Blade Runner : Final cut(1982/2007 アメリカ)

監督:リドリー・スコット

脚本:ハンプトン・ファンチャー、デヴィッド・ピープルズ

原作:フィリップ・K・ディック「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」

音楽:ヴァンゲリス

ハリソン・フォード、ルトガー・ハウアー、ショーン・ヤング

 

 

①主人公に正当性がない、という独自性

 

「ブレードランナー2049」の公開を前にしたリバイバル公開。「ディレクターズ・カット」以来久しぶりに、映画館で観てきました。

あらためてじっくりと映画館で観て強く感じたのは、この映画のシナリオ面での独自性。たぶん他の映画にはあまりない、かなり異様な設定です。かなりいびつな、冒険した設定ではあるのですが、それが飛び抜けた美術と相まって、この映画に強烈なオリジナリティを与え、この映画だけの強い魅力となっています。

 

ブレードランナーが独特なのは、徹底して主人公に正当性のない映画であるということだと思います。

ブレードランナーは悪を倒すヒーローではなく、逃亡奴隷を追い詰めて殺すハンターです。そしてレプリカントは過酷な宇宙の辺境での奴隷労働に使われ、安全装置として短い寿命を与えられた虐げられた存在です。逃げたら、その時点で殺処分の対象になります。たとえ犯罪を何も犯していなくても、です。

そもそもの設定の時点で、ブレードランナーは逃亡した黒人奴隷を追い詰める賞金稼ぎと何も違いがありません。元より、ヒーロー映画の主人公に設定されるべき存在ではないと言えます。

 

ロイたち4人のレプリカントが地球に侵入した目的は、「生きること」です。自分や仲間、また愛する女の短い命を伸ばすために、一縷の望みにすがって開発者であるタイレルに会おうとしています。何もしなければあと数年、数ヶ月、あるいは数日という期限で命が尽きてしまうのだから、がむしゃらに何とかしようとしています。それ自体決して悪行とは言えない、極めて人間的な動機・行動であると言えます。

 

そんなレプリカントに対して、ブレードランナーであるデッカードは殺すために追い詰めて行くことになります。話し合いや交渉の余地はなし。レプリカントは人間ではなくタイレル・コーポレーションの所有物扱いなので、壊れた機械を取り除くのと変わりません。

しかし、実際に行われることは、血の流れる、生々しい殺戮行為になります。そして、デッカードは4人のレプリカントに対してまったくヒーローのようには振る舞いません。

最初のゾーラは、半裸状態で丸腰の彼女を雑踏の中で追い回したあげく、背中から撃って殺します。

リオンには、あえなく捕まってしまい、目を潰されそうになったところをレイチェルに助けてもらいます。

プリスは、やはり武器を持たない相手の腹を銃で撃ち、痛みに痙攣させて殺します。

最後のロイは、早々に勝つことを諦めてしまい、ボロボロになって逃げ回ったあげく、相手の気まぐれで許してもらいます

つまり、デッカードがまともに殺したのは女二人だけ。しかも一人は背中を撃ってる。男二人はどちらも倒せず、助けてもらっているだけです。

 

観ていると本当に、レプリカントの側を主役にした方が、エンターテインメントとしては普通になるだろうなと思えてきます。

異星の過酷な奴隷労働の日々から、必死の思いで脱出した4人のレプリカントの仲間たち。あと僅かで命が尽きるというカウントダウン状況の中、愛する女たちの命を伸ばすために、命がけで地球に潜入。ハイエナのように追ってくる邪悪なブレードランナーとの戦いを経て、彼らはタイレル社に辿り着き、目的を遂げることが出来るのか……!?

 

②しかし、感情移入するのは主人公

 

以上のように、徹底して主人公に正当性がないにも関わらず、それでも大きな違和感を感じずに観ていくことが出来るのは、観客が感情移入するのがデッカード側になるように注意深く設計されているからです。

 

デッカードは引退を望んでいますが、周りが許さず不本意ながらブレードランナーの仕事に駆り出されます。彼は自分の仕事を全面的に肯定しているわけではないですが、一定の社会正義のために、誰かがやらなければならない必要なことだと思っています。彼は自分がやっていることが汚れ仕事だと自覚しています。これは言ってみれば典型的なハードボイルドの主人公のスタンスです。ハリソン・フォードの皮肉そうな笑みはこの役柄にとてもよくマッチしています。

 

権力者たちの思惑に翻弄され、小突き回されながらも、自身は信念に従って行動し、法を執行する。そういうハードボイルドの主人公として観るので、観客は自然とデッカードに感情移入していくことになります。汚れ仕事をやらねばならないデッカードに同情したとしても、彼本人を責めはしない。観客は、基本的にそういうスタンスに置かれるようになっています。

 

また、劇中ではロイたちの行為がわかりやすく悪と判断できる形で描かれていく、というのもあります。

のっけからレオンの殺人が描かれるので、それを追うことに一定の正当性が付加されます。目玉を作る爺さんを脅したり、孤独なJ・F・セバスチャンを利用したり、弱いものいじめに見える行動をとるのも嫌な印象を与えます。タイレルを殺し、セバスチャンも殺したと告げられるので、ロイを殺すことは「仕方なし」と誰もが思うようにされています。

また、レプリカントの人間離れした強靭さが描かれるので、ただ存在するだけでの恐怖も感じるようになります。ロイの超然とした態度、人間を見下すような態度も、何をされるかわからないという恐怖をかき立てます。

 

だから観客は、普通の娯楽映画のコード通りに主人公に感情移入して、レプリカントを殺すことを応援しつつ観ていくことになります。その映画体験がまず楽しいのですが、しかし設定の底には最初に書いたような本質的な問題がありますから、それが折に触れて意識に昇ったり、気にかかったりしていきます。

デッカードが女を背中から撃つシーンを見て、ドキッとする。喚きながら死んでいくプリスや、彼女を見下ろして呆然とするロイの姿を見て、信じていたはずの娯楽映画のコードがぐらぐらと揺れるのを感じる。

そして最後、ロイがデッカードを許すシーンに至って、潜在していた様々な思いが「手放しでハッピーエンドを喜べない複雑な思い」として湧き上がることになるのです。

 

③だから、ブレードランナーは凄い、のだと思う

 

やっぱり、ただ面白かった!というだけの映画よりは、様々なことを考えさせられる映画の方が、強く印象に残ると思うのです。

ブレードランナーも、ただ未来の美術が斬新であるというだけではここまで多くの人々に長く愛されるということはなくて、複雑な思いにさせられ、考えさせられるからこそこれほどのカルト作品になったと言えるんじゃないでしょうか。

 

映画の全体を通して観客が置かれる、「マイノリティの気持ちもわかる。でも、やっぱり基本的にはマジョリティの側に感情移入している」という状況は、まさに現実の差別問題に対した時の多くの人の状況ではないでしょうか。

そして、マイノリティに対して僕たちが思わず感じてしまう恐怖。相手のことをよく知らないがゆえに、必要以上に恐れてしまう心理。それこそが差別に繋がり、更には「何かされる前にあらかじめ殺してしまおう」という発想に繋がっていく。

レプリカントを殺すという映画の前提の設定、理不尽にも思われた設定が、しかし映画を観ているうちに感情的に納得させられてしまうという、恐ろしい仕掛けが為されていると言えます。

そんな立場を自覚させられる時の、落ち着かなさ、居心地の悪さ。それが、様々なことを考えさせることに繋がっています。

 

そして、それが押しつけがましくなく、エンターテインメントの中に自然に織り込まれている。

本当に、これだけ語り継がれるのに足る、唯一無比の作品になっていると思うのです。

 

 

 

 

 

 

ブレードランナー2049 ネタバレなしレビュー

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