週間イントラモエニア
 ブジ今期の試験をすべて終えました。おかげさまでブログもまったく書かぬまま、2010年振り返りっぱなしの投げっぱなしで二カ月弱が経ってしまいましたね。いろいろ書きたいことだけはあったので、しらじらしく続きを書きます!

 毎年なんだかんだで話題に上る20世紀イタリア知の巨匠パゾリーニ。今月日本でもみすず書房から詩集が出ましたね~。2010年のパゾリーニ話題といえば未完の大作『石油』(Petrolio)の原稿の一部が新たに発見され、それがミラノの展示会で公開される予定だったというもの。それを公表したのが展示会のプロモーターだった上院議員マルチェッロ・デッルートリ(Marcello Dell'Utri)だったのですが、この人もベルルスコーニの息がかかった黒い人物で…何度も裁判沙汰になっていて、3月に行われたこの展示会の後も政治界の新たなフリーメイソン組織P3の関わっているとメディアで騒がれた男です。そんなわけでパゾリーニの原稿の公開はどういうわけか突如として中止。そもそもパゾリーニが殺されてだいぶ経ってから発表されたこの未完の小説自体かなり危険視されていたもので、原稿をもとに構築した大筋はだいたい、石油会社ENIで働くボルゲーゼの主人公が、腐敗した資本主義社会の内部を暴いていくというようなもの。この作品が原因でパゾリーニは暗殺されたということになっております。というわけで今回発表されなかった原稿も相当イタリア社会を揺るがすものであったのでは、と予想がつくわけです。というわけでこの事件のきな臭さは世紀をまたがりました。

 世紀またぎ賞として発表されたのが上の写真にあるPasolini in salsa piccanteという作品。「マエストロは辛口ソースでいただくのさ」(I maestri si mangiano in salsa piccante)というパゾリーニ映画(この作品見たことないのでどういう文脈で用いられたか知りまへん)のセリフをもじったこの作品では、性的虐待やヌード写真など、ゲイのパゾリーニという今まで禁忌とされてきたテーマをもとに当時の社会を切り抜いた快作となっております。

 2010年、あと一回だけ振り返ります。




 笑い飯の優勝で幕を閉じたM-1グランプリ。その10年の歴史はすべて笑い飯が優勝で締めくくるための前フリだったとさえも思えます。そして2010年が終わります。橋本勝雄センセが書かれていた「ここ1年のイタリア現代文学のまとめ」みたいな文章が更新されないのをいいことに、こちらに訪問者が流れてこないかと目論んでいるわけなのですよ。ちなみに当サイト訪問検索ワードの上位は、ベルルスコーニ、フィーニ、マリア・ステッラ・ジェルミーニ、アゴスティ、Vincereなどなど。時のものではないにも関わらずパヴェーゼという検索ワードも常に多かったですね。というわけで思い出す限り今年の新刊本と共に2010年を振り返ってみたいと思います。  


週間イントラモエニア

 まずはなんといってもロベルト・サヴィアーノ。2004年から2009年までに書きためた記事の集めたBellezza e l'infernoが出たのは2009年6月です。本が出たのは今年じゃないのですが…。彼の今年の活躍は本当にすごく、2010年を振り返ろうと思ってパッと思いつくのは彼なのです。DVDの発売、レプッブリカ紙への寄稿、ファビオ・ファーツィオとともに出演したRai3のテレビ番組Vieni via con meの大成功などなど。いきなり年末の話になりますが、12月14日ローマの国会議事堂を中心に激しいデモが勃発しました。ベルルスコーニの不信任案を通そうと、労働組合、学生、教職員、アブルッツォの地震被災者などなどおびただしい人々がデモを結構し、火の手は上がるわ、もう市民革命を思わせる大騒動になったのです。結果2票差でベルの続投が決まったのですが、翌日12月15日レプッブリカ紙の一面に出たサヴィアーノの記事がこちら。


 デモに参加した若者たちへの手紙  


 ローマのデモで石を投げたものは、広場でデモに参加していた全員に石を投げたことになる。銀行ATMをぶち壊したものは、新しい国、新しい政治階級、新しい思想を見せようとデモをしていた人々に対してATMをぶち壊したことになる。あらゆる暴力的行為はベルルスコーニ信任に1票を投じたことと同じだ。ヘルメット、バット、燃やされた車、顔を隠すためのマフラー。それらすべては、新しいイタリアをどうにかして提示しようとしている人間には属さない。  フードキャップ、石畳、粉々にされたウィンドウ。それらは、いつもの古く耐えがたい反動であり、火曜日(14日)ローマと他のイタリア都市で起こった多様性のあるデモでは意味のないものだ。

………  

 

 若者たちに向けてこの手紙を書いている。多くは私の同年代で、大学を占拠し、イタリア中の道路でデモを行っている若者たち。ここ最近行われた生命力あふれる、平和で民主的なデモ行進にいた人々に手紙を書いている。私は教えてほしい。怒りはどこへ向ける? 非常勤労働者の日々の怒り、月末までの生活がもたず、20年も人生で何か変わるのを待ちつづけている人の怒り、未来が見えないものの怒り。そう、その本当の怒りというものは、きみを前進させる満タンのポイラ-だ。それはきみの目をこじあけ、愚かな過ちをさせず真摯な行い、重要な選択を遂行させるのだ。あの50人~100人の間抜けどもは石を投げたり、トラックの上によじ登ったりして怒りを発散して、その重要な任務を見失っている。

………

という感じでデモの中で暴力的な行動に出た少数の過激な人々を批判している。デモが掲げる正当な訴えも、暴力を行うことで歪められてしまう。それに対して翌16日のレプッブリカ紙に、デモ学生から多数の手紙が寄せられた。その一つがこちら。  


親愛なるロベルト  


 あなたの言葉はいつも素晴らしいけれど、今回は、ああ、なんと無益なの。私は26歳で学士を二つ持っている。何かをしたい気持ちがある。だから私は怒り、あきれ、意気消沈している。もはや正しいことのために何かを保つ理由が見当たらない。一年前はローマに対して憤りを感じていたけれど、今は幸せ。なぜなら、暴力はひどいことだけれど、絶望したものにとっての唯一の手段となる。この言葉を使うのは偶然ではない。「絶望した」というのは希望がないこと。私はそうだ。私には未来がない。私は26歳でもう子供じゃない。私は家を買うことができないだろう。ローンを組むことを保証してくれるような仕事につけないからだ。両親だって経済的に私を援助することはできない。新しい車だって買えるかどうかわからない。  もし子供ができたら、大学に行かせるだけのお金がないだろう。年をとったら年金がもらえないだろう。もう私には、他のたくさんすぎるみんなと同じように失うものは何もない。   

                                        

                                           マルタbcn  


それに対するサヴィアーノの返信がこちら。  


 きみの言葉はとてもつらいものだ。でもきみのように理論づけることは、現在の権力に打ち負かされるということを意味する。正しいことのために何かを保つことができない、すべてを清算することを望むということは、今よりもずっと臭かった1970年代の過ちに陥ることを意味する。「銃をとれ。代償を払わせてやる」。まさに当時と同じだ。だが、武力の下に崩れ落ちるのは、国を変えようとする改革主義者。銃をにぎったものは、改革するのではなく戦闘をするのだ。現在のデモ活動はずっと健やかなものだ。私は若者たちに「やつらを見ろ。そして笑うんだ。この年寄りどもを。作戦を失敗した永遠の若者たちを」。

………  


 というふうなやりとりがたくさんされたのでした。そのような話しあいがメディアを通してなされる点、サヴィアーノのようなオピニオン・リーダーとも呼べる存在がいる点においてイタリアは本当に進んでいると感じました。事実、のちの12月22日、教育改革法が上院を通過するその日に行われた学生デモはずっと穏やかなものとなったのでした。

 日刊と言いつつ、すっかり何も書いていませんでした。でも何かを書き続けるのって本当に力のいる作業ですね。一本や二本の記事ならすでに考えているネタがあるものなのですが、こう何年も続けてものを書くとなると、これが大変。次から次へと書くわけですから、次から次へとものを考えていかなければならないのです。文章力や分析力以外にも、持続力で記事は評価されるべきだなあ、などとCome va?やドーナッツクラブに寄稿してて思いました。

 さて、とは言うものの私もベテランですから、書くことを考えてないというわけではないのですよ、ええ。ローマの大使館の爆弾テロやらジェルミーニ法が可決されたことやら、それに伴う学生のデモやウィキリークスがイタリアに与えたインパクトなどなど、日々本当にいろいろいろいろなことを考えさせられます。それは師も走る年末にテヴェレ川沿いを逍遥するほど暇な私ですから、これから順々に書いていきます。いや、嘘です。書きたいことを振り分けて何個かはここで書きます。とりあえず一個消化するために書いておくと、マリオ・マルトーネの歴史映画Noi credevamoを見ました。面白かったです。なんと構想・企画から数えると8年かかったとかの大作でして、力の入り具合を感じました。イタリア統一のために奔走する三人の南部の若者たちの悲しい運命を描いた物語です。この映画を見たって話を多木さんにしたら、多木さんも見ていて「どう思いました?」って聞かれたので「いやー、なんか時間をかけて入念につくった力作って感じがしました」と、とても薄いコメントをしたら、「あれは登場人物が全員よい結末を迎えてないところがすごいよね。イタリア統一という歴史的事業を成し遂げようとしている若者たちなのに」。と多木さん。なるほど確かにそうだなあ。


 久しぶりに映画をみました。アスカーニオ・チェレスティーニのPecora nera(黒い羊)です。黒い羊とは群れの中にいる異種を示す言い回しです。精神病棟で生活する主人公扮するチェレスティーニ。この人、小説や映画や音楽もやるけど、もともとは舞台俳優なんですよね? ナレーションも非常に演劇っぽい抑揚のつけかたで個性的でした。小説も映画も俳優もやるマルチな才能の持ち主って最近はなかなかいない気がするので、彼のような存在は面白いですね。
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 イタリアの詩学などの研究者、須賀敦子さんのイタリアでの足跡をたどるDVD+小冊子『静かなる魂の旅』が9月に刊行されました。須賀さん、編者の中山エツコさんとも縁が深い大町さんからお借りして鑑賞しました。しかしDVD3枚組の永久保存版とは如何なることか。いまだに衰えぬ須賀さん人気です。内容はこれといってコメントすることもありません。須賀さんの綺麗な文章を引用しつつ、綺麗なイタリアを見せていく。須賀さんの足跡というよりは、ちょいマニアックなイタリア旅行ガイドDVDという感じでした。あとみなさんおほめになる須賀さんの美文ですが、正直ぼくには何がいいのかわかりません。どこがいいのか教えてください。

 ところで小冊子のほうを読んで、びっくりしたことがありました。翻訳者ジョルジョ・アミトラーノが、須賀さんを文学者チェーザレ・ガルボリに引き合わせたときの話です。


その夜、ジュゼッペ・レオネッリというイタリアの評論家も含めて四人でレストランに行って食事をし、ガルボリさんは、普通親しい人にしか語らない、自分の人生のいろいろな話をしました。


 ジュゼッペ・レオネッリ??どっかで聞いたことあるような…。あ!これおれの大学の文学批評の教授やん。というわけで久しぶりに大学に赴いてDVD片手にお話ししてきました。「須賀敦子ってイタリア研究者知ってますか?」というぼくに対しレオネッリ教授はたいへんうれしそうに、須賀さんについて語ってくれました。「敦子とは4日間くらいしかいっしょに過ごしてないけど、とても温かい人柄だとすぐにわかった。まだ話はじめて間もないのに、ずけずけと相手の心に入り込む話し方だった。ナタリア・ギンズブルグにも似た印象を受けたよ」とのことでした。美文も日本での絶大な評価もいまいちピと来ないぼくですが、楽しそうに喋るレオネッリ教授をみていて、須賀さんはここまでイタリア人の心をつかんでいたのか、と恐れ入ったのでした。イタリア人と話すとき、知り合うとき、外人である自分がどこまで相手の心の奥に近づけるか、ということは本当に重要で、難しいのです。(それはもちろんどの国籍でもそうなのでしょうが。自分の経験から話をしています)というわけでレオネッリ教授と話してようやく少し須賀さんの偉大さがわかったのでした。