Shoplifters(2018 日本)

監督/脚本/原案/編集:是枝裕和

製作:石原隆、依田巽、中江康人

音楽:細野晴臣

撮影:近藤龍人

出演:リリー・フランキー、安藤サクラ、樹木希林、松岡茉優、城桧吏、佐々木みゆ、池松壮亮、緒形直人、森口瑤子、柄本明、高良健吾、池脇千鶴

 

①「誰も知らない」と「フロリダ・プロジェクト」

是枝裕和監督の作品では「誰も知らない」が強く印象に残っています。薄汚く、どうしようもない東京の底辺の暮らしを、とてつもなく美しく切り取った映画。

つい最近、「フロリダ・プロジェクト」を観た時に「誰も知らない」を連想しました。安モーテルで最底辺の暮らしを営む母子家庭の母と子の、キラキラしたひと夏の物語。

そして、是枝裕和監督がパルムドールを受賞した本作。格差社会、貧困問題、虐待…いろいろな現代の状況が、よく似た作品を同時期に生み出すのかなと思います。

 

「フロリダ・プロジェクト」「万引き家族」の共通点は、どちらも客観的にはいい所のない、断罪されて当然に見える家族を描いていること。

こういう人たちについて、僕らは往々にしてニュースで知るわけじゃないですか。そして、「なんだこの最低な大人は」と思い、憤りを感じ、「厳しく裁かれて当然」などと思う。いとも簡単に断罪をする。

普段、いくらでもそんなふうに感じている。ニュースの限られた情報を見ている限り当然の反応ではあるんだけど、しかしそこには見えていないものもたくさんあるはずで。

 

映画は、その見えていないものを映し出すことができます。

神の視点のカメラが、当事者だけにしか見えないはずの、家族の日常の内側にまで入っていく。

そして、客観的には見えない家族の内実、部分を切り取ったのではわからない日々の暮らし、そしてそれぞれの心の内側を映し出していく。

 

家族って、そういうものじゃないですか。そもそも、客観的に開かれていない。互いのことをよく知っている、親しい繋がりを持った者同士で、内を向いて集まっているのが家族というものだから。

どんな家族にも、家族にしかわからないことがある。

でも、ニュースになって客観的な視線に晒されると、そんなデリケートな部分は無視されてしまう。

善か悪かにバッサリ二分され、そんな部分は「些細なこと」としてなかったことにされてしまう。

 

でも本当は、人間の本質的な部分って、切り捨てられてしまうそこにあるんですよね。

喜びや悲しみ、その人が本当に大切に思っていること、人が生きる上での美しい瞬間。そういうものは、みんなそこにあるから。

 

「フロリダ・プロジェクト」は意識的にそれを映しだそうとしていたし、「誰も知らない」も、「万引き家族」もそうですね。

是枝監督が家族にこだわった作品作りを続けている理由も、そこにあるのだろうと思います。

客観的に見えないものを、すくい上げることができるのが、映画という表現の特質だから。

 

②メチャクチャなのに、感情移入させる人物たち

今回、是枝監督が十年の問題意識を込めたというだけあって、実にたくさんの社会問題が含まれています。

数年前に流行った、親の死を隠して年金を受け取り続けていた年金搾取事件

時々報じられる、子供に万引きさせていた親が捕まった…という事件。

それに、報じられるたびに胸が痛い思いをする親からの子への虐待事件

 

老人に寄生して年金をかすめ取り、子供に万引きさせて自分は働かない大人たち。

ありていに言ってクズ、ですよね。たぶん、実際にいて報道されたらかばう人は皆無でしょう。

全国民からバッシングが起こって袋叩きになるだろう、大人として完全に失格な人たち。

 

でも、憎めないんですね。むしろ感情移入してしまう。

客観的にはどこから見てもクズなのに、強い共感を持って観てしまうのです。

子供たちに感情移入するのはもちろんのこと、どうしようもない大人たちにもぐっと入り込んでしまいます。

 

それは、彼らが「優しい人」として描かれているから。

倫理観がおかしくて、だらしなくて、怠け者で、やっていることはメチャクチャな、大人として最低な人々だけれど、でも基本的な心根は優しい

そこだけは、徹底している。揺らがない。

 

冒頭、万引き帰りの父と子は、寒空にベランダに放置されている女の子を見つけて、思わず家まで連れて帰ります。

いや、いくらかわいそうでも、いきなり家まで連れて帰るか?って話ですよね。

で、迎えた家族の側も、「それ誘拐だよ」とか「もっと金になるもの拾ってきなよ」とか言いながら、とりあえず優しく迎えてご飯を食べさせてやる。

小さな女の子を責めたり、辛く当たったりする人間は誰もいません。

本来、それが当たり前なんですよね。お腹が空いて凍えてる小さな女の子を見れば誰だって、守ってあげたいと思うはず。人間なら。本当なら。

 

でも、その当たり前が壊れている大人が世の中にはいくらでもいて。

少女の両親も、そういう壊れている人で。少女の体が虐待の傷だらけであることに気づいた家族は、少女を帰せなくなってしまいます。

そしてそのままズルズルと、少女を留め置くことになります。家族として迎えて、新しい名前をつけて。

 

やってることはメチャクチャなんですよね。でも、正しいと感じてしまう。少女を虐待から救うという点では、彼らの行動は完全に正しい。

特に、今の時期…何の偶然か、5歳の少女が両親にいじめ尽くされて殺された、あまりと言えばあんまりな事件があったばかりだから、どうしても想起してしまいます。

少女が彼らの元にとどまって、親の元に帰されないことを心から願わずにいられない。

 

そもそも、年金にたかって暮らしてる一家ですからね。子供を拾ってきてまともに育てるなんて無理があるし、そもそも彼らにとってもデメリットしかない。

普通の判断力があれば、そんなことしない。でも、彼らはできちゃうんですね。

普通じゃないから。普通よりバカで、普通の人が考えるべきことを考えてなくて、いい加減だから。

だから、こんなメチャクチャなことができてしまう。

 

でもそのおかげで、この少女は本当に救われているんですね。

児童相談所よりスピーディーに、警察よりも的確に、しっかり完璧に救われている。

そして、その年齢の子供なら当たり前に得られるはずの、周囲の大人たちの優しさに包まれる生活を、やっと得られている。

他の手段ではあり得ない幸せを与えられてしまっている。こんなにメチャクチャなのに。こんなにメチャクチャだからこそ。

 

③万引きの対象は…?

かと言って、彼らはもちろん聖人ではない

映画が後半になるにつれ、彼らの正体が明かされていく。

彼らの全員がそもそも何の血の繋がりもない、赤の他人であることがわかっていきます。

 

金であったり、恨みであったり、当てつけであったり。それぞれ、バラバラの思惑で集まっているだけの他人同士の関係。

子供たちも同様です。少女りんは治(リリー・フランキー)に拾われたわけですが、長男のように見えていた祥太も同じだった。

断片的な会話から、どうやら祥太も小さい時に治に拾われたらしいことがわかってきます。

 

どうやらパチンコ屋の駐車場で車上荒らし中に、祥太は拾われたらしい。

はっきり語られてはいないのですが、これまた一時社会問題になった、パチンコ屋の駐車場で車に閉じ込められた子供が死んでしまう事件を思い起こさせます。祥太はおそらく、熱中症で危ないところを救われたのでしょう。

つまり、ここでも治は親に殺されかけた子供を助けている。

 

助けてはいるけれど、そのまま自分の子供として、自分の本名の名前をつけて家族にしてしまっている。

これ、万引きですね。万引き家族は万引きする家族というだけじゃなく、万引きによって集まった家族だった。

治は「店の商品はまだ誰のものでもない」という屁理屈で、万引きを正当化しています。

りんを連れてきたのは、親が彼女を家の外に放置したから。その意味で、彼女は「誰のものでもない」のだと言えるかもしれない。

いや、まあ、もともと屁理屈なんですけどね。祥太のように、治の理屈に仮に乗っかるなら。

 

でも、車の窓を割って、他人の車の中のものを持っていくのは違う。車上荒らしは完全に盗みだ。

ということは、祥太が連れてこられたのも、盗みだったということになる…。

祥太がそれに気づいたことが、彼ら家族の崩壊の始まりだったと言えるでしょう。

④子供でありながら、父になりたがる男

非常に子供っぽくて、祥太と一緒に万引きするのもまるで小学生同士が遊んでいるみたいな治。

妻である信代(安藤サクラ)とは仲がいいけれど、男女の仲は微妙であるようで、大人の男女というよりは本当に子供のような人物に描かれています。

普段から温厚で、子供たち相手にもまったく怒らない。

でもそんな彼は、信代の彼氏を殺して埋めるのに加担している。きっと、ひどい暴力男だったんでしょうね…。

とことん、他人の不幸を放っておけない。自分が損をしても、ついついダラダラと付き合って助けてしまう。そういう、ある種だらしない正義漢の人物。

 

そんな彼は、しかし父であることに憧れ続けています。

祥太やりんに、父ちゃんと呼ばせようとする。

窓の外でキャッチボールしている父子を見ると、うらやましくて仕方がない。

祥太に万引きをさせるのも、彼にはそれしか教えられるものがないから。

だから本当に、純粋な親心なんですね。

客観的には、完全に間違ってるんだけど。

 

でももちろんそんなだから、治は父にはなれない。

寄せ集めの他人ばかりの家族で、教えるものは万引きだけで、毎日が遊びみたいでいくら楽しくても、やっぱりそこには未来はない

祥太は自分から、治の元から離れていくことになります。

そして、治はそんな現実を受け入れられない。

父であることを諦めたら、彼はそれこそ何者でもない。この世にいないも同然の、無価値な存在に戻ってしまう。治はそう思っているから、祥太の乗ったバスを走って追いかけるんですね。

それって、普通は父親がやるこっちゃないんだけど。

⑤この美しい瞬間は続く

そんなふうに、どこまでも情けない、幼稚な家族ごっこに過ぎなかった万引き家族の生活。

一旦外部に知られたら、もう終わり。あっという間に瓦解して、バラバラになってしまいます。

 

彼らにどんな言い分があっても、言い訳があっても、そんなものは1ミリも通用しない。

普通の、世間一般の基準に照らしてしまえば、もう呆れられるしかない。

何の抵抗もなく、あっけなく潰れてしまうものでしかありません。

 

でも、映画の中で描かれる、彼らの楽しそうな生活。それは本当に、楽しそうでキラキラ輝いているんですね。

みんなで食べるカップラーメン(万引き)の、冬の夜にみんなでつつく鍋(白菜多め)の美味そうなこと。

夏のそうめんとうもろこし。互いに口は悪くて、汚い言葉を言い合ったりしてるけど、それでもみんな笑っている。まるで平和な家族団欒のように。

ビルの谷間で見えない、音だけの花火大会をみんなで楽しむ。みんなで縁側に出て、音だけの花火を揃って見上げる。

 

信代が、りんを抱きしめる。本当に好きな人は、叩かないんだよと言って、頬をすり寄せて涙を流す。

 

そして海。みんなで海へ出かけていく。子供たちの本当に楽しそうな笑顔。これが、全員が揃っての最後になるんですね。

いつか瓦解するとわかっているからこその、刹那的な瞬間の美しさ

この海の光景を、やがてりんは絵に書き残すことになります。

虐待親の元に戻る運命にある彼女の中に、しっかりと残った海の風景。その瞬間は、りんの中にずっと残るのだろうと思います。

 

ラストシーン、またベランダに出されてしまったりんが、あの夜のように柵の外に目を凝らす。

治がやって来るのを待っている

このラストカットも、本当に美しいです。痛々しくて、悲しくて、美しい。観ている僕たちの心に焼き付けられて、ずっと長いこと消えない。これが本当に、映画のマジックだと思うのです。