怪物(2023 日本)

監督:是枝裕和

脚本:坂元裕二

音楽:坂本龍一

製作:市川南、依田巽、大多亮、潮田一、是枝裕和

撮影:近藤龍人

出演:安藤サクラ、永山瑛太、黒川想矢、柊木陽太、高畑充希、角田晃広、中村獅童、田中裕子

①映画のテンポが物語る大人と子供の「時間の違い」

本稿は最後までネタバレしています。ご注意お願いします。

 

どこから見るかによって世界は変わる。

同じ世界に生きていても、自分が見ているのと同じように、他者も見ているとは限らない。

同じ世界を生きてるようで、本当は人それぞれ、別々の世界を生きているんですよね。

 

本作は3部構成で、母親→先生→息子と視点を変えていくのだけど。

面白いのは、事実の見え方だけでなく、時間の流れ方もそれぞれ違っているところ。

映画のリズム、テンポの違いが、3人の生きる世界の違いをそのまま物語っています。

 

第1部、麦野早織(安藤サクラ)のパートは、すごくテンポが速い

必要最小限の描写ごとに、ぽんぽんとカットが移り変わっていきます。

それはやはり、クリーニング店の仕事で家計を支え、一人で小学生の息子を育てている早織の世界が、現実的なものごとで占められているから。

仕事、家事、息子の心配、運転、病院、クレーム、交渉。

現実的な雑事が、ぽんぽんぽんと連続していく。そんな日々。

忙しくて、ぼんやりと内省にふけっている暇なんてないんですよね。

 

第2部、保利先生(永山瑛太)のパートも、テンポは速いけど、早織のパートよりはややゆったりしているように感じます。

ただ、生きるため、大事な息子を守るために必要なことだけに集中している早織に比べて、保利の世界はやはりまだ気が散っている

先生になったばかりの保利の、大人ではあるけれどまだまだ未熟であるところが、映画の時間感覚にも表されています。

 

そして、第3部、湊 (黒川想矢)依里(柊木陽太)のパートに入ると、時間の流れはもう極端なくらいに、遅くなるのですね。

1日が長い。ゆったり、ゆっくりと時間が経っていく。

それも、どうでもいいことで。湊と依里が一緒に歩いたり、マンホールに耳をつけて音を聞いたり、ケンケンしたり、自転車に乗ったり、廃電車の中で遊んだり…そんな何でもないことで、時間が過ぎていく。

夜のトンネルに早織が迎えに来るという、早織パートではかなり早めに登場したシーンがずいぶん経ってからようやく現れて、時間の流れ方の違いにびっくりさせられます。

 

歳をとるごとに、時間は早く感じられる…って言いますよね。子供の頃には、夏休みなんて永遠に続くような気がしたのに。

大人になると、しょっちゅう「もうX月か」なんて言ってる。

 

そして、子供の頃の、あの贅沢な時間の流れ方

友達とどうでもいいことを言い合ったり、笑ったり、オリジナルのゲームをして遊んだり、そういうことが何かを生み出すわけでもない、ただダラダラ時間を浪費しているだけ…とも言えるんだけど。

でも、そんな時間は二度とない。大人になったら、もう永久に取り戻せない。

そんな、かけがえのない時間であるということ。

 

そういうの、一切言葉にはされないんですけどね。

何も語らずとも、映画を観ている時間感覚そのものから、伝わってくるのです。

 

②大人が忘れがちな子供の未熟さと、鋭い感受性

本作はもちろん、LGBTQの問題が大きなポイントになるのだけれど。

でもそれ以前に、この「大人と子供の世界の違い」が、全体を通すテーマになっているんじゃないかと思います。

大人と子供では、生きている世界が違う。流れる時間の速度さえ違うわけで。

 

いちばん基本的な話として、子供は未熟であって、大人と同じように物事を判断することはまだできない

当たり前なんだけど。未熟だから子供なのであって。

子供は間違う。正しくない判断をしちゃう。それはでも未熟さゆえであって、発達段階として仕方のないことである。

でも、大人はなぜかそれ、往々にして忘れがちなんですよね。

特に事態が込み入ってくると、子供に大人と同じ賢明さを暗に期待してしまう。

 

本作では、いろいろあって問題が大きくなって、マスコミで報道される規模にまでなって、保利先生が破滅する…ということにまでなるのだけど。

でも、実のところは何も起こっていないのですよね。

「湊の脳は豚の脳」って、別に誰に言われたわけでもない。湊が自分でそう思っただけなのだけど。

早織の誘導尋問(「誰に言われたの?」)によって、とりあえず保利先生を悪者にする嘘をついちゃう。本当のことは言えないから。

 

その場を取り繕うために、子供は嘘をつく

それは別に邪悪であるわけじゃなく、未熟であるから。子供ってそういうもので、大人もかつてはそうだった…はずなんだけど。

そんなことは忘れてしまってる。子供が未熟ゆえに間違ってるという可能性をすっかり忘れて、それが事実であるという前提で行動して、問題を大きくしてしまう。

 

そして、大人の視点では未熟である一方で、子供は大人にはわからない感受性を持っているものでもあります。

大人は誰も気づいていない「依里の家庭問題」を、湊は見抜いている。

依里が「ガールズバー」を燃やしたことも、湊だけが気づいている。

そんな感受性、敏感さを持っているからこそ、自分の中で起こっていく変化が気に掛かる。そして怖い、恐れる…ということになっていくのだと思います。

③心の中の変化を隠さざるを得ない、今のこの世界

現実的な「事件」は実のところ何も(ほとんど)起こっていないと言える本作で、大きなことが起こっているのは、湊の心の中です。

思春期の入り口にいる年齢の少年の中で起こる、突然の変化。それへの戸惑い。

一般的には第二次性徴ということになるんだろうけど。

でもそれは湊の場合、同性の依里への好きという感情という形でやってきて。

誰にも打ち明けられない悩みとして、湊を苦しめることになります。

 

誰にも言えないのは、それが普通ではないことだから。

クラスの男子たちは、依里と仲良くするだけで「キモ!」と言い放ち、「ラーブラブ!」と囃し立てる。

そりゃ言えないですよね。

 

まあ、僕の子供の頃と違って、現代では学校でも多様性への理解を促す教育はあるのだろうと思いますが。

それでも…小学生男子の感覚なんて、やっぱり今でもこんなものかもしれないですね。

それこそ、みんな子供なんだから。未熟なんだから。

大人でも理解しない人、嘲笑う人は大勢いるわけで、子供がそんな物分かり良くなるはずもない。

 

そして実際、劇中でも、子供たちの姿は大人社会の鏡像なんですよね。

テレビのバラエティ番組では「オネエタレント」が出て、「お肌モッチモチよ〜」などと「ギャグ」を言って、親も笑ってる。

そういうものは面白いもの、笑いの対象って大人がお手本見せているわけだから。

テレビで「ドッキリ」が放送されて、学校で子供たちがそれを真似て、いじめを「ドッキリだろ!」「リアクションうすっ」で済ませてしまう、という場面も繰り返し描かれていましたね。これじゃ、いじめがなくなるわけないですね。

 

湊のお母さんの早織も、保利先生も、特に差別的な人物というわけではなくて、ごく普通の偏見のない人物として描かれているのだけど。

それでも、テレビのオネエタレントで笑うし、「花の名前なんて知らない方が男の子はモテる」とかね。

保利先生も「それでも男かよ」とか「男らしく握手」とか、特に他意もなく自然と口をついて出てくる。

 

依里の父親(中村獅童)を除けば、意図的に差別をする人物はいなくて、みんな現代的な感覚を持った人々。早織も保利先生も、いざとなればきっと理解を示すことができる人たちなのだろうけれど。

それでも、現代の日本社会で普通に暮らしているだけで、湊はプレッシャーを受けてしまう。

今我々が生きている世界は、元からそういう世界であるのだ、ということ。

それがいかにしんどい、生きづらい世界なのか、当事者にならない限りは気づけないんですよね。

 

そのことを、理屈じゃなく、当事者でない観客も体感することができる。

その点で本作はなるほど「クィアパルム賞」だし、その意味でも非常に意味深い作品なのだと思います。

 

④伏見校長が「何もしない」理由

本作における謎の大方は、湊と依里の関係が明らかになると共に解けるのですが。

それでもなお残る不可解な部分が、伏見校長(田中裕子)の意図ですね。

この人はなぜ、あんなにもやる気のない態度をとったのか。

 

第1部を見ると、校長はとことん事なかれ主義で、特に調査をすることもせず、ただひたすら謝って早織の怒りを鎮め、この場をなあなあに収める…ということだけを意図しているように見えます。

早織がクレーマーのモンスターペアレントであるとの前提に立てば、この対応は一概に間違ってるとも言い切れないのかもしれません。

真実を追求しても、仕方がない。保利先生の暴力が事実でなかったとしても、それで早織が納得するとも思えないのだから。

 

最初に早織の説明を聞いて、児童同士でなく児童と教師の間の問題だと知って、校長は事実を追求しないことを決めたんじゃないでしょうか。

事実を追求した結果、教師の側が正しいとわかったら、児童が嘘をついていることになってしまう。それを暴き立てるくらいなら、教師を悪者にして謝らせる方がいい。そういう判断だったんじゃないかな。

 

ただ、この伏見校長自身、一筋縄ではいかない、矛盾を抱えた人物で。

夫が孫を誤って駐車場で轢き殺してしまった…という悲劇を経ているのだけど、でも本当は轢いたのは校長自身で、保身のために嘘をついて夫を身代わりにした…らしい。

学校を守る、つまりは児童を守るためだったのかもしれないけれど。

やはり同時に、保身のために嘘をついて罪を逃れていることは変わりはなくて、彼女は自分には人を裁いたり断罪したりする権利はないと考えているのかもしれない。

 

校長は夜ごと橋の上に立っている。火事の夜から、台風の夜までずっとですね。

これは孫を悼んでいるのと同時に、罪悪感による死への衝動と戦っているのかもしれません。

そしてこのおかげで、彼女は(彼女だけが)駅前ビル火災の原因が依里にあることを知ることになります。

 

校長が「何もしない」ことを早々に決めたのは、特にこの依里のことがあったから…じゃないでしょうか。

湊は依里と同じクラスだから、掘っていくとやがて、依里の重大な犯罪が明るみに出てしまうかもしれない。そうなったら、もう教師の不祥事どころの騒ぎでは済まない。

子供は間違うものだから。依里のような年齢の子供が世間に晒され、断罪されるようなことは絶対に避けなくてはならない。

「放火犯の隠匿」だから、一般的な倫理としてはまるっきり正しくないし、教育のセオリーとしても大いに逸脱していそうだけど。

でも、彼女はそうすることに決めたのでしょう。正しくなくても、そう決断することを引き受けた。

 

校長という人物をどう受け止め、どう評価するのか…というところが、本作でもっとも分かれるところかもしれません。

僕が思ったのは、大人であってもどこか子供っぽさを感じさせる登場人物が多い中で、彼女がもっとも「大人である」ということ。

誰かの価値判断に従うのではなく。テレビの真似をするのではなく、世間の風潮に流されるのではなく、ただやみくもに「法に従う」のでもなく。

自分自身の判断で自分の行動を決め、それに伴う結果は全部自分で引き受ける。そういう覚悟を、持っている。

それは、一般的な価値観に合わせない独善でもあり、狡さでもあるのだけど。

そういう批判も含めて、受け止めることを覚悟している。そういう人物であるように感じました。

⑤「銀河鉄道の夜」と怪物の正体

脚本を読んだ是枝監督は、キャストの子供たちに「銀河鉄道の夜」を読ませたとのことです。

緑の中の廃列車で展開される第3部の瑞々しさ、はかない美しさは、確かに宮沢賢治の刹那的なメルヘンの世界に通じるものがあります。

現世では得られない「本当の幸い」を求めて、列車で旅立つ子供たち。ジョバンニ(湊?)が母子家庭だったり、カムパネルラ(依里?)が父子家庭だったり…といった共通点もあるので、脚本段階から意図されたものなのだろうなと思います。

 

湊と依里が二人だけで遊ぶ廃列車は、「誰も知らない」における子供たちだけで暮らす「家」と同様ですね。

大人には見えない、誰も知らない子供だけの空間

本当は大人に守られないといけないはずなのに、守られていない。だから極めて危なっかしくて、いつ壊れるかわからない危うさに満ちている。

でも、だからこそ美しい。すぐに壊れてしまう刹那的な美しさがあります。

 

互いにヒントを出して絵を当てる「怪物だーれだ」の遊びが、二人の秘密の符牒になっていくのですが。

この遊びは、「何かわからないもの」を「怪物」と呼んで、でもヒントを考えて正体を言い当てることで、「それが怪物じゃなくなる」という構造になっています。

怪物とは「何かわからないもの」なんですね。

湊と依里は、自分たちの心の中にだけあって、家族や、クラスの他の子たちにはないように思える「何かわからないもの」の正体がわからない。

だから、自然と、二人は自分自身を「怪物」であると自認することになっていく。

「人と違うから、人前に出られない怪物」が森の奥の廃屋に隠れている。フランケンシュタインからつながる古典的なイメージです。

 

湊は母親に「豚の脳を移植された人は人間?」と聞きます。人間でも豚でもなければ、それは「何かわからないもの」「怪物」ですね。

早織は校長に「私の話してるのは人間?」と聞きます。対話を拒絶し、言葉が通じないように見える校長の態度は、早織には「何かわからないもの」「怪物」に見えます。

 

人は何かわからないものを「怪物」とみなし、恐れ、その裏返しとして迫害する。

要は「フランケンシュタイン」の昔から変わらない、普遍的な教訓なんですけどね。

ネットにあふれるLGBTQ界隈への攻撃的な物言いの数々を見ていても、全然そこから脱していない。むしろ激化している印象さえあります。

 

「銀河鉄道の夜」では「本当のさいわい」という言葉が出てきますが、映画では「幸せになれない」という湊に対して、伏見校長が「誰かにしか手に入らないものは幸せって言わない」と伝えます。

「しょうもないしょうもない。誰でも手に入るものを幸せって言うの」

「結婚して子供を作って、どこにでもある普通の家庭を築いて…」というものが幸せであるなら、それは湊には絶対に手に入らない。

だから、そんなものは幸せとは呼ばない

そんなものはしょうもない。目指さなくていい。

ただ、自分たちが思う幸せを目指せばいい

力強い言葉ですね。

 

父親に虐待された依里を救い出した湊は、台風の中、廃列車に向かいます。

ここで湊が依里を家に連れ帰り、お母さんに打ち明けて、助けを求めることができていたら…と思うけれど、でも湊にはその選択肢はなかった。

湊にとって、嘘をつかずに自分をさらけ出せる相手は依里だけであり、それができる場所は誰の目にも触れない廃列車しかなかった。

台風による土砂崩れで埋もれてしまう廃列車に二人を追いやったのは不幸な連鎖の果てで、直接的には誰が悪いというわけでもないのだけれど。

でもやはりそうさせたのは湊に「誰にも話せない」と思わせてしまう今の社会全体であって。

ここに来て、観ている我々が突きつけられるんですよね。怪物、だーれだ?と。

⑥銀河鉄道の出発

「出発するのかな?」

「出発の音だ」

それは本当は、破滅の音なのだけど。ビッグクランチの音。

愛し合う二人が、幸せになるためには「生まれ変わらなくちゃいけない」って、なんて古風な話だ…と思うけれど、でもここまで描かれてきたように、これが今の世界であることは否定できないのですよね。

 

早織と保利先生が倒れた廃列車の窓から泥をかき分けるシーンで、窓に落ちる雨が星のように見えるシーンが、鮮烈な美しさです。

これはまさに銀河鉄道のイメージ。

ラスト、湊と依里がどうなったのかは、明確にはされない。それぞれの受け取り方に任されるのだけど。

でも、「銀河鉄道の夜」から考えても、物語のテーマ的にも、これはやはり悲劇的な結末であると思わされてしまいます。

台風一過のあの場所に湊と依里が出てきて、誰もそこにいないなんてことはあり得ないでしょうからね。早織と保利先生がいるはずだし、その後であればなおさら、重機とか出動して大騒ぎになってるはずだから。

 

天上を目指す銀河鉄道の中での、ジョバンニのカムパネルラへのセリフ。

「僕もうあんな大きな闇の中だって怖くはない。きっとみんなの本当のさいわいを探しに行く。どこまでもどこまでも僕たちずっと一緒に進んで行こう。」

でもこの後カムパネルラは消えてしまい、ジョバンニは地上で目覚めて、カムパネルラが川で溺れたことを知ることになります。

映画では、二人とも途中で列車を降りることはない。本当に、胸が痛いのだけど。

 

救いは、二人の最後のやりとりでしょうか。

「生まれ変わったのかな?」

「ないよ、元のままだよ」

「そうか、良かった」

元のままの自分で良かったと思えたことが、何よりの救い、微かな希望に感じられました。

 

最高に美しいラストシーン。そして、美しければ美しいほど悲しい。

実に力強い映画でした。坂本龍一さんの音楽も、素晴らしかったと思います。

 

是枝裕和監督の、韓国で撮った前作。

 

坂元裕二脚本の前作。

 

是枝裕和監督の、フランスで撮った前々作。

 

是枝裕和監督、日本で撮ったのは前々々作なんですね。安藤サクラ出演。

 

 

 

 

 

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