花束みたいな恋をした(2021 日本)
監督:土井裕泰
脚本:坂元裕二
製作:有賀高俊、土井智生
撮影:鎌苅洋一
編集:穗垣順之助
音楽:大友良英
出演:菅田将暉、有村架純、清原果耶、細田佳央太、オダギリジョー、戸田恵子、岩松了、小林薫
①人物たちが息づく脚本
2020年。物語は、今は別の恋人と過ごしている麦(菅田将暉)と絹(有村架純)が、偶然カフェで再会するシーンから始まります。
2015年、大学生の麦と絹は終電を逃し、深夜喫茶で押井守を目撃。他の人には通じない興奮を分かち合ったことから、親しくなっていきます…。
普段テレビドラマはあまり観ないのだけど、坂元裕二脚本のドラマはファンなんですよね。特に「最高の離婚」や「カルテット」がとても好きでした。
その「カルテット」の脚本・監督のコンビ。素晴らしい恋愛/青春映画でした!
ドラマでもお馴染みの、圧倒的に情報量の多い会話の魅力。時事ネタやサブカルネタ、固有名詞を散りばめて、溢れ出る言葉に身を任せる感覚がまずは楽しくて。
そして、わざとらしい説明台詞ではなく、それぞれの人物から自然に出てくる言葉のやり取りで、物語が展開されていく。
一切の不自然さ、お話のためにわざと作ったようなところがない。
この人物なら、この状況ではこうするだろう…という自然な応答で、物語が組み立てられていく。
画面の中に、非常に実在感のある生きた人物たちが息づいていくんですよね。
そして、決してテレビドラマではない。ちゃんと映画になっている。
映画は現代から数年前を振り返る形で描いていくんですが。恋人たちの数年間を2時間に凝縮することで、しっかり映画の空気感になっています。
映画ってやっぱり脚本だよな、と本作のような作品を観ると思います。
本作は本当、何も起こらないですからね。派手なことは何も起こらない。
ただ、ひと組のカップルが出会って、付き合って、だんだんすれ違って、別れるまでをスケッチしてるだけ。
それなのに、面白い。目が離せないし、退屈しない。笑えるし、泣けるし、ただファミレスで会話してるだけのシーンであっても、本当に感情が揺さぶられてしまう。
役者さんたちの…というのももちろんあるけど、まずはしっかりとした脚本の力あってのことだと思います。
②「作り手気質」の人たちの出会い
本作は恋愛を描いた映画なんだけど、同時に「ある種の人たちの自意識の変遷」について描いた映画でもあります。
ある種の…というのは、オタク気質…というのとも重なるけどちょっと違う。サブカル好き…なんだけどそれだけでもなく。
言うならば、表現への渇望。クリエイターと言うと、カタカナ言葉で別種の意味に見えてくるので、作り手気質とでも言うか。ただ文化を消費するのではなく、作り手の目線でそこに参加したいと思う気質。
ガスタンクがカッコいいと思ったらただ思うだけで終わらず、それを撮影して編集して映画にしちゃう情熱。
ラーメンが好きならただ食べるだけに終わらず、それを分析してレビューを書いて、人気ラーメンブログに仕立てちゃう情熱。
この思いを持っている人たちは、理屈じゃないんですね。お金の問題でもない。
ただそうしたいという思いを抑えられない。ガスタンク動画もラーメンブログも、誰に頼まれたわけでもなく、一銭の収入にも繋がらない。でも身銭切って貴重な時間を山ほど費やして、それをやらずにいられない。
作ることそれ自体が楽しいから。それが他人に評価されるとか、収入に繋がるとかは二の次なんですね。
そして、この気質というのは、誰でも持ってるものじゃない。経験上、持ってる人と持ってない人にキッパリと別れるんですよ。
そして、持っていない人にとっては、持ってる人の気持ちは本質的にまったく分からないのです。だから、ガスタンク動画やラーメンブログを見ても「バカじゃないの?(ヒマだなあ…)」としか思わない。
これね、持ってない人には、自分が何かを持っていないということ自体、分からないんですよ。その人には必要のないものだし、それこそ実生活には「何の役にも立たない」素養だから。
だから、身の回りがその素養を持たない人ばっかりだと、持ってる人はとてもしんどい。
自分にとってはとても大事なことが、誰からも理解されないわけだから。
それこそ「しんどいならやめればいいのに」と言われちゃうんだけど、やめられないから素養なんですよね。もうそこのところが、絶望的に通じないのです。
で、だからこそ「押井守の顔」なわけです。
作品だけじゃなくて、作品が好きならその作り手にも興味は湧くし、書いたもん読んだり発言を追っかけたりするし、そうなると自然に顔も知ってて当たり前だよね!という感覚。
それを共有できる相手に、互いに巡り会えたからこそ、麦と絹の出会いは喜びなんですよね。
素養のない人は、作品を消費するだけだから、作り手のおっさんの顔なんか(失礼!)そもそも興味が湧かないんですよ。それは良し悪しというわけでもなく、どうしようもなく超え難い「違い」なんですね。
だから、麦と絹が距離を詰めていくのは、互いに「こんなものが好きだ」「私はこんな考え方をするんだ」といういわば「自己顕示合戦」みたいなものになっていくわけですね。
そこでどんどん一致して、共感を重ねていくんだけど、そこで読んでる作家や聴いてる音楽がピッタリ一致するというのは、結果論でしかなくて、実は大事なことじゃない。
(たぶん世代が同じなら、ある程度好きなものは自然と被ってくる)
そうじゃなくて、これはやっぱり互いが「同じ素養、同じ気質を持っている」ことを一つ一つ確認していっているわけで、そこがいちばん大事なところだと思うのです。
だから、映画を観て「趣味が一緒ならいいのか」って思う人もいるかもしれないけど、そういうことでもなくて。もう一段大きなところで、分かり合える仲間、同胞に、ようやく出会えたという感情。
そこが、この出会いの何よりもかけがえのないところなんですよね。
③「作り手気質」が直面する壁
この「作り手気質」の人たちが、学生から社会に出る時に(あるいは出て以降ずっと)、必ず直面することになる問題。それが、作ることを人生の中にどう位置付けるか。
ただ趣味で完結したい人もいれば、作ることを仕事にしたい人もいる。憧れの、それで食っていけてるクリエイターたちのように。
でも、そこにはもちろん「才能」という大きな大きな壁があるわけです。
だから、麦は得意なイラストレーションをなんとか仕事にしようと頑張るけど、とても生活できるレベルにはならない。
単価を安く値切られるところ、リアルですね…。3カット1000円で、生活できるわけがない。まともに生活するためには、ひと月に何カット描かないといけないんだ。
値段交渉したら、「じゃあ、いらすとや使うわ」とか言われてしまう。
今、本当に、イラストレーターやカメラマンの仕事が成り立たなくなってるんですよね。
いらすとやもそうだし、ネットにフリー素材が溢れすぎてるし、デジタル技術も進んでプロと素人の差も見えにくくなって、単価が際限なく下がってしまってる。「タダ」との競合なんだから不利すぎますよね。
そういう意味では、無料でレビュー記事公開してる僕も、どこかの誰かの仕事の邪魔をしてることになるのかもしれないけど。
で、絹と二人での生活のために麦は就職して営業マンになるのだけど、最初のうちは麦も、夢を諦めたつもりはない。
5時に終わる会社だから、イラストの仕事も続けて、そっちが軌道に乗ったら軸足を移して…ということを言ってる。
でも蓋を開けてみたら当然のように、連日の残業でそれどころじゃない。麦は必然的に、夢を諦めていくことになります。
この程度の会社がそこまで稀なブラック企業というわけでもなく、まあそれくらいのことはどこでも普通にあるだろう…と思っちゃいますよね。そのこと自体が、何かおかしいと思うけど。
麦の上司が「5年我慢したら楽になるよ」とか言うけど、5年経っても、残業が減るわけじゃない。ただ、残業に慣れるだけのことだから。
なんだろう、日本って豊かになったはずなのに、個人の暮らしはいつまで経っても余裕がなくってカツカツのままで、というか逆にどんどん余裕がなくなっていってるようで、仕事の後に絵を描くことさえ出来なくなってしまうというのは、いったい何なのだろう…と思います。
映画の中盤から、麦はどんどん余裕をなくしていって、絹から見てつまらない人間になっていく。魅力がなくなっていってしまうのだけど、でも麦の立場になってみれば、彼は絹との生活のために、ものすごく大きなものを犠牲にしているんですよね。
麦のアイデンティティであったはずの、作りたいという思いを殺してしまって。
それはやはり、麦にとってとても大きな挫折体験で、心に負った深い傷になってる。だから本も漫画もカウリスマキの映画も以前のようには楽しめなくなってしまう。
でも、絹の側は、それをそこまで重くは捉えていないんですよね。
④見えてくる二人の違い
このすれ違いの中で見えてくるのは、麦と絹の違いの部分。
あれほど何もかもが一致しているように見えた二人なんですけどね。でも、実は違ってた。
それも、一致したはずの「作り手気質」の部分で、麦と絹は結構違っているんですね。
麦は最初から、仕事にしようとするところと、ただ純粋に作りたいだけのところを分けています。イラストが前者。ガスタンク動画は後者ですね。
一方で絹は、特にそういう区別を持っていない。一般に公開してそこそこの読者を得ている(でも収益にはなっていない)ラーメンブログは、絹の表現の特徴ですね。
就職活動でも特にクリエイティブを目指すわけでもないし、さっと簿記の資格を取って事務職に就く器用さを持っています。
出会いの部分で、絹が絵を好きだと言ったことを、麦が何度も反芻するシーンがありますよね。麦が絹に本当に恋したのはここですよね。
自分の絵を好きだと言ってくれたこと。自分が自信があって、それを仕事にしてやっていくことが出来るはずと思っている絵を。
絹が好きだと言ってくれた絵をなんとか仕事にすることが、麦にとって恋愛の核になっている。だから、その夢が破れた時に、麦の恋愛は核を見失ってしまう。
一方の絹が好きなのは、自分の好きな映画や本、漫画、演劇、ミイラ展やなんやかやを、麦と一緒に分かち合うこと。
好きなことを一緒に楽しむこと。絹の麦への恋は、ここが核になっています。
この違い。最初はそんなに大きな違いだと思えないけど、だんだん深い溝になっていく。
「絹が好きなことをできるように頑張る」と麦は言うんですけどね。絹が好きなのは、麦と好きなことを分かち合うことだから。
絹にとっては、今はもう一人でゼルダやってもつまらないんですよね。だから、どこまで行ってもすれ違い。
絹はいかにも業界人みたいな社長(オダギリジョー)と会って、イベント企画会社に転職します。
好きなもの(映画や演劇、コンサートなど)に触れていられるからという理由で転職を決めた絹に、麦はいらついてしまう。好きなことを仕事にするって、そんな簡単なことじゃないだろう?と言いたくなってしまうんですね。自分はいろんなものを犠牲にしたという思いがあるだけに。
それにこれって、若干「普通の営業サラリーマン」を見下げてる…というか。
麦からしたら、「お前がやってる仕事は全然楽しくないし、だからやる価値ない」と言われてるようなもんなんですよね。もちろん、絹にはそんなつもりはないんだけど。
この辺りは、互いの家族の姿でも対照的に示されています。
麦の父親は、長岡の花火に強い思いを抱く一本気な人。麦の思う理想の作り手像は、花火職人と重ね合わせるようなところがあるのかもしれません。
一方で絹の両親は、広告代理店です。絹は親の「代理店的な考え方」を嫌っていますが、実は自分も引き継いでるところがあるんですね。
同じクリエイターを目指すのでも、一人でコツコツ絵を描き始めるのと、広告代理店に就職を目指すのでは、だいぶ方向性が違う。
人が一人一人違うのは、本来当たり前なんですけどね。麦と絹は最初にあまりにも一致しちゃったから、後から気づく違いがかえって強調して見えるのかもしれません。
観ていてちょっと思ったのは、麦と絹は5年間を通して、自分は興味がなかったけど相手が好きなものを吸収して、自分の世界を広げていく…ということはあまりしないんですよね。
絹はガスタンクを好きにはならないし、麦はミイラに引いてるだけ。
二人は本棚を共有することから始まるんだけど、その後二人が元から好きだった以外の本が棚に増えていったかと言えば、そんなでもなさそう。
絹が勧めた本を麦が読まないというシーンがあるけど、一方で麦が自己啓発書を読み始めた時は、絹は露骨に嫌な顔をして見て見ぬふりをしています。分かるけどね。
互いの違いを受け入れて、面白がる余裕があればいいのだけど。そこまでの余裕がないのが、若いってことなんだろうな。
⑤別れ話から見えちゃう「真理」
最後のファミレスのシーンから後は、本当に映画的に素晴らしい高揚になっています。ファミレスで話してるだけなのにね。
言ってしまえば、人の別れ話を見せられるだけ…なんだけど、思わず泣かされてしまうのはどういうことなんだろう。
一旦別れ話を切り出した後で、麦は「それでも別れたくない。結婚しよう」と言います。
最初の頃のような気持ちはなくなって、恋人としては行き詰ったかもしれないけど、恋人ではなく家族になれば、きっと上手くやっていける…と。
これねえ。すごいなあ…と思ってしまうのは、サラッと言ってるけどこれもうほとんど「真理」ですよね。
世の中で結婚して長く続いてる人たちは、みんないつの間にか恋人から家族に変わって、それで上手くやってるわけで。
たぶん彼らが別れて、また別の相手と付き合って、結婚することになるとしても、たぶん本質的には同じことになりますよね。
…これ、今まさに付き合い始めたばっかりのカップルがデートで観たら、どんな気分になるのかな。気まずくなるんじゃないかな…。デートには向かない映画かも。
「真理」だと思うけど、普通はこれ、こんなふうにあからさまにするもんじゃないですね。
普通は幻想のあるうちに結婚して、それから少しずつクラスチェンジするんですけどね。みんな、いつしか自然と気づいていって、言わずもがなで口には出さない。
結婚前にセックスレスで別れ話まで行ってしまって、ここまで明るみに出してしまってるのは、やはりどうかと思うけど。
そしてこの後、「あの頃」の麦と絹そのままのような二人が入ってきて、「あの頃」の麦と絹の席で、「あの頃」をそのまんまなぞるようなキラキラとした会話を見せつけられる。
あのキラキラとした時間が、もう戻らないということ。これもまた、「真理」なんですよね。恐ろしいことに。
恋愛初期のキラキラは、いつまでもは続かない。いつかは必ず消えてしまう。
その代わりに家族という、また別の絆になるわけだけど。
たとえそうだとしても、失われることには変わりがない。そして、二度と戻らないことも。
だから、ここで麦が言うことにも納得だし、絹が「そうかもしれないね」と受け止めることも納得だし、それでもやっぱり二人が別れを選ぶことも納得するしかないと言う、もう凄まじいまでの説得力になってるわけです。
本当にすごい脚本だと思うし、演出も、二人の演技も素晴らしいし。
これをデートで観ちゃったカップルは、この後でどんな会話をすればいいんだ…と恐ろしくなりますけど。
恋愛はいつか必ず終わるという、これは恋愛映画としてはかなり強烈な絶望だと思うんだけど。
でも、本作がいいのは、それでも決して暗くもウェットにもならないことですね。
あくまでも明るくさばさばと、もう別れちゃったけど引っ越し先が決まるまではまだ一緒に暮らすしかない、二人の生活をユーモラスに見せていく。
そして、別れた後の再会も、お互い新しい恋を始めていて、互いに無言のエールを送り合うことができる。
こんなに傷つくくらいなら、もう恋なんてしない…とはならなくて、二人とも前向きに頑張ってる。
ゴージャスに盛られているけど、長持ちはしないのが「花束みたいな恋」でしょうか。
でもたぶん一輪挿しみたいな恋もあるし、盆栽みたいな恋とか、押し花みたいな恋とか…。
どれがいいとかじゃなく、多様性というか。いろんな恋を楽しめて、その中に結婚もある、というふうに捉えればいいのかな。
麦と絹は若いから、まだそこまで見通せているわけじゃないけど、前向きにこれからの恋や人生に向かって行けそうです。ストリートビューに写ったとか、小さな喜びを糧として。
だから、二人のこれからを本当に応援したくなりますね。
そして、年食った既婚者であるこちらとしては、若い二人を微笑ましく見送りつつ、自分が失った物事に想いを馳せて、思わず胸が痛くなってしまうという。
青春映画としての破壊力も備えた作品です。本当に、いい映画だったと思います。