Blade Runner 2049(2017 アメリカ)

監督:ドゥニ・ヴィルヌーヴ

脚本:ハンプトン・ファンチャー、マイケル・グリーン

製作総指揮:リドリー・スコット

ライアン・ゴスリング、ハリソン・フォード、アナ・デ・アルマス、ジャレッド・レト

 

 

この文章は「ブレードランナー2049」の内容をもとにしているので、基本的にネタバレです。ご注意ください。

 

「ブレードランナー2049」のネタバレなしレビューはこちらに書いています。よろしかったら、ご覧ください。

 

また、この文章は映画で刺激された僕自身の妄想をダラダラと書き連ねるものなので、ちゃんとした映画レビューでもありません。

「ブレードランナー2049」のネタバレありレビューはこちらに書いていますので、映画を観たよ!という方はぜひこちらもご覧ください。

 

①レプリカントの子供って人間?

 

さて、「ブレードランナー2049」の主題となっているのは、30年前にレイチェルとデッカードの間に産まれた子供です。

この子供は人間である、という前提で映画では扱われたように思いますが、ちょっと待って。レプリカントの子供って人間なの?

 

特に、もしデッカードもレプリカントであったとしたら、レプリカントとレプリカントの間に産まれた子供が人間!というのは、なんだかおかしなことであるような気がします。

いったいレプリカントと人間の間の境界線は、どこにあるんだろう?というのが本稿のテーマです。

 

レプリカントを、ウォレス社(もしくはタイレル社)の工場で作られる、生まれた時点で成人であるもの、とするならば、確かに子供は人間です。赤ん坊の状態で、母親の子宮から産まれてきたのだから。

しかし、人間の定義って果たしてそれでいいんでしょうか?

 

レプリカントがどのように生産されているかは劇中ではっきりとは描写されていないので定かでないですが、少なくとも、歯車や電線で作られているわけではない。人間と同じ血や肉を持った生き物として描かれています。

顕微鏡で見てみると、細胞単位でシリアルナンバーが刻印されている。レイチェルも、骨を構成する骨細胞の時点でようやく製造番号が見えていました。

 

ということは、少なくとも肉体の上では、顕微鏡で見ない限り人間とレプリカントの区別はつかない。その差が本当にシリアルナンバーの刻印の有無だけなんであれば、実質的に人間とレプリカントに差はない、ということになります。

 

そして、レイチェルの子供にまさかシリアルナンバーが遺伝して受け継がれるわけはないので、子供の細胞にはシリアルナンバーはない。

たとえ顕微鏡で見ても、レイチェルの子供は人間と見分けがつかないはずです。

 

そうなると、レプリカントと人間を区別するべき違いはやはり心の有無と言えるでしょう。

ここで言う心というのは、ただ感情や喜怒哀楽があるように振る舞っているというだけではなく、それを内的世界で感じている主観的意識があるかどうか、ということです。

クオリアを感じる何者かが存在しているか否か。

「我思う、ゆえに我あり」と思う「我」が存在しているかどうか、です。

 

②レプリカントに心はあるのか?

 

内部構造やその働きに至るまで人間そっくりのものを人工物で作りあげたら、それは果たしてどうなるか。

それは心を持つのか。人間と同じものだと言えるのか。

レプリカントというのは、そういう思考実験であると考えることができます。

その答えは、受け取る人の立場によって、大きく2通りに別れるでしょう。

 

物理的な組成が人間と同じなんだから、必然的に同じになるはずだ、というのが一つの考え方。

私たちの心が脳の物理的な活動から生じているのなら、人間と寸分違わぬ構造の脳が組み立てられれば、当然人間と同じ心がそこから生じてくるはず。

この考え方なら、レプリカントは心を持つと考えられます。

 

もう一つは、否定的な考え方。

脳というものも、ただ複雑な情報処理装置に過ぎません。インプットされた情報を計算して処理し、何らかの思考や行動というアウトプットを出力する機械に過ぎない。

その機械の作用のどこからも、それを感じる主観的な心なんてものが生じる道理はないのだから、脳を機械で再現しても心なんかが生じるはずはない、という考えです。

 

実際、嬉しい出来事があれば嬉しい感情表現、悲しい出来事があれば悲しい感情表現をする機械を作るだけなら、今の技術でも可能でしょう。その精度をどんどん上げていけば、見かけ上、感情面でも人間と違わないものは作れる。

でも、そのような人間シミュレータと、そういった感情を主観的に体験する自我を持った心との間には、果てしなく遠い隔たりがあります。

そして、いったいどうやって心なんてものが生じるのか、見当もつかないというのが現代の科学の限界です。

 

ブレードランナーの世界も、我々の科学の延長線上にあるので、レプリカントを作る上でやっているのは、人間の脳の正確なレプリカを作るということであるはずです。

心の作り方なんてわからないから、意図的にレプリカントに心を持たせたり、持たせなかったりすることは不可能。

人間そっくりの脳を作ったら、人間と同じ心が生じるかもしれないというのが、唯一言えることであるはずです。

 

前作「ブレードランナー」では、製造されたレプリカントは感情を持たない。数年経つと感情が芽生えて反乱の危険が生じるから、4年の寿命という安全装置が設けてある、という基本設定がされていました。

つまり、少なくとも製造時点では、レプリカントは心を持っていないらしい。

数年経つと感情が芽生えるのだけど、この「感情を持つ」ということを「心を持つ」ということと同一視していいかどうか、が問題になります。

 

というのは、上で述べたように外面的には感情を持っているように振る舞うけれど、実は内面には主観的意識を持っていない存在というのはあり得る。

そして、人間シミュレータとして作られる以上、レプリカントはそのような存在になるはずだからです。

 

心があるなら人間とまったく同じだから、それを殺すことには重大な倫理上の問題が生じるけれど、心がないなら機械を廃棄処分するのと変わらない。

これはレプリカントにとっては非常に重大な違いだけれど、レプリカント自身が「自分は心を持っている」ことを証明する手段はないんですね。

その判別は、人間による判断に委ねられている。

 

「ブレードランナー」では、レプリカントはたとえ感情が芽生えても共感能力を持たない。このことをもって人間と区別し、レプリカントは人間であるとは見なしていない。

だから殺して構わない、という論理が採用されています。

その上で、「本当にそうなのか?」というせめぎ合いが、前作の大きなテーマになっていました。

 

人間に作られたレプリカントに魂はないと見なすのは、日本人より、欧米のキリスト教的な価値観からの方が馴染みやすいかもしれないですね。

人間の魂を神から授かったものと考えるなら、人間が作ったものに魂が宿るはずはない。

日本人は万物に魂が宿るという伝統的な思考があるので、レプリカントに魂がないと見なすブレードランナーの基本設定が馴染みにくいのかもしれない…とふと思いました。

 

 

③人間だから共感するのか、共感するから人間なのか?

 

人間の条件を共感に求めるのは、原作者であるフィリップ・K・ディックの(あ、こんなところに"K"が!)文学的なこだわりであると言えます。

 

確かに、共感というのは一見何のためにあるのかわからない。非論理的で、機械には理解しにくいだろう概念だから、人間性と結びつくのはわかります。

 

集団生活では、互いに共感能力が高い方が団結が高まって有利と言えそうですが、一方で生存競争においては不利な面もあります。敵に感情移入してしまっては、生き残れないからです。

ただ純粋に生き残るということを考えたら、共感能力のないレプリカントの方が人間より有利と言えます。

 

今回の「2049」に登場する、新型レプリカントたちはどうでしょう。

映画を観る限り、レプリカントたちは確かに共感能力を持っていないように見えます。Kは同類であるサッパー・モートンに一切の共感を見せないし、ラヴは人々を迷いなく殺し、その死体を手荒く扱います。

 

しかし、これまた一筋縄ではいかないのは、劇中でもっとも共感能力を欠いているように見えるのが、人間であるウォレスだということでしょうね。彼は平気で、生まれたばかりでぷるぷる震えているレプリカントをナイフで殺してしまうことができます。

現実の人間でも、サイコパスは共感能力が低いと言われています。人間性を欠いた人間も存在する。

 

また、劇中でいちばん共感能力が高く見えるのは、AIであるジョイです。

ジョイはそもそも物理的な脳を持たない、ホログラムのキャラクターです。脳がないのだから、心が生じる余地もないはず。

それなのに、彼女は映画の中でいちばん優しい心を持ち、人間性があるように見えてしまいます。

それはもちろん、彼女がそういう持ち主を慰めることを目的とした製品だからなんだけど、受け取る側からすれば彼女は誰よりも人間的に見える。

 

だから、人間だから共感能力がある(心がある)とか、機械だから共感能力がない(心がない)ということは、一概には言えない。

前作のロイも、今作のKも、物語を通して成長し、変化していったように見えました。様々な体験や葛藤を経て、最後には他者への共感、心を獲得したように見えた。

 

つまり、人間であるための条件は、そのものがどんな物理的組成でできているかとか、どんな生まれ方をしたかに依存しない

他者への共感につながる体験を何度も繰り返すことによって、少しずつ心を得ていく

人間だから共感ができるのではなく、共感する体験によって、人間になっていくんじゃないか。

 

心がどのような生まれ方をするのか誰も知らない以上、ジョイが心を持つはずがない、なんてことも本当は誰も言えないはずです。

プログラムの機能として他者への共感を繰り返したジョイは、実は既に心を得ていたかもしれない

そう考えると、ジョイの運命は更に切ないものになりますね。

 

④その他妄想いろいろ

 

人間かどうかがあらかじめ決まらず、体験によって変わっていくならば、レイチェルの子供が人間かどうかもこれから決まるのかもしれません。

レイチェルの子供に限らず、ヒトを含めすべての赤ん坊がそうなのかもしれないけど。

 

レプリカントが生殖能力を持って自己増殖し、そしてその子が人間になるのであれば、この先レプリカントが人間を征服したとしても、最終的にはまた人間の世界に戻っていく…ということになります。

レプリカントを始祖とする、人間の世界ですが。宗教は一旦絶滅しそうですね。

 

レイチェルは生殖を可能にすることを目指した、タイレル社の最後の発明品…というようなことが言われていました。レプリカントの歴史から抜け落ちているネクサス7でしょうか。

そうすると、デッカードもやはりその目的のために作られたネクサス7だったんじゃないのかな。二人の結びつきを偶然とするのは出来過ぎな気がします。

 

ところで、ウォレスが人間っていうのも本当かどうか怪しいですね。共感という面では、彼はレプリカントに見える。ネクサス8の見分け方は目玉のシリアルナンバーで、逃亡レプリカントは片目をくり抜いたりしてますが、ウォレスは盲目です。大停電以降に彼が台頭したとすれば、あるいは…。

 

ウォレスがネクサス8で、新型ネクサス9を量産し、またレプリカントの生殖を目指しているとしたら、彼はそれこそ人類を排除し、レプリカントの世界を作ることを目指しているのかもしれません。

 

でもさっき述べたように、その世界は結局いずれ人間の世界になるんだけど。

 

 

 

 

 

 

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