見えないものたちの踊り/シルヴァーノ・アゴスティ
¥1,890
Amazon.co.jp

 ぼくも翻訳に参加させていただいた「見えないものたちの踊り」が昨年の11月に発売されました。電子書籍、およびオンデマンド書籍(受注生産のようなもの)のみなので一般の本屋では買えません。なんでも売り上げがある一定数に達したら一般書籍として流通するそうです。翻訳したからには普通の紙の本になってほしいです。というわけで宣伝です。


 ローマ、バチカン市国の最寄り駅、オッタビアーノで映画館を経営する映画監督シルバノ・アゴスティさんの短編集です。この人は自分の映画を有名にしたくないといって自分で映画館を経営しているむちゃくちゃな人で、むちゃくちゃすぎて「大丈夫かいな…」と引いた目で見てしまう部分があったのですが、翻訳の質問のために何度か映画館にお邪魔するうちに「うーん、この人はすげえな」と見なおすことになりました。


 「学校は子供から人間らしさを取り払う悪しき制度」、「働きすぎると生産性が下がるので1日3時間しか働いてはいけない」など、極端な意見をだれかれかまわず言い放つ。「あんた映画館で3時間以上働いてるやん」とつっこみたくなるけれど、それでも自分の考えにいつでもブレがないところはすごいと思う。頭のネジが1本どころか、4,5本はずれてないとこうはなれない。そう感じさせてくれる人です。


 ちなみに彼と話していて印象に残っている出来事がひとつあります。ある日いつものように会いに行くと、切符カウンターに立つ彼に突如として「彼女はいるのか?」と聞かれました。「日本にいる」と答えると、「なぜイタリアでもつくらない」と叱られたのでした。曰く「彼女が一人しかいないなんて、本を一冊しか読まないようなものだ」。言われたときは相変わらずの奔放な発言だと思ったけれど、後で反芻してみると、「面白い例えじゃないか」と手を打ったのでした。世の中には同時に複数の本を読む人もいれば、読む本がなかなかみつからないときだってある。難解すぎて読むのを投げ出したりもする。結婚相手となると、さしずめ幾度となく読み返す「人生の書」といったところでしょうか。会う回数を重ねると、アゴスティさんのむちゃくちゃ発言にも納得してしまうことがあるのでした。

乗り物でどこかへ行く場合、具体的には特に、ローマのテルミニ駅から他の町へ向けて電車に乗る場合、それがたとえフィレンツェ、ナポリといった比較的に移動距離が短くてすむ他都市であっても、旅をするような感覚になる。そして、旅の幕開けたる「電車に乗る」という行為は、極めて重要な意味を持ってくる。
 シュミレーションしてみよう。自分の家からフィレンツェ行きの電車が出ているテルミニ駅まで、バスと地下鉄で約一時間。さらに身支度の時間を計算に入れて起床する。バスの本数はなかなか少ないので、もし十分、二十分と家の前のバス停で待たなければならない羽目になると、当然電車を逃す恐れが出てくるので、イライラしてくる。ちなみにバスや地下鉄に乗る時は、電車に乗ってフィレンツェに行くときのような旅の感覚はない。一つに、それが移動距離に比例するものだからだろう。これがもし飛行機で海外に行く場合にでもなると、家から空港までかかる時間を計算するどころか、二時間前にはチェック・インしなければならないし、宇宙旅行に行く場合は一週間前にチェック・インして健康診断と無重力に慣れるトレーニングが行われるといった具合だ。だが、テルミニ駅で陥るあの感覚は、移動距離だけでは説明がつかないように思われる。もう一度シュミレーションに戻ってバス停からコマを進めてみよう。
 ようやくやってきたバスに乗って地下鉄の駅に向かう。地下鉄に乗ってテルミニ駅に到着する。駅に到着したからといって、すぐに電車に乗れるわけではない。入り組んだ、特に現在(2011年4月)は工事中の地下鉄駅を這い出るように地上に出る。ときには、エスカレーターが故障しているので、地上に出るのにさらに時間がかかる。地上に出ると、準備の悪い私は、今さら自動販売機でフィレンツェ行きの切符を買う。巨大な駅構内には、かなりの数の自動販売機が整然と並んでいるのだが、時間によってはすべてが使用中で待っている人の列に並ばなければならない。自分の番が回ってきて、自動販売機のモニターと格闘するように急いでフィレンツェ行きの切符を買おうとするのだが、これも、モニターの画面が切り替わるのを待たされたりだとか、そう易々とことが運ばない。ようやく切符が買えたので、今度は刻印を押さなければ。やはり自動刻印機もかなりの確率で壊れている。正常稼働中の刻印機をさがしてホームをフラフラさまよっている内に電車が出発する時間だ。間髪刻印を済ませ電車に駆け込む。水とちょっとしたお菓子でも買いたかったのだが、そんな暇はなかった。
 と、これが私の電車に乗るときによく起こりうるパターンだ。自分が慣れっこになっているのと、毎回起こりうるのにそれでも予測していなかった出来事が相俟って、かなり焦燥している。その中で任務を遂行する(つまり電車に間に合うように乗る)自分の果敢なふるまい。むかしある友人Mが好みの女性のタイプを聞かれて、「出発しそうな電車に走って間に合おうとする女の子」と答えた。これはまた違う友人Mの「出発しそうな電車を歩いて見逃す女の子」という答えへのアンチだったのが、要は、果敢に突き進み物事に対処するアアゾネスか、ゆっくりと流れに身をまかせ危うきに近寄らない君子の違いだろう。アマゾネスを旅の伴侶にした場合、かなりの冒険が期待される。つまりぼくは、自らの果敢のふるまいにより、旅への感覚を鼓舞していたのだ。

そして旅する人々が行きかう駅というやつは、ときに人生の歩みに喩えられるようだ。各々が自分の目的地に向かって、あっちに行ったりこっちに来たり。さらにホームのベンチに腰を下ろしたまま微動だにせぬ乞食なども、一つの人生の象徴なのかもしれない。ルイージ・ピランデッロの戯曲に『口に花をくわえた男』(L’uomo dal fiore in bocca)というのがある。今回はこの作品を紹介しようと思って電車に乗る話を導入したのだが、うまくつながりが持てず、破綻してしまったといえよう。
最終電車を逃した一人の男が、駅近くのバールで時間を潰している。そこにあらわれた花男。何気ない会話をはじめたとみせかけて、病に冒された自分の狂気を吐露していく。ここでは、人が流れゆく駅と閉まることのないバールが生の継続として、主人公と対比して用いられている。そしてクライマックスで放たれる花男の名ゼリフ。

 もしも死が、ああ友よ、あの気色の悪い小虫だったとしたら。誰かが何気なく背中についているのをみつけてくれるなら…あなたは道を歩いている。そこを通りかかった人がふとあなたをとめる。慎重に二本の指をのばしながらあなたにこう言う。『すみません、いいですか? 麗しきシニョーレ。背中に死がついていますよ』。そして二本の指でそれをつかんで、捨ててしまう…どんなに素晴らしいことだろう!

 さあここ、ご覧ください。ひげの下です…スミレ色の茎がお見えになりますか? これ、なんという名前か知っていますか? あー、とても甘美な名ですよ…飴玉よりも甘い名前。エピテリオーマ(上皮にできる腫瘍)です。どうぞその言葉を口にして、口にしてください…その甘美さがおわかりになるでしょう。エピテリ‐オー‐マ…。死が、つまりですね? やってきたんですよ。私のもとに来て口に花なんかさして、言ったわけです。『よお、兄弟。これをやるよ。七、八ヶ月かしたらまた来るからよ!』


 ナンニ・モレッティの新作Habemus Papamを観てきました。Habemus Papamはラテン語で「わたしたちは教皇を持っています」というコンクラーヴェの後に教皇が決定したときにされる宣言の言葉です。このシーンも実際の場面をかなり忠実にコピーしていてなかなかよかったです。トレイラーを見たぼくの友達は、教皇が決まる場面なので、たくさんいるべきはずの観衆のエキストラが少なすぎと指摘していましたが…。
 いいんです、それは。モレッティ映画の醍醐味はその絶妙のシニカルさにあると思います。だから映像がどうとか、素人のぼくはあまり興味がいかない。本作のストーリーは、世界中から集まった司祭たちの中から教皇に選ばれた主人公が、その重圧に耐えられず、聖ピエトロ広場一面に集まった信者たちの前で、自分が教皇であるという公式の挨拶ができなくなるほど精神薄弱状態になってしまいます。そこにやってきたのが、モレッティ演じる精神科医。(彼はいつもいちばん美味しい役を自分が演じますね!)診察を試みるも、なんら快方には向かわず、公式に教皇の宣言ができるまで外部との接欲は許されないということで、多数の枢機卿、司祭、衛兵とともに、ヴァチカンの建物内に閉じ込められてしまいます。そんな中教皇は一人外の世界に逃げ出して…。軟禁された医師は放つセリフの数々がまさにモレッティの真骨頂といわんばかりのシニカルさで、館内でも大きな笑いを誘っていました。
 全作に共通して思っていたのですが、やはりシナリオがしっかりしている。シニカルなセニフやシーンが最大限生きるようなシュチュエーションに物語を進めていくところがすごいなと思いました。ただ、近作はモレッティの最高傑作というわけではありません。なぜならHabemus PapamやCaimanoは扱っているテーマがでかすぎて、彼の気の抜けたシニカルさがかっちりハマらないからです。やはり青年の無為な生活を描いたEcce bomboなど初期のもののほうがよかったなあ。

週間イントラモエニア
 2010年もっとも心を震わされたのは次に挙げる二冊である。この二冊は、昨年の十月末、エーコ、マライーニ、タブッキ、アンマニーティ、サンドロ・ヴェロネージなどの新作と同時期に発売されたのだが、私の中では他の追随を許さぬほどに輝きまくっていた。ちなみにどちらも購入したものの未読なのだが、心を震わされたという事実には相違ない。それほど現在イタリアで力のある作家なのだ。


 一冊目はアレッサンドロ・ピペルノのPersecuzione(迫害)。ローマ第二大学トルベルガータでフランス文学を教えるユダヤ系イタリア人のピペルノ。先日のLibri comeというイベントで新作を発表したばかりのジョナサン・フランゼンとの対談で、一人でしゃべりすぎるものだから、観客から非難を喰らってました。それくらい博識で文学通なんですね。2005年、ローマの上層階級ユダヤ人の世紀にわたる生活を描いたCon peggiori intenzioni(最低の印象で)で小説デビューしてすぐさま成功を収めたピペルノ。今回は幼児がん治療に携わり、一定の地位がある48歳の主人公が、性的スキャンダルに巻き込まれ、家族たちとの軋轢が生まれていく…みたいな感じの超大作。前後篇で、後篇は今年もうすぐ発売のはずですね。後篇が出たらインタビューしたいなあ。


週間イントラモエニア
 もう一冊はアンドレア・バヤーニのOgni promessa(すべての約束)。バヤーニはローマ生まれでトリノでジャーナリストをしている新進気鋭の作家です。去年も取り上げたっけ?? 2011年明けて時間がたったものだから、なんと本作でバグッタ賞を獲得しました。おめでとう! 内容は夏休みに入った最初の日、妻のサーラが一枚の書置きを残して、姿を消す。そこに書かれていたのはロシアに遠征した退役軍人の祖父の死を告げるもの。主人公のピエートロは、妻を捜すとともに、祖父に起こった当時の事件も解き明かしていく…みたいな感じだと思います。イタリアとロシアの戦時中の関係って日本人からしてみればかなりなじみ薄いものなので、とってもおもしろそうです!

 先に言っておくと、今回が最後じゃなくってもう一回続けます、2010年の振り返り。というのはどうしても語っておきたいこの人のことを思い出したからです。ストレーガ賞を受賞したアントニオ・ペンナッキ。その受賞作の『ムッソリーニ水路』(Canale Mussolini)です。ローマの南東に位置する大きな沼を開拓したムッソリーニと、彼を信奉してその沼のある地方に移住してきた北部の貧しい家族。その開発事業やら、史実やら、当時の環境やらが事細かに記述された大作で、要するにムッソリーニとファシズムも当時の下層階級からすればヒーローである。人間の歴史の中に悪は存在しない。というところでしょうか。この物語を読んでして、安直に連想してしまったのが印旛沼を開発しようとした田沼意次です。開発して産業を活発化させようとすると、いつでも悪者扱いになるのか。


週間イントラモエニア
 著者のアントニオ・ペンナッキは五十歳まで工場員をしては、出版社に自作の小説を持ち込んでいたそうです。初めて脚光を浴びたのが、共産主義の兄とファシズムの弟が主人公の『ファッショコムニスタ』。こちらは映画の原作にもなりました。まさにイタリア版プロレタリア文学作家じゃないですか。でも極右運動団体Casa Pound直営の本屋Testa di ferro(アイアン・ヘッド)のショーウィンドウに『ムッソリーニ水路』が飾られたのを見たときは、ショックだったなあ…。おまえら、なんでもいいんかい!と。

 今年は賞もとって絶好調のペンナッキさんは年末にももう一冊出しました。ラテルツァの文庫(?)サイズのシリーズContromanoから『チルチェオのハイエナ』(Le iene del Circeo)です。この作品ではチルチェオの洞窟に原始人の頭蓋骨を持ち帰ったハイエナの謎を追う、古代歴史ミステリー。ペンナッキの幅の広さをみせてくれました。


週間イントラモエニア