始まりの瞑想 | akiのAYOGスタイル

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ハワイ州マウイ島のヨガアカデミーにて、全米ヨガアライアンスRYT200を取得。帰国後、東京から千葉県九十九里に拠点を移し、現在の師匠・佐藤ベジと共にNYダーマヨガセンターへ。その後もNYに修行に行きつつ、BORN TO YOG TTを卒業。現在は千葉や東京を中心に活動しています。

最近少しずつ。

はっきりとした自分の輪郭を、

あえてボヤァ〜っとぼやけさせて。

そちらに馴染ませていきたいのが、

瞑想の世界であります。


今までもヨガに携わって来たので、

瞑想するチャンスはありましたし、

所々でやっても来たのですが。


心を落ち着かせる、集中力を高める、

脳を休ませる、生産性を高める、

気づきを得る、執着を手放す、

邪念を払う、悟り…


いろいろな効果が言われますし、

実際その効果はあるのだと思います。


が、正直ピンとこないと言いますか、
(ピンとこなくても入っていける方はいます)

リアリティが無いといいますか。


前半はアサナでそれはどうにかなるよね?

と思っていた節がありましたし、


後半は座っても座っても閃きがなく、

む、向いてない。。。


そう思う、どこまでも体育会系の私。




ふと小さい頃、無心に自転車を磨きながら、

「自分とは何か」について、

小さな頭で考えていた事を思い出します。


考えても答えは出ませんでした。

大人はみんな知っているとばかり思っていて

でも大人になっても分からないまま。


それでもその思いが消えなかったから、

私にも やっとなのかもしれません。



そんな風に思っていたある日のこと。

11月の頭くらいだったでしょうか?

年末の学びの場が飛び込んで来ました。


そのまますぐにスタジオに電話しまして。


こう言う決断だけは早いです。

直感の精度をあげていく練習です。

いや ただの好奇心。



この学びを具体的に言うと、

バガヴァッドギーターをエッセンスとした


ヴェーダ(聖典)の学びを通じて、

瞑想を体系的に感じようとするもの。



瞑想のハウツー勉強会でなかったのが、

とてもツイていたと思います。


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気に入って毎日食べていた、シヴァナンダヨガジャパン 東京センターのヴィーガンクッキー!



この学びの機会を通して、

私が私自身について明確に分かったことは。

「瞑想の手段と、目的が曖昧だった」

という事でした。



瞑想にも、

たくさんの種類があり。やり方があり。


ただそこに座るという最初のステップは、

身体が出来ていないとなかなか難しく、

だから「まずは座りましょう」と、

言われれるのだと思います。


ただ私の場合、

中途半端に身体は出来ていて、

その先のステップがよく理解出来ていない。


今までも導きの言葉はあったと思いますが、

きっとスルーしていたのでしょう。

だからいつまでたっても、

で?それから?という気持ちが拭えず。

瞑想迷子のようでした。




ヴェーダの国の習わしでは、

弟子の準備が出来たと判断されたら、

師からやっと伝えられると言います。


テキストだけでは自身が興味のある、

目につく情報を拾ってしまうため、

必ず師が必要な言葉を授けるそうです。

師と弟子が異なった宇宙観を見ないように。

ズレて伝わって行かないように。

直接に。こんな感じに。

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身体が出来てきたという事自体が、

準備が出来た事とイコールではないのですが


学びたいと思ったら自ら飛び込める。

そんな今にも感謝しています。


私達日本人は小さな頃から、

ヴェーダを学ぶ環境にいませんからね。

自然な準備はちょっと難しい。


(しかしみんなの成熟レベルがまだ、まちまちなクラスで伝えていかれる先生。1日7時間以上 現代的だったり科学的だったり、とにかくいろんな例え話を使い、相当なエネルギーを使って伝えて下さるのですが、これがかなり大変そう。感情移入してしまいました…。「この観念の山を越えて!」って何度も仰っていましたから。)


反復、反復。

すぐに忘れてしまう私なので。

とにかく何度も戻っては表現をかえて、

チェータナーナンダ先生は、

穏やかに伝え続けて下さいます。

全体のヴィジョンには言葉が必要です。


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自分が何を求めているかは、

はっきりとは分からないけれど、

今までの生き方では、

それは叶わないような気がする。


それが最初のヴィヴェーカ(識別)で、

満たされない思いから気付くと言います。

センチメンタルは大事だと。


外側に求めても満たされず、

次はと内側に求める。


しかしこの内側への探求がまた、

勘違いを生むとも。


ビジネス、宗教、そしてヨガにまでも、

偏って心を奪われてはいけない。


だから先にはモークシャ(自由)

を持つ必要がある。

得られるものはいつか失うものだから。



外にも内にも無いもの。

それは自分の知識だと教えます。


つまりヴェーダンタは、

「私とは何かの知識」を教えてくれます。

私は全体であるというリアリティ。


瞑想はその手段であり、

そして瞑想とは思う事。

無になる事ではありません。

「ヴェーダ(聖典)を勉強してやっと思う事」

だと教えます。


では何を思うか?

それも教えて下さいました。

しかしこれは願いではありません。



さて、長くなってまいりました(笑)

さわりのさわりでこの長さ。




瞑想迷子の私が座って何をするのか?

そしてその目的手段が明らかになった事。

まずはそれが収穫でした。



ただ私はまだまだ、

全体のヴィジョンが見えていません。


これが全てであるとも、

はっきりと言える段階にもありません。


ですからこれを学んで行きたいなという、

スタートに立った、それだけ。


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こちらは勉強会のテキストでは無く、復習用に連れて帰ってきたもの。



これがあれば安心(アルタ)

これがあれば幸せ(カーマ)


お金、そしてあの人がいれば幸せなど。


そこから次に進んで行くことが、

私たちカルマ・ヨギの道です。


(一方、社会的な義務や権利から引退して、仕事としてでは無く、ヴェーダンタの勉強だけにコミットする生き方。サンニャーサーというチェータナーナンダ先生の様な生き方もあります。)


その次は調和と秩序(ダルマ)と、

自由という目的(モークシャ)。




正直分からない事だらけですが、

「5つの感覚器官+今までの私の考え」

から得られたものだけでなく、

知識はもう既にあるものらしいです。



だから知識を身につける事では無く、

過去の見方(ブルッティ)を変えて、

無知を落とす事。

私がまだ見えていない世界を認識すること。




✳︎



真っ暗な夜の山で、

その向こうの恐れる闇を見ない様に。

焚き火で照らされている小さな世界で、

編み物に没頭している今の私。



だからこそ無知を落とし、

新しい世界への視点で、

照らされていない暗闇を見る事こそが、

どうぞ自由の本質に繋がって行きます様に。



OM.

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