ろしい、キツいことですね。裁判で無罪になったとしても、とんでもなくキツい刑罰を既に受けている…と思える。

 

誰かと一緒に映画を観たら、多くの人が「それであの人、どっちだったと思う?」とか話したくなると思うんですよ。

「やっぱり殺したんじゃない?」とか、言いたくなる。

誰かが悪人である可能性というのは、とても面白い娯楽装置になるんですね。当人以外の人にとっては。

映画としての面白さという本作それ自体の構造を通して、それが伝わる。だから本当に巧妙で、よくできた映画だと感じるんですよね。

⑤サンドラ・ヒュラー、そしてメッシ!

サンドラ・ヒュラー、本当に素晴らしかった。

嘘をついているようにも、誠実に語っているようにも、見える。それはやはり、人間ってただ善人だけである人も、悪人だけである人もいない訳で。

人としてそうであるだろう複雑さを、見事に演じ切っていました。

 

サンドラはドイツ人で、フランスでは異邦人であるという設定で、フランス語は得意でなく、しかしドイツ語ではなく、折衷案のようにして母国語でもない英語で話す。

そこも夫との関係の中でそこに至った理由がある訳だけど、裁判の中ではただただ不利だし、周りの人には「自分とは違う、異質な人」のように感じられてしまう。

映画の中で言語を使い分けることによる「心細さ」「地に足のつかない不安感」も、とても伝わってくるものがあったと思います。

 

あとはやっぱり、犬ですね。一家の飼い犬スヌープを演じた、メッシという名前の犬!

ただマスコットというだけでなく、素晴らしい演技を見せてました。パルムドッグにふさわしい活躍です。

「枯れ葉」「瞳をとじて」に続いて、本作も優れたワンコ活躍映画でした!

 

 

ジュスティーヌ・トリエ監督の前作。