ドライブ・マイ・カー(2021 日本)
監督:濱口竜介
脚本:濱口竜介、大江崇允
原作:村上春樹
製作:山本晃久
撮影:四宮秀俊
音楽:石橋英子
出演:西島秀俊、三浦透子、霧島れいか、岡田将生、パク・ユリム、ジン・デヨン、ソニア・ユアン、安部聡子
①映画までの前置き
濱口竜介監督の作品は「寝ても覚めても」を観ています。
この映画、僕は苦手だったんですよ。レビューも微妙な書き方になってます。
言いたいことは伝わったし、映画の独特な雰囲気…不吉で、不気味な雰囲気も、決して嫌いではなかったんですが。
物語が、僕は駄目だった。
なんか、安易な偶然が多過ぎると思いました。
そこは寓話と受け止めて、気にしちゃいけないのかもしれないけど。
でも、あまりにも簡単に、物語を前に進めるために都合がいい偶然ばかりが連発されるので、観ていて白けちゃったんですよね…。
物語なんでね。原作の問題かもしれないな…とは、思ったのです。
で、今回。今度の原作は村上春樹です。
村上春樹の短編を元にした「バーニング劇場版」は面白かった。
村上春樹の小説にいつもある、無自覚に人を傷つける「優しさ」とか、それに気づかない「鈍感さ」と言ったものが巧みに抽出されていて、不気味な不条理ホラーのようになっている映画でした。
村上春樹の小説世界というのは、ホラーと親和性が高い…と感じます。不条理なホラーの世界。
そういえば、「寝ても覚めても」のレビューを僕はホラー映画として書いたのでした。うがった見方なのは、分かってるのだけど。
そうだとすると、濱口竜介監督の映画と、村上春樹の原作は相性がいいのかもしれない。
というわけで、期待と一抹の不安を抱きながら観に行ったのでした。ここまで前置きです。
②とりあえず感想!
舞台の演出家で俳優でもある家福(西島秀俊)は、テレビドラマの脚本家である妻の音(霧島れいか)と二人で暮らしていました。ある日、出張がキャンセルされて家に戻った家福は、音が若手俳優の高槻(岡田将生)と浮気している現場を目撃してしまいます。何も見なかった振りを装う家福。音は何かを話したい素振りを見せますが、家福の留守中に自宅で突然倒れ、死んでしまいます。
2年後。家福は演劇祭のため広島にやって来ます。滞在する家と稽古場の往復のため、女性ドライバーのみさき(三浦透子)が雇われます。演劇のオーディションで、家福は高槻に再会します…。
変な前置きから入ったので先に感想を書きますが、とても面白かったです。
すごく引き込まれました。179分という長尺ですが、長さを感じなかったです。
間延びする部分、不要だと感じる部分も全然なくて、まさしく必要な長さだと思いました。
前作で感じた不自然さを、感じなかったわけではないです。
でも今回それは、意図された不自然さだと感じました。
あえて不自然な、現実と不調和な世界が描かれている。
いかにもセリフじみた、リアル感のない演劇的な言葉遣いだったり。「セックスの後で物語を語る女」のような作り物めいたエピソード。
また、現実にあり得そうであっても、「他言語で上演される舞台」のような見た目に不自然を感じるシチュエーション。
でも、それらはあえて違和感を残して表現している印象で、前作に感じたような、物語上の都合良さや安易さは感じなかったです。
そう言った意図的な不自然をちょっとずつ積み重ねることで、世界と上手く対峙することができない主人公の感覚が…それが村上春樹作品が常に発している感覚ですが…絶妙に再現されていると感じました。
③夫婦の間のコミュニケーション
本作のメインテーマは、やはりコミュニケーションということになるのだろうと思います。
人と人とが、意思を伝達し合うということ。そして、分かり合ったり分かり合わなかったり、時には深く傷つけ合ったりすること。
家福と音は一見、仲のいい夫婦に見えます。というか映画の中で描かれる二人の様子は非常に親密で、怪しげな影などないように見えます。
家福は一人で車に乗っている時まで、ずっとカセットで妻の声を聴いているくらいですからね。どんなに妻のことが好きなんだという。
それだけに、家福は妻の浮気に戸惑い、上手に反応できなくなってしまいます。
怒って問い詰めることも、傷ついて泣くこともできず、何もなかったようにやり過ごしてしまう。
何だったら、「妻にはそれが必要なんだ。とやかく言うべきではないんだ」と「理解」さえしてしまう。
それは「優しさ」ではあるのだけれど、やはり感情としては「不自然」で、後々まで家福の中にわだかまりを残すことになります。
家福と音の間には、幼くして娘を失うという過去の傷があって、その結果子供を作ることを諦めたという事実があります。
それについても、二人はしっかり「話し合い」をしているし、互いに相手への思いやりを持って接してきています。
それでもなお、家福の中には、過去の傷が呪いのようになって音の人生を支配しているんじゃないか…という思いがあって。浮気の時に上手く反応できないのも、その思いが通底してあったからでしょう。
音の死によって、家福が音を理解することは永遠に不可能になってしまいます。
これも、一種の呪いですね。もっと分かり合うことが出来たんじゃないか…という漠然とした後悔は、その後の家福にずっとついて回り、家福と世界の間に暗い影を落とすことになります。
④言葉を解体する舞台
家福の主催する舞台はかなり特殊で、多国籍の演者が入り混じっています。
セリフはそれぞれの母国語で話され、観客は舞台上のスクリーンに表示された字幕で意味を読み取ることになります。
映画では、広島での「ワーニャ伯父さん」の上演に向けて、オーディションから脚本の読み合わせ、立ち稽古と、順を追って準備していく様子が丁寧に描かれます。
それ自体、演劇のできるまでという感じで興味深いのですが、最初からいろんな言語が飛び交う特殊な空間なので、非常にスリリング。目が離せないですね。
日本語、英語、中国語、韓国語、更に韓国手話まで加わって、まさにカオス。
互いに相手の言葉の意味が分からない状態で、セリフのやり取りを繰り返していく。
特に、家福は最初、感情を込めずにひたすら脚本を読ませるという手法を取ります。これは、濱口竜介監督が実際に行っている演出法らしいですが。
感情を込めず、相手の言葉の意味は分からない。演者はただ、音として言葉を記憶することを求められます。
対話しているのに、意味は通じていない。互いに相手の言葉をただ音として聞いて、自分の言葉を一方的に発している。
コミュニケーションを支えるのは本来は言葉であるはずだけど、本作ではそれが解体されていくんですね。
言葉とコミュニケーションとの関係が、分離されていく。
それでも不思議と、練習が進んでいって感情を込めた立ち稽古になってくると、異言語の会話を通して、互いの心が通じているように見える瞬間が、現れてきます。
特に、パク・ユリム演じるユナの韓国手話が、いいですね。手話の意味なんて分からないのに、心の中が見えるような気がする。
言葉による対話を一旦解体することで、言葉に頼らない形の表現を役者から引き出す…というのが、家福の(そして濱口監督の)演出手法であるようです。
この流れは原作にはない、映画独自のものです。
しかし、言葉によるコミュニケーションの解体と、言葉によらないコミュニケーションの可能性を示してみせるこのシチュエーションは、原作のテーマに驚くほど上手く馴染んでいます。
言葉によらず通じる何かがある…という、それこそ言葉で語っても上手く通じない物事について、映像で納得させることができるんですよね。映画ならではの、上手いアレンジだと思います。
⑤高槻という男の目的は
岡田将生演じる高槻の立ち位置は、原作と映画で大きく違っています。
原作では彼ははっきりと音の浮気相手で、家福は自分の方から高槻に近づいていきます。
家福は最初、妻と寝たことへの復讐として、高槻を何らかのスキャンダルに巻き込んで、失敗させることを考えていました。しかし何度か一緒に飲んで音の話をするうちに、その気をなくしてしまいます。
映画では、家福からではなく、高槻の方から近づいてきます。飲みに誘うのも高槻の側からです。
そう言えば、映画では音の浮気相手が高槻であることも、明確にされてはいませんでした。わずかに見えた姿と、家福の反応の様子から、浮気相手が高槻であること、そして家福がそれを知っていることは確かだろうと思えるのですが、完全にそうだとは描かれていません。
高槻がオーディションに応募してきた真意、家福が(妻の浮気相手と知りながら)彼を主役に抜擢する真意も、映画でははっきりと示されません。
だから、深読みができる。映画ではいろんな解釈の余地ができてきます。
映画では、高槻を主役に抜擢することこそが、家福の復讐であるように見えます。
高槻は人気だけが先行した若手として描かれています。俳優としての彼の実力は明らかに他のキャストより劣っていて、彼は劣等感に直面することになります。
しかし一方で、家福は高槻の訓練に辛抱強く付き合い、彼の俳優としての成長を手助けしてもいます。
家福と高槻は音の思い出について話しますが、家福は決して、高槻が音と浮気したことを口に出して責めようとはしません。
観ていると、やがて高槻は内心では、家福に責められることを求めているのではないかという気がしてきます。
高槻は衝動を抑えられない人物として描かれます。彼は共演する女優と関係を持ち、盗み撮りをした若者に暴力を振るってしまいます。
高槻は結局、暴力事件によって舞台を降板してしまうのですが、それはまるで、原作において家福が最初に意図した復讐計画のようです。映画では、家福は高槻をスキャンダルに巻き込もうとするなんて意図は一切表していないのですが。
暴力事件を起こしてしまった後の車の中で、高槻は家福が語った音の「セックスの後に語る物語」の続きを知っていると言い出し、家福に語ります。
これは、高槻が音と寝たことを告白してるのと一緒ですね。音はセックスの後にしか物語を語らないのだから。
また、物語の結末…空き巣に入った女子高生が別の空き巣を殺してしまったけれど隠蔽され、自分が犯人だと叫ぶ…というのも、自分の罪をきちんと罰してくれと訴えているようです。
映画では、高槻は自分から家福に罪を告白し、自分からスキャンダルを起こして去っていく。あたかも家福の望む復讐を自ら行なったかのように見えます。
それは、彼が音を本気で愛していて、本気で贖罪意識を持っていたからなのか。
実際のところは、言葉では語られない。コミュニケーションの真意は想像に委ねられることになります。
⑥みさきのドライブ・マイ・カー
物語のタイトルである「ドライブ・マイ・カー」はビートルズの曲名から。
Baby you can drive my car
Yes I’m gonna be a star
Baby you can drive my car
And maybe I’ll love you
ベイビー、私の車を運転してもいいわよ
だって私はじきにスターになるからね
ベイビー、私の車を運転してよ
そしたらたぶんあなたを愛してあげるから
drive my carは性的な意味の隠語でもあるそうで。そうでなくても、いかにもセクシーな意味も読み取れますね。
ダブルミーニングを含めた中期ビートルズらしいラブソングです。
家福の愛車である赤いサーブ900ターボは、本作のもう一人の主人公のようです。全編に渡って、赤い車がひた走る様子が繰り返し描かれていきます。
前半は、家福が自分でこの車を走らせます。
家福は最初、他人に自分の車を運転させることを嫌がっていますが、みさきの運転が確かなことから、すぐに彼女の運転を受け入れていきます。
自分の車を他人に運転させるのが嫌…という気持ちは分かります。僕も好きじゃないです。
何だか、自分の領域を侵食されるような気がするんですよね。
他人の車に乗客として乗る分には、別に何も気にならないのだけど。
ビートルズの歌でも、女の子が男に心を(体も?)許すダブルミーニングになってるように、「愛車の運転を任せる」というのは、他人に心を開くことのメタファーなんですね。
だから、本作の主題はまさに、家福がみさきに心を開いていくことにあるのだと思います。
みさき自身、母親に関わる幼少期のトラウマを持っていて、彼女の丁寧な運転は不幸な生い立ちによって育まれたものでもあります。
家福がみさきに心を開くことによって、みさきも家福に心を開き、彼女が自分自身の過去と向き合うことにつながっていく。
そして、そこに同行することで、家福も避けていた自分自身の過去と向き合うことができるようになっていく。
そんな、言葉によらないコミュニケーション。
「自分の車を運転させるというコミュニケーション」のような…ですね。
言葉によらない、人と人とが分かり合う形が示されて、本作の締めくくりは希望に向かうものになっています。
映画のラストシーンは、みんながマスクをしているコロナ禍を思わせる状況の中、韓国で赤い車を走らせるみさきの様子が描かれます。
これがどういう状況なのか、説明は一切されないのだけど、家福の車を運転しているので、彼女が引き続き家福の運転手を続けていることが分かります。
みさきは一人でスーパーに来て買い物しているので、ただの運転手というよりもっと近い関係になっているのかもしれません。
いずれにせよ、彼女の表情は柔和で、明るく前向きな日々を送っていることを思わせます。
これはもちろん映画オリジナルの結末ですが、村上春樹の小説ではあまり描かれないタイプの開かれた結末ですね。
村上春樹の小説世界では、主人公は自分自身の閉じた世界から出ていくことが結局出来ず、閉塞感の中で堂々巡りをするような状況で終わることが多いです。
閉じた世界で、過去に囚われながらぐるぐると回り続けるような村上春樹的閉じた世界から脱出して、別の場所、別の状況で、新しい何かをスタートさせる。
日本でなく外国にいるというのは、その象徴ですね。
原作のテーマをしっかりと消化してその先へ進める、映画ならではの意欲的な結末になっていたと思います。