これは「ボーはおそれている」のネタバレ考察記事です。最後までネタバレしています。ご注意お願いします。

いろいろ書いてますが、すべて独自解釈です。ご了承願います。

時系列に沿って書いていくので、まずは冒頭部分から…になります。

映画全体のレビューはこちらをご覧ください。

MW社のロゴ

冒頭、製作会社のロゴ。

A24、アクセス・エンターテイメントの次に「mw®️」というロゴが現れます。その次はスクエア・ピッグ(アリ・アスターの会社)。

これは劇中に登場するボーのママ、モナ・ワッサーマンの会社「MW社」ですね。

劇中の様々なところに登場してボーの人生を支配しているMW社が、この映画そのものも支配している…ということですね。

 

と、ボーは思っている、ということ。

という但し書きを、この先も何度もつけていくと思います。本作は完全にボーの主観視点になっていて、映画の中に描かれるすべての出来事は「ボーにとってそんなふうに感じられている世界」のいわば実写化です。

なので、MW社がすべてを支配しているというのもボーの思い込みであり、オープニングのロゴはその象徴ということになります。

本作におけるすべての事象はコレです。この先、但し書きをつけたりつけなかったり…となると思いますが、基本的にすべてそういうものとして受け取っていただければと思います。

 

ちなみに「ボーはおそれている」のスチール写真のクレジットは”Mommy knows best LLC”とあって、これも意味深ではあります。

トラウマに満ちた誕生

闇の中に心音。耳障りなノイズ。そして苦痛に喘ぐママの悲鳴。

これはボーの誕生。祝福されるべき瞬間ですが、まるでホラー映画のようです。

不安と恐怖、怒りと非難に取りまかれた誕生。これはもう、呪いですね。

外の世界の恐怖は、ボーが生まれた瞬間から始まっている。

 

「ユダヤ人のロード・オブ・ザ・リング」という言葉に倣うなら、この始まりは旧約聖書の「天地創造」ですね。

最初には闇があり、まず神は天地(つまり重力。上と下)を創造する。羊水の中で上も下もない状態から、外に出て上下のある世界に。(「赤ちゃんを落とした!」

「光あれ」で光が生まれ、赤ん坊は不安と恐怖に満ちた光の中へと取り出される…。

セラピー

ボーのセラピーは月曜日。この日は2022年7月11日の月曜日です。

セラピストの待合室で、水槽の魚に餌をやるボー。

これはボーのセラピー前の習慣で、ここに来る前に彼は公園の池のアヒルに餌をやっている…ということが後で指摘されています。

動物を愛する心優しいボー。しかしそれは偽善であり、人間への博愛には目を背けていることが後に糾弾されることになります。

 

うがい薬を飲んでしまって、胃がんにならないか心配するボー。

病気への恐怖は、ママに過保護に育てられたボーに染み付いた性癖ですね。

外に出たら病気になるという恐怖で子供を支配下に置くのは、「千と千尋」の坊と湯婆婆の関係を思い起こします。ボーと坊…。

 

このセラピーの短い時間にも、何度もママから着信があります。

ということは普段からママの干渉は多大なものがあると思われ、ボーはずっとママに監視されているように感じているでしょう。

「有罪」をめぐる葛藤

明日、父の命日の記念日に、ママに会いに行くことになっているボー。

ボーは帰るのは久しぶり、数ヶ月ぶりだと話します。

これほどに干渉があるのに長いこと帰っていない。ボーは明らかに、母親に会いたいと思っていない。帰るのを嫌がっている。

ボーは表面的には「ママを愛している」と言うし、自分でもそう信じようとしてるのだけど、実際のところではママから逃れたいと思っているんですね。

…でも、そのことを自分で認めることはできない。自分はママを愛するべきで、逃げたいと思うなんて裏切りだと感じているから。

このアンビバレントが、ボーの精神に混乱をもたらす元凶ですね。

 

セラピストは「罪悪感を感じるか?」とボーに聞き、メモに「有罪(Guilty)」と書き留めます。

この言葉「Guilty」が、ボーの自己規定の象徴であり、至るところでボーにつきまとうことになります。

「お母さんの死を望むか?」とセラピスト。ボーは否定しますが、カウンセラーは「おかしなことではない」と言います。

 

ここで周到なのは、ボーはセラピストの誘導尋問で心にもないことを言わされたという体裁になっていること。

あくまでも、本心ではない、本心ではママを愛している…と言い張るような建前になっている。

後にボーはこの件でママに断罪されることになる訳ですが、どこまでも「有罪になりたくない」ということがボーの基本原理なんですね。

ボーと「水」

セラピストはボーに新しい薬(安定剤)を処方します。

大事なのは「必ず水と一緒に飲むこと」

 

本作では、水が印象的なモチーフとしてあちこちに登場しています。

ボーとママのファミリーネームはワッサーマン(Wassermann)ですが、Wasserはドイツ語で水の意味。

ワッサーマン家の故郷「Wasserton」は水の街になります。

 

水槽プールなどのモチーフがあちこちに登場しています。

ボーが繰り返し見る少年期の悪夢は風呂の夢。

アパートでもっとも怖い出来事が起きるのも風呂です。

少年期の思い出は海を行く船の上で、劇中劇では家族が洪水で流され、そして最後の裁きも海に浮かぶボートの上で下されます。

 

古代ギリシャの哲学によれば、水は四大元素のうちで最初のもので、万物の母と呼ばれる存在です。ここにも母が。

水は生命の源であり、浄化や再生の手段でもあります。キリスト教の洗礼は水に浸かることで行われます。

水を母の象徴とするなら、薬を「必ず水と共に」飲むことが強迫観念になるのは、母と離れないこと、母と共にあることがボーの強迫観念になっていることに繋がります。

予告する風景

セラピーの後、街を歩くボーを横から捉えたカットでは、映画の今後の展開が多数登場しています。

子供を探すママ。

機関銃を撃つ男。

ボートで遊ぶ少女。ママに連れて行かれて、ボートは転覆する。

映画のラストまで、ここで既に予告されていますね。

 

「ミッドサマー」でも、冒頭の絵で映画のストーリーがラストまで全部予告されていました。

途中のタペストリーや壁画などにも、映画の中で起こることが描かれていて先に見せてくれた。

残酷な運命は、最初から決定されていて動かせない。それがアリ・アスター作品に共通する冷徹な前提です。

 

ママへのおみやげに、子を抱くマリア像を買ったボーは、ビルから飛び降りようとしている男に気付きます。野次馬たちは楽しそうに撮影していて、「奴を飛び降りさせるんだ」と言います。

これも、ラストシーンの予告であるとも取れます。ボーは大勢の観客たちに見守られながら断罪され、「死刑を宣告」されることになるわけだから。

そう考えると、ラストでボーに起こったことは実際は自殺である…とも受け取れます。

世紀末通り

自宅に戻ってきたボーですが、家の周りはまるで無法地帯

道路には死体が転がり、あちこちで暴力が横行していて、悲鳴や怒号が飛び交い、ヤク中や怪しげな犯罪者がうろうろしています。

 

いくらアメリカでも、こんなマッドマックスか北斗の拳みたいな黙示録的世紀末状況というのはあり得ないので。

これはまさにボーの心象風景。「外の世界は危険に満ちた怖いものである」と固く信じるボーにとって、世界はこれほどまでに恐ろしいものに見えている…という、比喩の世界であるということになります。

 

そして、このシークエンスは映画全体の見方についてのガイドになっています。

「映画に映し出されている風景は、『ボーにとってどう感じられているか』を可視化したものであって、見たままの風景ではない」ということですね。

ボーのアパートを舞台とする第1パートは、このことを強く念押しするような内容になっています。存在しない音にキレる隣人、まったく言葉が通じない掃除人や管理人や警官、部屋に侵入してくる群衆、そして極め付けは「風呂の天井に張り付く男」など。

次々と示される現実離れしたビジョンの数々によって、映画の観客は「この映画の見方」を学ぶことができます。親切なんですね、アリ・アスター。

 

また、この「見方」はもちろん第1パートだけではなく、それ以降のパートにも適用されるはずです。

従って、「ロジャーの家」パート、「森の孤児」パート、「母の家」パートのそれぞれも、現実そのままの描写ではない…第1パートの描写と同程度に、現実と異なった描写である…ということになります。

これ、後半になるほどになんとなく忘れがちになるんですよね。ママを中心にしたMW社の陰謀論的世界観を、そのまま受け取ってしまいそうになる。たぶん、「真相はこうだった」という感じで示されるからだと思うのですが。

第1パートの見方を引き継ぐなら、世界がママに支配され、ママの会社の社員たちがボーを罠にはめているという「真相」も、見た目通りの真実ではない

「ボーにとっては世界はそうである」というものに過ぎない、ということになります。

好色の館

ポルノショップ「好色の館」が入居している建物が、ボーが暮らすアパートです。

ロビーの壁は下品な落書きで埋め尽くされています。下品にも程がある落書きばっかりなのだけど、よく見ると「ペニス」に関する落書きばかりであることに気付きます。

なんか、男子小学生が描くような。セックスとか女性に関する落書きはなくて、そのものズバリのモノばっかり描いてある。

 

これも、「落書きがボーの精神の反映だから」ですね。

持病の「精巣上体炎」から、クライマックスの「屋根裏にいたもの」に至るまで、本作にはペニスのモチーフが頻出しているのですが。

ボーは童貞なので、そもそも女性もセックスも知らない。シモ関係の下品な絵で想像できるのは、自分も持ってるアレしかない…というのがシンプルな原因と言えるでしょう。

男根期とエディプス・コンプレックス

フロイト心理学による性発達の区分によれば、3歳から6歳くらいの時期が「男根期」と呼ばれます。

自分の性器に関心を持ち、性差を自覚し、自己愛が発達する。母親に近親相姦願望を持ち、父親をライバル視して恐怖や敵意を感じるエディプス・コンプレックスが形成される。

この葛藤を克服することで次の発達段階に進んでいく訳ですが、父親が不在であったりでこの葛藤を克服できないと、母子一体化が解消できず、マザコンのような問題が起こってくる…とされています。

 

ボーはまさに、いまだに男根期にあって、そこから成長できていないという見方ができますね。頻出する「男根」はその象徴。

ドクイトグモ

アパートにはドクイトグモへの注意を呼びかける貼り紙が。

ドクイトグモ(BROWN RECLUSE SPIDER)は体長7-12mm、アメリカの亜熱帯地域を原産とするクモで、乾燥した暗い場所を好み、しばしば室内でも見られる。

とても強い毒を持ち、咬まれると周辺の組織が壊死したり、死亡例もある。…とのことです。

 

実際には攻撃的ではなく、死亡例は非常に稀であるようですが。

それでも心配症のボーにとって、そんな致命的な可能性のある存在が家の中にいるというのは、とんでもなく恐ろしい事態でしょうね。

ボーは当然、そいつは既に部屋の中にいて、どこかをうろついている…と固く信じ込んでいる訳です。

MW社の製品、パパの写真

303号室で、ボーは冷凍食品を電子レンジで温めて食べます。冷凍食品も電子レンジも、両方ともMW社のロゴがついています。

ボーの母モナ・ワッサーマンが創設したMW社は大企業で、その扱う商品はあらゆる分野に及ぶのですが、それにしても食品も電化製品も…というのは極端にも思えます。(グループ企業であるにせよ、社名やロゴは違ったりしそうなものです)

ボーがMW社の商品に囲まれて育ち、今もそれら商品をママからあてがわれているのは事実だと思いますが、それにしても劇中の描写は例によって誇張されていそうです。

 

食べながら、ボーは壁にかかったパパの写真を見ます。

何やら金槌を振るっているブレた写真で、パパの顔はピンボケしていて見えません。

ボーは受精と同時にパパを失っているので、パパの顔を知らない訳ですが、ママから与えられているパパの写真も、こんな顔のわからないものしかないようです。

というか、これはやっぱりわざとですね。ママはボーにパパの顔を認識させたくない。

パパの存在を認識させることで、ボーがママから離れていく(男根期を脱していく)のを避けるという、ママの無意識の作為があるのだろうと思われます。

誕生日の男

テレビでは「誕生日の男(バースデー・ボーイ)と名乗る全裸の殺人鬼」のニュースを流しています。この男は割礼された白人で、既に3人も殺しているそうです。

はちゃめちゃなニュースですね。全裸の男が3人も殺して、捕まらずに逃げおおせているなんてあり得ない話です。また「割礼されている」なんて特徴をニュースで言うのも変ですね。(そんな細かい特徴より、全裸ですぐにわかるだろ!)

 

なので、このニュースもやっぱり現実ではない。ボーの不安を具現化したものの一環です。

割礼はユダヤ教では信仰の一部なので、「割礼された男が殺人鬼」というニュースは、ユダヤ教がボーにとっての強迫的な恐怖になっていることも窺えます。

モナ・ワッサーマンがユダヤ教徒である直接的な描写はないのですが、埋葬に関する取り決めなどから、その可能性は高そうで、息子へのしつけにユダヤ的な戒律が絡んでいた可能性もあります。

 

この後、テレビで見たばかりの殺人鬼が実際に身近に現れてボーに襲いかかるのも、これが現実でないことを示していると言えます。

実は「誕生日の男」はボー自身であるとも取れるんですよね。全裸、割礼、誕生日、そして「3人殺している」などの特徴は、ボー自身に当てはまるとも取れるので!

それについてはまた後で触れます。

マリア像とエレインの思い出

ママへのおみやげのマリア像の裏に手紙を書くボー。

それにしても、ママへのおみやげが「赤ん坊を抱く慈愛に満ちた母親の像」ってどうなんですかね。母親が子供に贈るならわかるけど。

赤ん坊を抱く聖母の像は、ママの家の庭に巨大なやつがそびえていて、わざわざそのミニチュア版をプレゼントするというのも変な話です。

後で明かされる「誕生日に同じCDを贈った」というエピソードと同じで、これはボーのズレたところを示している…あるいはボーの無意識の母への嫌がらせなのかもしれません。

 

「父親の死の記念(アニバーサリー)」という言葉が何度も出てくるんだけど、この言葉遣いにもやや違和感を感じます。父親の死って、記念日にするようなもんなのかな…。

なんとなく父の死を喜んでる、それをママがボーに押し付けようとしているようなニュアンスを感じる。

またこの日は「ボーがこの世に生を受けた(受精した)日」でもあるわけで、それを「父の死記念日」と呼ぶというのもなんだか底意地が悪いものを感じます。

 

引き出しを開けたボーはエレインの写真に気づき、それを見ると一気に思い出が蘇ります。カモメの声…。

エレインはボーの「実現しなかった母親離れ」を象徴する女性です。

ただ、実現しなかったことでエレインという存在はボーにとって「もう一人の母親」になってしまっているようでもあります。ボーを呪縛する、もう一人のママです。

ステレオのボリューム問題

11時42分、ベッドに入るボー。窓の外からは、スラム街のごとき怒鳴り声や犬の声などが聞こえています。

1時5分、ドアの隙間からメモが差し込まれます。「音楽のボリュームを落とす」ことを礼儀正しく頼む手紙です。

隣人が入れたのでしょうが、しかしボーは音楽なんてかけていません。

2時43分、また手紙が差し込まれます。「我々は睡眠時間を奪われている!」

3時19分、3通目の手紙。「ボリュームを落としてくれと頼んだのに、お前は上げた!」

壁がドンドンされ、そして隣室から大ボリュームの音楽が鳴り響きます。

 

これも、何通りかの解釈ができます。

1:隣に精神を病んだ人が住んでいて、ありもしない騒音を聞いて怒っている。

2:実はボーは実際に騒音を立てていて、自分でそれに気づいていない。

3:隣からの手紙や壁ドン、大ボリュームの音楽はすべて、ボーの妄想である。そもそも隣人なんていないのかもしれない。

 

どれもあり得るのですが、たぶん正解は3じゃないかな…と思います。

手紙が差し込まれると同時にボーは目覚めて手紙に気づくのですが、その時にはほとんど音はしていません。ボーが目覚めなければ、手紙は意味をなさないことになります。「ボーが目覚めた瞬間に都合よく手紙が差し込まれている」ようにも見えます。

隣人は仕返しに大音量の音楽をかけますが、こんなことをしたらボー以外の住人が怒って文句を言うはずです。しかし誰も文句を言わなかったようで、音楽は翌日の午後まで続いています。

 

翌日(2022年7月12日火曜日。父の命日であり、そしてやがて母の命日になります)、午後3時​5​3分にボーは目覚め、ボーが目覚めると同時に音楽はやみます。

音楽が鳴ったから起きるならわかるけど、やんだから起きるというのは変な話です。むしろ、ボーが起きたので音楽が止まったように見えます。

また、夜中鳴り続けた音楽が朝になってやんだからようやく眠りにつけて、それで寝過ごしてしまった…というならわかるのですが、ボーは大音量の音楽の中でぐっすり(午後4時近くまで!)眠っていることになります。

それで眠れるなら夜だって眠れたはずで、寝過ごすのがおかしい。

 

という訳で、これはボーの妄想。

というか、「ママのところに行けない言い訳を言うための、出来の悪い作り話」ということになりますね。後にママに指摘される通りです。

「ママに電話で話した言い訳を、実写化したもの」という言い方もできますね。本作は全体が「ボーの言い訳の実写化」と言えるかもしれません。

鍵と荷物の盗難

ママの家へ行く飛行機に乗るために、ボーは大慌てで準備して、家を飛び出そうとします。

しかし大事なデンタルフロスを忘れたことに気づいて取りに戻り、その間に部屋の鍵と荷物を盗まれてしまいます。

 

という訳で、これも「言い訳の実写化」ですね。

「ママ、ごめん、今回はそっちに行けない…いや行きたくない訳じゃなくて、不可抗力なんだ。隣人の嫌がらせで眠れなくて寝過ごして、それで慌てていたらその間に、何者かに部屋の鍵と荷物を盗まれてしまったんだ。それは行けなくても仕方がないだろう…?」という、ヘタクソな言い訳の実写化

実際は単に、ママのところに行きたくないだけ。「この何ヶ月か帰ってない」のも、その都度にこんな言い訳を重ねてたんでしょうね。

無難な言い訳を言い尽くしてしまったから、どんどん言い訳が突飛なものになってしまう…という状況にあるのかもしれません。

 

本作は要するにこれ、「ボーはママに会いたくない」に尽きると思うのだけど。

でも、ボーは自分でそれを認められない。

「有罪」になりたくないから、自分はママを愛していて、心から会いたいと思っている、という体裁をどこまでも取り繕う。

そのために、ヘタクソな言い訳を​無理やり事実だと思い込もうとする。

普通はそこには無理があるのだけど、事実だと思い込むことに成功しちゃうのが、ボーの病理である訳です。

だから「実写化」と言いつつも、ボーにとってはそれは正真正銘の事実なんですね。

ママとの会話

ママに電話して、以上のような言い訳を伝えて、会いに行けないことを知らせるシーン。

ここが、この映画で唯一の「ボーとママとの(実際の)会話シーン」ですね。

47歳のボーをベイビーと呼ぶ、過保護なママ。

ボーは言い訳を述べるのだけどママは信じていないようで、口調は冷たくなり、怒りと失望が受話器越しに伝わります。

 

「ママに怒られること」はボーにとって最大の恐怖です。

怒られるのが怖いから、ママに会いに行きたくない。でもママに会いに行きたくないことがバレると、ママにもっと怒られる。そのジレンマ…。

電話を切った瞬間、それまでミュートされていたように​聞こえていなかった外の世界の暴力的な騒音が、スイッチを入れたように聞こえてくる。これも、外の世界の状況がボーの精神次第であることを示している訳ですが。

ママの冷ややかな怒りを感じて、ボーの世界はそれまで以上に恐ろしいものになっていく。そして「会いに行けない言い訳」もますます手の込んだ、異常なものになっていくのです。

 

「ネタバレ考察2」に続きます!

 

 

 

 

このブログ著者のホラー小説、5/23発売です。