悪は存在しない(2024 日本)

監督/脚本:濱口竜介

企画:濱口竜介、石橋英子

プロデューサー:高田聡

エグゼクティブプロデューサー:原田将、徳山勝巳

撮影:北川喜雄

編集:濱口竜介、山崎梓

音楽:石橋英子

出演:大美賀均、西川玲、小坂竜士、渋谷采郁、菊池葉月、三浦博之、鳥井雄人、山村崇子、長尾卓磨、宮田佳典、田村泰二郎

①多面体のような映画

自然豊かな長野県水挽町で娘・花(西川玲)と共に暮らす巧(大美賀均)。東京の芸能事務所がグランピング場を建設する計画が持ち上がり、住民への説明会が開かれます。高橋(小坂竜士)黛(渋谷采郁)が説明のためにやって来ますが、話し合いは紛糾。二人は巧に協力を求めます…。

 

「ドライブ・マイ・カー」アカデミー国際長編映画賞とカンヌ国際映画祭脚本賞を受賞した濱口竜介監督

「偶然と想像」でベルリン国際映画祭銀熊賞、本作でベネチア国際映画祭銀獅子賞を受賞と、すっかり国際舞台での評価が定着した感があります。

確かに、本作も非常にヨーロッパ映画っぽい肌触りの作品です。

 

タイトルはモロにゴダールっぽいですが。(音楽がぶつ切りになる編集もとてもゴダールっぽい)

森の映像はセリーヌ・シアマ監督の「秘密の森の、その向こう」やクリスティアン・ムンジウ監督の「ヨーロッパ新世紀」を想起させます。

長い説明会のシーンや、社会問題をめぐるシリアスなドラマを淡々と展開しながら最後に唐突に幻想にスライドする点など、「ヨーロッパ新世紀」とはとてもよく似ています。

 

本作は「ドライブ・マイ・カー」でも音楽を手がけた石橋英子のライブパフォーマンス用の映像という企画からスタートしていて、非常に音楽と強くシンクロした、これまで以上に感覚的な映像になっています。

その点で、アンビエントな「環境映画」「音楽映画」のようでもあり。

都市と地方の軋轢を扱った、社会派ドラマの側面もあり。

ユーモラスな人間ドラマのようでもあり、不条理なアートのようでもある。

ホラーとも、SFともとれるような瞬間もあるけれどそのどれでもなく、一種独特な、濱口竜介監督の映画としか言えないものになっていると思います。

②現代の縮図のような「説明会」の不毛

序盤から中盤に入っていく辺りに置かれた「説明会」のシーン。

この場面のリアルな「やな感じ」が、本作の一つの核心になっています。

昔から変わらない「内と外」「田舎と都会」「民衆と行政」の対立の構図であり、そのどうにもならない不毛さ(そこに参加している当人たちも、全員「不毛だ」と理解しながらそこにいるしかない不毛さ)が、見事に現代の日本の姿の象徴になっている…という。

 

清涼な湧き水を誇る田舎の町に、東京の会社が「グランピング施設」を作る計画を立ち上げる。

そのための「地元民への説明会」が開かれる。そこで問題が次々と浮上し、住民による大糾弾会となる…

…という、たぶんよくある構図なんでしょうねこういうの。

 

この会合を不毛なものにしている問題点は3つ。

1つは、この会合に出席している人の誰一人、話題の中心となるはずのグランピングというものに、興味もなければ関心もない…ということ。

住民はともかく、本来ならグランピングの素晴らしさをプレゼンして納得させなくちゃならないはずの説明する側も、関心がない。彼らはそもそも、芸能会社の社員なので。

高橋も黛も、グランピングなんてやったこともないんじゃないか。

 

芸能事務所である彼らの会社が、グランピング施設の経営なんていう畑違いの分野に乗り出したのは、補助金を得るため。

コロナ禍で減った仕事を補うために、経営コンサル会社に金を払って助言を受けて、「こうすれば補助金を申請して通すことができる」という計画に乗っかったに過ぎない。

それがグランピング施設だったのは、単にたまたま「今流行ってる」からというだけ。

だから、推進しようとする側も、誰もグランピングそのものには興味も関心も元からない。説明しにきた高橋と黛だけでなく、責任者である社長にも、発案者であるコンサルにも、ない。

住民は元よりないからね。「グランピングは素晴らしい、だからグランピング施設を作ろう!」と思ってる人が誰もいないのに、なぜか作ることだけは決まっていて、皆がその周囲を不満げに取り巻いているという、既にそこから不毛な状況です。

 

2つ目は、この計画は結論が決まっていて変更はできない、ということ。

彼らは既に所定の手続きに従って計画の申請や認可を進めていて、土地は入手してるし、補助金も降りている。今更それをなかったことにはできない。

住民の要望を聞いて計画変更したら予算を超過する。そもそも彼らは「優れたグランピング施設」を作りたい訳じゃなく、補助金で利益を得たいだけなのだから、予算を超えたら意味がない。だから、変更もできない。

住民への説明会は、最初から「説明しましたよ」というアリバイ作りでしかない。

 

そして3つ目として、会合に出席している全員が、上の2つのことをあらかじめ分かっている…ということ。

だから住民側は最初から敵意を持って臨むことになるし、会社側も「意見を聞いた」という実績だけ得たら、とりあえずこの場をうやむやにして乗り切ることしか考えてない。

会社の命令でそんな仕事をやらされてる高橋と黛も、すすんで悪役になりたい訳じゃないのでね。もう、ここにいることが嫌でしかない。

そこにいる誰もが嫌でしかないのに、通り一遍のことをやらなきゃならないという、本当に不毛な時間である訳です。

 

本当に、今の日本における物事の決定というものは、何もかもこんなふうになっているなあ…と思うのです。

進める側も、進める内容に実は興味も関心もない。誰かがその過程で儲けることのできるシステムががっちり出来上がっていて、ただその通りに進めるだけ。

でも、進めていけば現実的な問題にいろいろと直面することになる。問題が誰の目にも明らかでも、「いろんな人が連鎖的に儲けを得るシステム」は後から変更が効かないので、問題の方を見て見ぬふりするしかない。

かくして、誰もが問題があると分かっているのに、知らん顔して破滅へ向かって突き進む地獄行きの一方通行が出来上がる。

実は誰も望んでいないのに、何だったらそこにいる人全員が内心では「やめればいいのに」とか思ってそうなのに、なぜかやめられず、誰もが不幸になっていく。

オリンピックなんて、まさしくコレでしたよね。

③バランスを取ることができない世界

会合の中で巧が「結局、大事なのはバランスを取ること」だという発言をするのだけれど。

この構造によって何が損なわれているかと言えば、「バランスを取ることができない」ということなんですよね。

ちょっとこのままだと水質汚染が起きそうだな…だったら、汚水を流す場所や量を調整してやろう…というような、物事を進めていくために普通に必要になってくる「バランスを取る」という作業。

それができない。あらかじめ決められたことは動かせないから。

「それは僕の独断ではなんとも…」「持ち帰って検討します」というやつですね。

持ち帰る先も結局は同じでしかなくて、誰も「バランスを取る」という当たり前のことができなくなっている。

 

なんだかまるで、何か巨大なビッグブラザーのような独裁者がいて、誰もがその奴隷になってしまっているかのような。そんなモノは、存在しないのだけど。

本作におけるビッグブラザーに当たるのは、現地を度外視して先に手続きを終えなければならない補助金システムとか、住民との対話抜きで計画を認可できてしまう行政のあり方とか、そういうものになるのでしょうね。

その一つ一つは、別に誰かの悪意でそうなっている訳でもない。その点で、確かに悪は存在しない。

でもそれによって、皆が消耗し、イライラし、そして自然は取り返しのつかない損傷を受けていく。

 

バランスと言えば、住民たちの視点で説明会を描いた後、高橋と黛の視点で彼らの内面を描いていって、観ている我々の感情移入もバランスが取られていく。そこも上手いですね。

車の中での、高橋と黛の長いリラックスした会話シーン。笑わせて、対立の緊張感を緩和すると共に、あんなに不快だった「グランピング側」の立場にも立たせてしまう。

弱者であるように見えた黛が意外としたたかで、高橋は実は打たれ弱くて「グランピング場の管理人になろうかなあ」とか言い出す。

それにしても、グランピング場は予定通り完成する前提、会社も辞めない前提で、身勝手な話なんですけどね。

 

高橋が「自分にも薪割りをやらせてくれ」とか言って、巧もそれを受け入れる。

蕎麦を食って、一緒に水汲みをして、互いに理解し合い、歩み寄っていく…

…というような、ハートフルなドラマみたいな構図になりそうにも見えるのだけど。

でも、実際のところ、グランピング場をめぐる問題は何一つ解決していない

「浄化槽の移動」は予算的に無理。

「24時間常駐の管理人」を置くなら、人員削減が条件になる。

それに「鹿の通り道」の問題もですね。「鹿はどっか行くんじゃないですか?」というのは解決じゃなくただ「気にしない」を選んでるだけで、その他の水や管理人の問題も実は初めから、「気にしない」を選ぶという選択肢しかない

 

だから、物語が終盤に転調する前の「ちょっと和やかなムード」の場面においても、物事は実は何一つ好転していなくて。

むしろ、「解決などない」ということが明確になってるくらいなんですよね。その意味で、ラストシーンの「断絶」は必然的でもあるのです。

④ラストシーンの個人的解釈

ラストシーンで訪れる唐突な暴力

行方不明になった花を、森の中で見つけた巧と高橋。

巧は高橋を絞め落とし(殺し?)、花を抱き上げて、森の中をただ歩いていく。

謎めいた、開かれたラストシーン。解釈は観た人の数だけありそうです。

 

巧が見た、傷ついた鹿と対峙する花の映像はおそらく幻視でしょうね。実際に見たのはただ倒れている花で、「何が起きたのか」を巧が思い浮かべた、ということ。

傷を負った鹿は、反撃することがある。鹿を助けようと近づいた花は不意の反撃を受け、倒れて頭を打った…ということでしょう。

そうして、倒れている花を巧は見た。まだ、生きているか死んでいるか分からない。生死は確定していない。そういう状況。

そこで、花を救うために何ができるか、巧はとっさに考えた。

その結果が、あの行動だったのでしょう。

 

僕が思ったのは、巧はバランスを取ろうとしたのではないか…ということでした。

ここに、自分以外に二人の人間がいる。花と、高橋。

状況から、そのうちのどちらかは死んでいる可能性が高い。

花は死に、高橋は生きている。そういうバランスに、なってしまいそう。

ならば、高橋を死なせれば、花は生きていることになるんじゃないか。

だって、自然界にはバランスが存在するのだから。

 

まったく理不尽な、理屈も何もない異常な発想だと思うけれど。

でも、(実際にそういうことが起きるのかはさておき)、巧があの瞬間にとっさにそう感じ、感じるままに行動する。そういうことはあるんじゃないか…という気がしました。

あの瞬間、花の生死は「未確定」で、巧は花を救うためにできることは何だってするだろうから。

 

花を生かしたいから、高橋を死なせる。だって、巧にとって花は大事で、高橋はまったく大事じゃないから。

身勝手な話です。ですが、この映画の中でずっと描かれてきたのは、そういうことなのですよね。

清涼な水で作ったうどんを売り物にしているうどん屋にとっては、グランピング場が建設されることよりも、水が汚されないことが大事。

芸能事務所にとっては、汚水が少々地下水に混じったって大した違いはなくて、グランピング場の方が大事。

 

農家にとっては、鹿の命よりも駆除の方が大事。

鹿にとっては、自分や子鹿の命を守ることが何より大事。

その違いは、正義と悪なんかではない。ただ、どっちの立場から見るかの違いでしかない。

「バランスを取る」と言うと聞こえはいいけど、誰かが得をするとしたら、その分誰かは必ず損をする。それが「バランス」ということだから。

元より、「バランス」は残酷なものなんですよね。巧の最後の行動は、それを象徴するものだったとも思えます。

⑤自然の中に、悪は存在しない

本作の構造は、自然と共に生きる田舎=善、自分勝手に生きる都会=悪、というよくある構図に、いかにも当てはまりそうなのだけど。

「悪は存在しない」というタイトルで、あらかじめそれは否定されています。

 

説明会で巧が、ここは開拓村だったのでみんな元を辿れば移民であり、全員よそ者なのだと言っていました。

住民自身もよそからやって来て、自然を壊して生きてきた。だから同じなのだ…と。

清涼な湧き水と陸山葵で美味しいうどんを作る人。森で拾った山鳥の羽根でチェンバロの弦を作る人。

地元民にしても、「田舎」や「自然」に何らかの幻想を抱いて、それを都合よく利用して生きている。

そういえば、あんなに苦労して運んでいるあの湧き水は、実際に東京の水とどれくらい違うものなんでしょうね。

 

自然が大事と言うけれど、増えすぎた鹿は銃で撃つ。

チェーンソーで木を切るのだって、斧で薪にするのだって、自然破壊には違いない。

いかにもいけすかない芸能事務所の社長やコンサルにしても、それぞれ自分の仕事をしているだけではありますね。

自然の側だって、ただ恩恵であるだけではない。棘のある植物は人に血を流させるし、傷ついた鹿は人を殺すことだってある。

田舎の人も都会の人も、動物も植物もみんなひっくるめて、そこには善も悪もなく、ただその時々で自身の生存のために行動しているに過ぎない。

それが「自然」である…と言えそうです。

 

だからこそ、バランスしかない…ということになる訳ですね。

肉食動物が草食動物を食い尽くさないように。草食動物が増え過ぎて草を食い尽くさないように。ほどほどに食ったり食われたりして、バランスを保っている。

人間も同じなのでしょう。本当は。

それが、現代の社会では狂ってしまっている。そのことを詩的に浮かび上がらせた寓話だったように感じました。

 

 

 

 

ブログ著者のホラー小説ですが、今回の僕の解釈は自分の書いた小説のテーマと通じるものになっています。図らずも…というべきなのか、当然のことなのか。

 

5月23日発売です。よろしくお願いします!