親であるという事、子であるという事。。 | 本橋ユウコの部屋

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またメール待ち時間を使って、ぶつぶつ言ってみることに…(このスタイルすっかり定着)。

何日か前、お金が無くなった父親が(自分の嫁さんには何もせずに)三人の子供を寝ている間に絞殺してしまった、という心中未遂(だって本人生き残っちゃったし。。)事件がありましたね。


なんーか、あれも腹立つニュースですよ~。。。

何が腹が立つって、父親の物言い。
「(もうお金が無いから)幸せな間に逝かせてやりたかった」
「頑張っても報われない世の中が嫌になった。こんな世の中に生きていても子供が可哀相だと思った」
ですってよ。。


…ッあーーーーーーーーー!!!!!!!(絶叫)

「他の人間の幸せ」を、アンタが決めるな!!!(怒)


ゼェゼェ…。あ~すっきりしねえ。。
私は、こんなん許せないですよ。何も詳しい事情は存じませんけども!

だってそうじゃありませんか?
せいぜいが10年や15年位しか生きてなくて、人生の”本当の幸せ”の何を知れたって言うのか?!
…んなものはン十年生きた私だってまだ知りませんよ!!(苦笑)
だから、今、頑張って手に入れようと必死であがいてるんじゃないですか。
それが「生きる」って事なんではないですか??

なのに突然、全てを他人の手で終わらせられる。それも自分の親に、とは。

…最後の瞬間に、首を絞められた子供たちがパッと目を開いて目の前の人物の顔を判別、してはいなかった事を祈るだけです……だって、可哀相過ぎる………(涙)。



いつから、親は自分の一存で子供を殺していいって話になったんでしょうかね?
21世紀のこの国で。近代以前じゃあるまいし!

たとえ親子だろうと、別の構造の遺伝子、別の人格を持った「全くの他人」ですよ。

親のコピー製品でもなければ所有物でもない。
その養育にどんなにお金を注ぎ込んで、どんなに愛情を尽くした(本人はそのつもり)としても、どんなに強硬にいろいろと頑張ってみたところで。

親と子は、すっかり同じ時間を生きることは出来ないんです。
平たく言えば、親のほうが先に行くって事。

哀しいけれど生物である以上、それはどうしようもない。
でも、だからこそ今のわれわれの命があるんです。



かつて、数億年前の、恐竜全盛の時代。
我々の遠い遠い祖先である原始哺乳類が同じフィールドで生きていたそうです。

あの超巨大で、超強力で、超大食いなやつらが大繁殖してる世界に、ちっちゃーいネズミみたいな姿形で生存する運命を思うと……もう恐ろしくて、今にも泣いちゃいそうです。
(等身大の二十倍くらいのジュラ○ックパークを想像してみて下さい。。ひぃっ、踏まれるぅ~!)

そのあまりに過酷な世界で、生き延びるために原始哺乳類が取った生存方法というのは、徹底的に恐竜とは”逆”を行く、という感じのものだったようで。

つまりこうです。
・恐竜のように大型化することで競争に勝とうとはしない
・恐竜が跋扈している昼間を避け、夜の暗いジャングルでも食料を摂れるように聴覚器官(ひいては脳)を発達させる
・とにかく繁殖能力を強化して「大家族」を作り、かつ世代交代のスピードを速める

原始哺乳類の中にも大型化を採用したものはあったようですが、氷河期以前にその方法を採用した種族は化石から見る限り、全て途絶えているようです。同じ土俵で戦ったら、よりデカイ恐竜に勝てるわけが無かったということでしょう。大型化はかえって恐竜に格好のえさを提供するだけだった、と。

身体は小さいままで、素早さと感覚の鋭さを磨き上げることで、食料の乏しい原始シダ植物のジャングルの地表にあっても、「昆虫」のような豊富な蛋白源を得ることが出来たのです。
その虫という高蛋白食が、身体ではなく頭脳の大型化を支えたのでしょう。
(脳が大きい=お利口になるということ。恐竜の身体に占める脳の比率は…ちっちゃいです♪)

でも、そんなに頑張っても、やっぱり恐竜がいる限り、原始哺乳類が「捕食される側」なのは変わりないわけでして。それはもう、現代の海の中のオキアミやイワシのように食べまくられたことでしょう。。

それでもなお、種としての絶滅をまぬがれるためには、ただひたすら数を増やすしかなかったのです。
文字通りの”ねずみ算”の繁殖能力は、恐らくこの頃から始まったのでしょうね。

生まれては食べられて、死んでいく原始哺乳類の短命さに比べて、恐竜の中には優に100年を超える長い寿命を持ったものも存在したようです。(個体としての生物としては、最盛期の恐竜こそがある意味最も”完成された”生命体だったと色々な意味で言えるかもしれませんね~)

…つまり原始哺乳類は、その短命と引き換えに、世代交代のスピードと環境への適応能力(進化と言っても良い)を飛躍的に高め、それに種としての生存を賭けた、ということなのです。


親が子を何匹も産む。その子供たちは、たった一匹を残して全部食べられる。
残った一匹の子はやがて親になり、幸運にも何回かの繁殖を行うことが出来る。でも、また食べられる。
そのまた、たった一匹生き残った子が………という、気の遠くなるような繰り返し。

この一見、不毛にすら見える繰り返しが、もしもどこかで完全に途絶えていたとしたら。
…今、この地上には、われわれ人間も、他のどんな哺乳類も存在してはいないのです。


先に死んでいく親は、産んだ子供たちのことなど多分、速やかに忘れてしまったでしょう。
だってすぐにも次の子供を産まなければならなかったから。
だから、あわただしく子供たちに最低限の生きていく術を教え、後は外界に放り出すだけ。
何十匹の子供を産もうとも、その中のどれが無事生き延びて子孫を残すのかなんてわからないから。

卵ではなく、胎生から授乳によって子を育てる哺乳類は本能によって「愛情」が深い。
それでも親は全てを忘れ、否、むしろ全てを託したのです。
次の世代への”希望”を。

膨大な数の枝分かれした絶滅種の痕跡の果てに…。




過酷な環境の中だからこそ、生存のためのシステムとして哺乳類の「家族」は生まれたのです。
けっして馴れ合うためでもなければ、束縛しあうためでもない。

どっちかがどっちかの”幸せ”を決めるなんてありえないし、(その生存すら保証できないのに?)全ては独立した”個”の営みの上に成り立つものであるべきなのです。

そうでなければ支えあうことも、本当は出来ないのです。


私が考える「家族」とは、そういうものです。