Toivon tuolla puolen(2017 フィンランド)

監督/脚本/製作:アキ・カウリスマキ

シェルワン・ハジ、サカリ・クオスマネン、イルッカ・コイヴラ、ヤンネ・フーティアイネン、ヌップ・コイヴ

 

 

①善意に理由なんていらない!

 

アキ・カウリスマキの新作です。

主人公カーリドは、シリアからフィンランドに密入国した青年。戦火の故郷から脱出する途中で生き別れになった妹を探しています。

もう一方の主人公は、中年のおっさんヴィクストロム。冴えない服のセールスマンでしたが、なけなしの金をつぎ込んでレストランを始めます。

現代のヨーロッパでもっとも重要な問題と言える、難民問題を強く反映した映画です。ただ、その描き方はあくまでもカウリスマキらしく、ユーモアに満ちています。

 

世界はますます、不寛容になっている。理不尽な暴力に満ちているし、社会の底辺であがく人たちはなかなか報われない。

でも、それでもなおかつやっぱり、世界は人々の善意で回っている

そんなふうに信じることができる、素晴らしい映画でした。

 

善意に、理由なんてないんですよね。困っている人がいたら、助けたい。ただそれだけ。でもそれが、やっぱり人間の本質なんじゃないか。

 

不法滞在の難民の青年が、優しい人々に受け入れられて行く…こういうストーリーの場合、普通はなんらかのきっかけを設けるじゃないですか。

最初は差別があったけど、青年の心根に触れて改心する、とか。映画的な「優しくする理由」を作ろうとする。

でも、カウリスマキの文法はそうじゃないんですよね。なんか見た目にかわいそうだから助けてあげようよ(こっちが損するんじゃない限りは)っていう、ただそれだけ。

 

劇中でレストランの従業員たちが捨て犬を拾って、オーナーに叱られてもかくまうんですよね(そんで、オーナーもついなし崩しに認めちゃう)。

それと、基本的には同じ感じなんだと思います。だって目の前でかわいそうなの見ちゃったらほっとけないじゃん!って言う。

 

てなこと言うと、たぶんいわゆる政治的な観点からは、「正しくない」って言われちゃいそう。「かわいそうという態度がそもそも差別だ」とか、「難民を犬といっしょにするのか!」とかね。

 

対する不寛容の側には、いろいろな理由があるんでしょう。テロとか、治安低下とか、雇用とか、様々な難民を排除する理由がある。

そしてそれは、たぶん正しいのでしょう。理屈の上では、たぶんこっちの方が正しい。

 

でも、そんなことじゃねえだろう!と。目の前に困ってる人がいたら、助けた方がいいじゃねえか!と真っ向から突きつけてくる。

その方が相手は嬉しいし、自分にとっても気持ちいいし、その方がいいに決まってるじゃないか!と、そう真っ向から気づかされるんです。

 

だからこの視点は、決して社会運動にはならない。皆で難民問題を考えるとか、社会に対して訴えるとか、そんなことは登場人物の誰も思いもしない。

でも、世界はそんな個人の一人一人で成り立っているんだから、皆がそんな心持ちになれば、きっと世界は変わるはずですよね。

そんなに無理することでもない。ただ、ほんの少しだけ寛容になって、人に優しい気持ちになるだけ

それだけで、本当に世界は変わるはずなんですよね。もう、本当にそんなところまで、信じられる映画になってるんですよ。

 

②不寛容はカッコ悪い!

 

映画にはたくさんの優しい人たちが出てきます。

ヴィクストロムやレストランの人々はもちろん、妹探しに協力してくれるカーリドの難民仲間や、カーリドの脱走に協力してくれる難民センターの女性もそうですね。

理不尽な理由でカーリドの難民申請を却下する当局の人々は不寛容の側の人たちですが、その中でもカーリドから聞き取りをする女性は妹の捜索に協力する姿勢を見せてくれます。

 

もちろん、カーリド自身もそうですね。彼にとっての願いは生き別れの妹を見つけることで、自分のことは二の次です。妹に会えるかもとなると、せっかく手に入れた安定した生活もあっけなく捨てて、そこへ飛んで行こうとします。

 

そんな中で、完全な不寛容の象徴として出てくるのが、カーリドに暴力を加えるネオナチの男たちです。

デブでスキンヘッドのネオナチのおっさんがカーリドにしつこく絡んできて、恐怖を与えてくるんだけど、でも最後に残る印象は、彼がいかにカッコ悪いかということなんですね。

 

外国人や難民への敵意をむき出しにして、わざわざしつこく付きまとってまで暴力を加えてくるその様子が、ひどくカッコ悪く、滑稽に見えてくる。

むしろ、哀れに見えてくるんですね。彼に比べたら、難民のカーリドの方が、皆の善意に囲まれている分、ずっと幸せそうに見えてしまう。

 

主人公が理不尽な暴力に晒されるのは、これまでのカウリスマキ映画でも度々あった展開だけれど、今回のは以前の同様の描写とはまったく意味合いが違って感じられます。

むしろ、暴力の無力さ、無意味さを強く表しているように思える。

ネオナチの暴力のような、カッコ悪くて哀れな暴力なんかでは、カーリドに影響を与えることなんて出来はしない。それより、優しさと親切の方がずっと強い

そんな、前向きで力強いメッセージです。

 

不寛容はカッコ悪い

優しい方が遥かにカッコいい

このシンプルなメッセージが、すべてではないでしょうか。

 

 

③ヨーロッパの魅力

 

映画はヘルシンキの街を舞台にしています。昼と夜のヘルシンキの光景が、いつもの酒とタバコ、いなたいバーやストリートミュージシャンも交えながら、魅力的に描かれます。今回やたらとビールが美味そうでしたね。

 

おしゃれなデザインとファッションのヘルシンキじゃなくて、路地裏の、多民族が入り混じったヨーロッパの街としてのヘルシンキ。

昔々、貧乏旅行した頃のことを強烈に思い出すんですよね…いや、所詮ヌルい観光地しか行ってないと思うんだけど、それでもやっぱりヨーロッパの夜には「多民族」を感じたし、それは日本とはまったく違う一種独特な空気感として記憶に残っています。

 

当たり前のようにいくつもの民族が入り混じり、いくつもの言語が話され、様々な言語の歌が流れていて、様々な国の料理を食べている。

その雰囲気が、ヨーロッパの魅力だったんじゃないかと思う…というようなことを不用意に言うと、また無責任な発言みたいになりそうですが。

移民問題はそんな簡単なもんじゃない。日本はそもそも移民を受け入れてさえいないじゃないか…と叱られそうです。

 

でも、そうやって問題をあえて難しくしなくていいと思うんです。

カウリスマキは、そういうヨーロッパが魅力的だと思った。だからそう描いた。それだけのことだと思う。

そして、それを観た僕たちもそれぞれに考えればいいのだけれど、でも決して、「だから日本も難民を受け入れなければ」というような、政治運動のようなことを考える必要はないと思う。

この映画が発しているメッセージはもっとシンプルで、政治なんてものとはもっとも遠いところにあるように思うから。

 

とりあえず、目の前の人に優しくしよう。

目の前の問題に、寛容になろう。

その方がカッコいいから。それだけでいいんじゃないかと、思うんですよね。

 

④音楽素晴らしいです!

 

いつものことですが、音楽は本当に素晴らしいです。今回は実に様々な、バラエティに富んだ演奏をいくつも聴くことができます。

 

トゥオマリ・ヌルミオ「Oi mutsi mutsi(ああ母さん)」

 

ハッリ・マルスティオとアンテロ・ヤコイラ「Tama maa(この国)」

 

ドゥマリ&スプゲット「Skulaa tai delaa(音楽か死か)」

 

マルコ・ハーヴィスト&ポウタハウカ「Kaipuuni tango(憧れのタンゴ)」

 

日本語の歌もあります!

トシタケ・シノハラさんの「竹田の子守唄」と「星をみつめて」が流れます。

以下は関係ないけど「ラヴィ・ド・ボエーム」の強烈な「雪の降る街を」

 

日頃耳にすることの少ない、フィンランドの様々なアーティストの演奏を聴くことができます。

どれも実にカッコいいです!

 

アキ・カウリスマキの諸作の中でも、気の滅入るところ、気の悪いところの一切ない、とても前向きな気持ちになれる作品でした。

中盤の「寿司屋」のシーンを始め、爆笑できるところもいっぱいあります。お正月映画としても、おすすめです。