■「早稲田と慶應」早わかり

 

日本を代表する私学といえば早慶、つまり早稲田と慶應義塾です。

 

 

実はこの2校、ルーツをさかのぼると、どちらも薩摩藩(鹿児島)に行きつきます。

 

 

何を馬鹿な、と思うかもしれませんが、実はまあ、大体そんな感じ(と言えなくもない)です。

 

まずはですね、江戸時代に第8代薩摩藩主・島津重豪(1745-1833)という人がいたんですよ。

 

今でいえば、鹿児島王国の国王ですね。

 

どんな人かというと、あだ名は「蘭癖大名(オランダかぶれ大名)」。

 

自ら長崎のオランダ商館を訪ねて行って船に乗せてもらったり、オランダ語で普通に会話できたり。普通のお殿様じゃありません。

 

で、この人、ひ孫の坊やを大層かわいがっておりまして、ひ孫を同居させて(ふつうはしない)、ヨーロッパの魅力を毎日吹き込みました。

 

そんな英才教育?を受けたひ孫が成長して、名乗った名前が薩摩藩第11代藩主・斉彬。

 

西郷隆盛や大久保利通を抜擢して、薩摩藩に西欧文明を取り入れる近代化改革に乗り出した人です。

 

おっと、話がそれました。

 

重豪公が育てた欧州マニアは、ひ孫だけではない。

 

次男の昌高も、これまた極度のヨーロッパ愛好者。

 

その語学力は、オランダ商館の館長とオランダ語でポエムをやり取りをするほど。

 

で、この人は中津藩(大分県)に養子に出されて、そこの藩主になりました。

 

中津に行って家臣から聞いた話が、「前野良沢という藩医が、解体新書というどえらい本を翻訳したが、辞書がなかったので大変苦労した」という話。

 

早速、多額の公費を投入して辞書を作って発行しました。

 

そんなこんなで欧州マニアの藩主が率いる中津藩は、「蘭学の里」と呼ばれる洋学マニアの聖地になりました。

 

日本の蘭学者コミュニティーをたどると、どこかで何かしら中津藩出身者が絡んでいる、そんな有様です。

 

その中津藩の下級武士の一人が、福沢諭吉。

 

本人は中津藩のことをクソミソに語ってるんですが、 中津に生まれていなければ、蘭学を学ぶチャンスどころか、蘭学への興味関心すら抱かずに一生を終えていたかもしれません。

 

諭吉は藩命による長崎遊学(蘭学修行)が認められたのをきっかけに、藩の中で「蘭学の専門家」として認められていきます。

 

で、中津藩は1858年、江戸藩邸の中屋敷に藩士向けの蘭学塾を開くことにしたのですが、さて、教師をどうするか。

 

福沢諭吉の自伝によれば、「他国の者を雇うことはない、藩中にある福澤を呼べということになって」、福沢先生が教鞭をとることになりました。

 

「これが慶應義塾の起源である」というのが、慶應の公式見解です。

 

今も藩邸跡地には、「慶應義塾発祥の地記念碑」が立っています。

 

 

ついでにいうと、その慶應発祥の地である中津藩邸には、昌高公が作った「オランダ部屋」という謎ルームがありました。

 

総ガラス張りでオランダの品々を収蔵し、西洋かぶれな人々が夜な夜な集まっては、外国へのあこがれを語り合ったらしい。

 

そしてさらに、薩摩の重豪公が育てた外国マニアはほかにもいました。

 

育てた、というとちょっと言いすぎだけど、肥前佐賀藩主の鍋島直正。

 

閑叟、という号のほうが有名でしょうか。

 

西欧流で藩政改革を進め、アームストロング砲の国産化に成功したりして、司馬遼太郎の小説にもなったお殿様です。

 

島津斉彬とは母方のいとこにあたり、縁続きということや、お互いの江戸藩邸が近くにあったことから交流が深く、直正と斉彬は情報交換しながら自藩の西洋化を競い合う仲でした。

 

殿様同士で、部下が開発した技術資料を交換し合っていたそうです。

 

斉彬は家臣に宛てた、こんな手紙も残しています。「(佐賀の直正は)18回失敗したけど、ついに開発に成功したと自慢していたぞ。お前たちも試作品の設計がうまくいかないからといって、へこんでる場合じゃないぞ(意訳)」

 

そんな肥前佐賀藩の出身者が、早稲田の創立者・大隈重信です。

 

 

明治新政府で出世し、首相も経験した大物です。でも、西欧流立憲政治を目指し、長州藩閥と対立。野に下って早稲田大学を作り、野党的立場から政府批判を展開しました。

 

で、実は大隈、明治政府で出世できたのは、薩摩藩の3大巨頭が後押ししてくれたおかげでした。

 

まず、最初に推挙してくれたのが薩摩藩の家老・小松帯刀。

 

早死にしたせいで知名度は低いのですが、幕末の薩摩藩を率いた有力者です。坂本龍馬のパトロン的支援者でもありました。

 

小松が「大隈はできる男だ」とプッシュしたおかげで、大隈は明治新政府の幹部として就職が決まりました。

 

次に大隈を評価してくれたのが、西郷隆盛。

 

西郷どんが「大隈はできる男でごわす。細かいことは任せたでごわす(意訳)」と、実務を丸投げしてきました。

 

丸投げされたほうは大変ですが、その仕事をうまくこなした結果、大隈は敏腕行政マンとしての評価を確立しました。

 

ここが面白いところで、大隈本人は「なんで小松が私を推薦したのか、さっぱりわからん」「西郷は大したタマじゃない」と言って、薩摩閥ではなく、そのライバル関係にある木戸派(=長州閥)の一員としてふるまっていたところ。

 

福沢諭吉が、自分を抜擢した(客観的に見れば、そうとしか言えません)中津藩にいまいち冷たいのと、なんか似ています。

 

それはさておき、大隈を最後にプッシュした薩摩人が、大久保利通です。

 

西郷隆盛失脚後、大隈は長州閥との関係が悪化します。

 

大隈は「偉く」なりすぎて、長州閥からライバル視されるようになってきたわけです。

 

そんな大隈をかばってくれたのが、大久保利通です。

 

大隈は大久保利通について、こう言っています。「考え方が保守的で、しかも陰キャでいやな奴だったが、藩閥にとらわれず人材(つまり俺)を活用したのは偉い(意訳)」。

 

ところがその大久保が、暗殺されてしまいます。

 

後ろ盾を失った大隈は、いったんは長州閥に従う姿勢を見せますが、明治憲法制定をめぐって一か八かの勝負を仕掛けて、結果は敗北。下野することになりました。明治14年の政変、というやつです。

 

で、長州閥が率いる明治政府を批判する野党的立場から作ったのが早稲田大学、というわけです。

 

というわけで、早慶はともに薩摩系列だと言えなくもないわけです。

 

ちょっと、苦しいですけれど。

 

とまあ、ここまで解説したあたりで、あとはこちらの「早慶」の項目をご覧ください。

 

早慶はビジネスモデル自体が、帝大ともそのほかの私大とも異なる、独自の存在として発展してきたことを、ちょろっと解説させていただきました。

 

帝大は高級官僚になりたい人の学校。普通の私立は医者や教師、法曹などになりたい人向けの資格試験予備校としてスタート。早慶は豪商や大地主といった、「地方の有力者」の子弟が集まる学校。

 

実はそんな個性の違いがあったそうです。

 

 

ではでは。