Cerrar los ojos(2023 スペイン)

監督/原案:ビクトル・エリセ

脚本:ビクトル・エリセ、ミシェル・ガスタンビデ

製作:クリスティーナ・スマラガ、パブロ・ボッシ、ビクトル・エリセ、ホセ・アルバ、オディール・アントニオ=バエス、アグスティン・ボッシ、ポル・ボッシ、マキシミリアーノ・ラサンスキー

製作総指揮:クリスティーナ・スマラガ

撮影:バレンティン・アルバレス

美術:クルル・ガラバル

編集:アセン・マルチェナ

音楽:フェデリコ・フシド

出演:マノロ・ソロ、ホセ・コロナド、アナ・トレント、ペトラ・マルティネス、マリア・レオン、マリオ・パルド、エレナ・ミケル、アントニオ・デチェント

①「ミツバチのささやき」「エル・スール」のこと

俳優のフリオ(ホセ・コロナド)は、映画「別れのまなざし」の撮影中に突然失踪。それきり行方不明になってしまいます。それから22年後、「別れのまなざし」の監督ミゲル(マノロ・ソロ)は未解決事件を扱うテレビ番組に出演し、フリオの娘アナ(アナ・トレント)に会います。番組が放送されると、フリオに似た男が海辺の施設にいるという情報が寄せられます…。

 

「ミツバチのささやき」「エル・スール」「マルメロの陽光」のビクトル・エリセ監督の、31年ぶりの新作長編映画です。

寡作にもほどがある監督です…。「ミツバチのささやき」は1973年。

第2作の「エル・スール」は、それから10年を経た1983年。

第3作の「マルメロの陽光」は、更に10年近くを経た1992年。

「マルメロの陽光」はドキュメンタリー映画だったので、劇映画としては40年ぶり3作目ということになります。

これだけ寡作でも忘れ去られず、いまだに語り草になっているのは、すごいなあと思います。

 

その点からも、本作は自伝的要素の強い作品になっていますね。

2作目が未完になって22年、映画から遠ざかっている劇中の映画監督ミゲル。エリセ監督はもっとですが。

「エル・スール」は完成して公開されたのだけど、実は本当はもっと長いはずだったのが後半が製作されずに終わっていて、言うならば「未完成品」なんですよね。そこも符合しています。

(いや、作品としては素晴らしくて全然未完成とは感じないのだけど、監督本人としては忸怩たる思いはあるだろう…という意味です)

 

「ミツバチのささやき」で5歳の少女アナを演じたアナ・トレントが、50年ぶりに同じアナという名前の役を演じるというのも話題になっています。

「瞳をとじて」は決して監督の過去作を観ていないと理解できない作品ではない。独立した作品ではあるのですが、過去作を知っているとより楽しめるところは多いように思います。

どっちにしろ、「ミツバチのささやき」と「エル・スール」は超名作なので!

どっちも短い映画だしね。この機会に、未見の方は観てみるのがいいんじゃないかと思います。

 

②過去を含んだ今を生きるということ

「ミツバチのささやき」「エル・スール」共にスーパーナチュラルな要素も含む、詩情あふれる作品でしたが、本作はよりリアルな肌触りになっています。

上の2作と違って現代の都市が舞台になっていて、かつてあった茫漠とした神秘の気配は姿を消さざるを得ない。

過去には確かに存在したように思える神秘性が、微塵も感じられない無味乾燥な現代。

その対比は老いた監督の実感でもあるのだろうし、「ミツバチのささやき」「エル・スール」を脳裏に置きながら観る観客のノスタルジーや喪失感にも見事にフィットします。

 

少年期や若い時代を遠く離れて、それなりの年齢を重ねて現代を生きるということに、誰しも共有して感じる感慨というものがあると思うのです。

誰しも、過去は輝いて見えるもので。そこには何か、今は失われてしまった神秘が確かにあったように思える。

かと言って、ただ後ろ向きに生きてるだけでもなくて。現代のリアルな暮らしの中にも意義は見出しているし、年齢を重ねたからこそ見えるものもある。

そんな「大人が感じるリアル」が、確かに表現されていると思うのです。

 

前半は消えた俳優の謎をめぐるミステリのようにして淡々と進んでいくのだけど、随所にこの「過去の気配を踏まえた感覚」があって。

物理的なスリルやサスペンスはないのだけど、「過去」や「記憶」が不意に影響を及ぼしてくることで現在が掻き乱される、そんな独特の緊張感がある。

静かな緊張感が持続して、次第にある展開への予兆になっていく。そこが「ミツバチのささやき」や「エル・スール」との共通性になっていて、さすがと思わされましたね。

③海辺の小屋で犬と暮らしている

本作はざっくりと3部構成になっています。都市でのテレビ出演の顛末を描く第1部、海辺の住まいに戻って日常を描く第2部、そして俳優に会いに行く第3部。

全体の中で間に挟まったクッションのようになってるのが第2部なのだけど。これが、実にいい味出してます。

 

海辺の小さな小屋で犬と暮らすミゲル。

夜は隣人の若い夫婦と近所のおっちゃんと、酒を飲んで、ギター弾いて歌って。

急かされない、無為な時間が過ぎていく。

映画全体の中では浮いている、ストーリーと絡まない部分なのだけど。とても心地いいんですよね。

目的に追われない、贅沢な時間の使い方をすることの豊かさ。それに気づかされて憧れてしまいます。

 

ここもただ呑気なだけではなくて、のんびりした空気の中に独特の緊張感は持続している。

自分で選んだ、満足感のある暮らしではあるのだけど。

でも一方で、過去に属していた世界からは降りてしまった、何かを諦めてしまったような虚しさも、確かに同時に存在している。

別にどっちが…という訳じゃなく、否定も肯定もしないのだけど。

この場所での暮らしも近々立ち退かなければならない…という会話もあって、ずっと変わらずにはいられない悲しみが漂います。

 

あと何より、犬がかわいい! めっちゃミゲルのことが大好きな犬。

本作は魅力的なワンコ映画でもありますね。「枯れ葉」と同様。

犬はこの2部にしか出てこないのだけど、それだけでも強い印象を残します。

④記憶としての映画

最後のパートでは行方不明だったフリオが見つかり、でも記憶喪失であることがわかって…という展開。

関係者が全員集合して、彼の記憶に迫っていく。

そのために、「映画」が重要な役割を果たしていく。一気に「映画についての映画」の様相になっていきます。

 

本作のテーマは、「記憶と映画」ですね。

映画は、ある時間を記録して後々にまで残すものだから、「映画は記憶を封印した装置」であると言える。

「ミツバチのささやき」や「エル・スール」は、その映画の舞台となっている40年代や50年代の「記憶」であるし。

同時に、それらの映画が撮影された70年代や80年代の「記憶」でもある。

作り手や出演者にとっては当然、その当時の記憶を強く呼び覚ますものだろうし。

我々観客にとっても、映画は常にそれを観た時の記憶と共にあることになります。

 

そして、人生というのはたくさんの記憶が積み重なったもの。記憶の集積が人生です。

記憶を失うというのは、人生を失うのと同じことです。

映画を観ることで、フリオは記憶を取り戻す…失った人生を取り戻すことにつながっていく。

⑤そして「瞳をとじる」

映画を「観る」ことが自分自身の記憶にアクセスするためのゲートになっているのだけど、でもいよいよ記憶を「思い出す」時には、「目を閉じる」のですよね。

見るのでなく、目を閉じる。

映画を観ることで見開かれた目を、そのまま自分の内側に向ける。

そうすることで、思い出す。

 

フリオの娘のアナが父親に会って、目を閉じ、「私はアナよ」と呼びかける。

これは「ミツバチのささやき」の50年ぶりの再現で、それだけでも実にエモーショナルなシーンなのだけど。

「ミツバチのささやき」では、これは「目に見えない精霊に話しかける方法」でした。

本作では、「姿よりも声からより強く父を感じる」というアナの記憶に基づく行動でありつつ、同時にアナが自分の中の父の記憶にアクセスする行動になっている。

 

これ、素晴らしいなと思うのは、「ミツバチのささやき」を踏まえた本作の重要なシーンでありつつ、同時に「ミツバチのささやき」の謎解きをするものにもなっているんですよね。

少女が目を閉じて精霊に呼びかけていたというのは、あれは自分自身の中の何者かに呼びかけていたのだ…ということ。

精霊は自分の外ではなく、自分の内に存在していた。

そういう気づきも、もたらすものになっている。50年を経て2つの映画がつながる。

 

このアナのシーンを経て、最後にフリオが目を閉じる。それだけで、フリオが自身の記憶にアクセスできたことが伝わる。

記憶を喚起する映画の力を伝えつつ、でも最後には目を閉じて映画を観ない。自分自身の記憶という、映画より素晴らしいものに気づく。

だから単純な映画称賛じゃなく、「映画より素晴らしいものがある」「それは一人一人の記憶、人生である」ということに導いている。

さすが。見事な着地点だと思いました!