ドゥルーズのカフカ論か何かで批評とは作品を「使い道のわからない機械」として見て「新しい使い方」を提示すること。というようなことが書かれていたように思う。例えばコップがある。そのコップをコップとして使ってもいいけど、帽子にしても椅子にしても文鎮にしてもトンカチにしても話し相手にしてもいい。あるひとつのたとえば小説を、入り口も出口もわからない謎の機械と見なし、腕を突っ込んでみたり葉っぱを載せてみたり筆でくすぐってみたり蟻を這わせてみたりする。そして思いもよらない反応を引き出し作品を全く別のものへと変態させてしまう。そんな批評行為。例えばまゆゆの顔がある。それをラミレスに似てるとか板東英二に似てるとかクマムシに似てるとか別の顔を重ね合わせる。するとまゆゆの顔が全く別の意味を帯始める。まゆゆに重ね合わされる7兆の顔。もはや世界は君の知る世界ではない。例えばさっしーを川越シェフと似てると考える。さっしーの顔と川越シェフの顔が柔らかく重ね合わされてアハ体験の間違い探し映像のように変幻して行く。行きつ戻りつを無限に飽くことなく繰り返すのだ。精神と物質が、対象と意識が混じり合わされる。そこでどこからともなく聞こえてくる音。それが音楽なのだ。従来の音楽は音楽ではない。あるいは音楽は音楽ではない。音楽は極限の無音状態を吹きすさぶ金属の暴風だ。圧殺される無意識の色のない火炎だ。今すぐジャポニカ学習帳を破り捨て、金魚に餌を与えるのだ。
指摘したばっかりに消滅してしまう事がある。3つ例を挙げたい。まずは『はなまるマーケット』での岡江久美子の行進。これは番組スタート時だか、比較的早い時期に視聴者から送られてきた葉書に「番組オープニングでの岡江さんの「行進」がかわいい」と書かれており、それが番組のオープニングトークコーナーで紹介されたのだ。その後岡江久美子さんの「全力行進」は見ることは出来なかったのではなかろうか。「行進」とはオープニングトーク終了後、岡江さんが「はい、それでは今日も、はなまるマーケット、オープン!」と元気に言った後に席に向かうまでの移動、その歩行、その運動、に、おいて、「行進」のような肉体の躍動を魅せる。それが「かわいい」と指摘されたのだ。それは賞賛なのだが、おそらく照れた岡江さんはその後「行進」を「封印」することとなってしまったのだ。ふたつ目の例は織田裕二のものまねをする山本高広だ。これは織田裕二が世界陸上の司会で見せるハイテンションを山本高広がものまねしたのだが、その後、織田裕二はそのハイテンションを抑え込んだ司会に徹することになったのだ。3つ目の例はキンタローの大島優子のものまねである。大島優子が『ヘビーローテーション』のオープニングで「ワンツースリーフォー!」と叫ぶのだが、このものまね以後意識したのかいささか声に「迷い」が生じてしまったのだ。以上の例は社会的には別にどうでもいいと言えばどうでもいいものであるのだが、特に悪意があるわけではなく、どちらかと言えば、というかむしろ「好意」の「指摘」、「視線」が、その対象を消滅させてしまうというのは、なかなかに深いというか深刻な事態なのではなかろうか、それはなにか見るものを石にしてしまうという神話やさわるものを石にしてしまうとか金にしてしまうという物語を想起させる。これは告白したばっかりに壊れてしまう友人関係とかプロデューサーや編集者やコーチにいじられてダメになってしまうアーティストや作家やアスリートにも似た話なのだろうか。しかし「人間万事塞翁が馬」で、何が幸いするかわからないし、究極的には何が「成功」かはわからないかもしれない。しかし「よいもの」を維持しようとか「よいもの」を生み出そうとか、より「よいもの」にしようというのは微妙ではかない世界のようにも思うが、一方で強靭で確実なものもあるようにも思う。とりあえず「夢は時間を裏切らない。時間は夢を裏切ってはいけない。」という言葉をもって唐突なとりあえずの終わりとしたい。
確かに「お笑い冬の時代」とでも言うべきものが存在していたような気がする。私は1971年生まれだが漫才ブームの記憶はある。それほど熱心なファンというわけではなかったが、世間の風というものは感じるものである。漫才ブームの頃はドリフが好きで、その後たけしファンになりひょうきん族を観るという、少々後追いなのである。しかし「お笑い冬の時代」というようなものが確かにあったような記憶がある。それはひょうきん族や夕焼けニャンニャンがやっていた80年代ではないと思う。ざっくり言って90年代が「お笑い冬の時代」だったのではないか?と思うのである。しかしめちゃイケやボキャ天があったのではないか?という意見もあると思うが私の印象では「冬の花火」である。誰かがモーニング娘。は「アイドル冬の時代に咲いた一輪の向日葵」と言ったが、そんな印象である。森高千里や浜崎あゆみや安室奈美恵も「アイドル冬の時代」の変種的アイドルという見方もできるだろう。モーニング娘。も私から見ると80年代の「ザ・アイドル」からすると「アーティスト的」な「雑じり気」を感じるものである。「純粋アイドル」という観点からすればである。ただし「アーティスト性」はかならずしもマイナスではないしモーニング娘。の楽曲やパフォーマンスは素晴らしいと思うし、モーニング娘。を純粋なアイドルとして観ていた、観ている人も大勢いるようだ。具体的にはさっしーやゆきりんの存在だが、正直当時はモーニング娘。を「純粋なアイドル」とは認識していなかった。当時の風潮として「アイドル」は「かっこわるい」「流行らない」という世間の認識がありレコード会社や事務所も「アーティスト的」に売り出す。売り出さざるを得ないという事情があったのかもしれない。80年代後半から90年代初頭のバンドブームとバブル崩壊が何かを大きく変えたのであろうか。その「アイドル冬の時代」、アイドルは「アーティストの仮面」を被っていたと言えるかもしれないしアーティストへの転向を余儀なくされていたと言えるかもしれない。その流れは「パフューム」あたりでも残っていたのではないか。パフュームのブレイクは2008年だと思うが、本人たちの意識や受容のされかたはともかく「売り方」というかは「アーティスト的」な要素を多分に含んでいるだろう。しかしここまで考えてきてじゃあ山口百恵はどうなるのか、ピンクレディーやキャンディーズはどうなるのか、松田聖子はどうなるのか、という話にもなる。勿論彼女らの楽曲のクオリティの高さは否定できない。音楽的なレベルの高さとアイドル性は矛盾しない。しかし「アイドル冬の時代」は「アイドル性の隠蔽」の時代、アイドル不毛の時代は確かにあった記憶は確かにある。そして「人物」のアイドル性の他に「楽曲のアイドル性」というものもあるだろう。これは曲の「アイドルっぽさ」のことである。つまり楽曲にしろキャラクターにしろ「アイドルっぽさ」が大衆に嫌悪されていたような、拒絶されていたような時代が確かにあり、「芸能界」もそれに合わせて「アイドル臭」を消したり「アーティスト臭」を加えたりしていたのではないだろうか。私の目から見てはっきりと潮目が変わり始めたのは2010年代になってからである(アイドルの話)。言うまでもなくAKBやももクロの大ブレイクである。彼女たちはキャラクターも楽曲もアイドル全開である。時代の変化とは誠に不思議である。お笑いはどうか。お笑いブームと言われて久しく、ずっと昔からお笑いブームは続いていたように思えるがそんなことはない。勿論たけしもさんまもタモリもずっといたし、とんねるずもダウンタウンもウンナンもナイナイもいた。しかし寂しい、寒い時代は確かにあったように思う。先程も言ったと思うがざっくり言って90年代である。あくまでも私の印象だが、新しい「芽」、ブームの「芽」が出始めたのは2000年代初頭からの中川家やはねトびメンバーからではなかろうか。ドランクドラゴン、インパルス、ロバートなどである。彼らが停滞する時代を切り裂いた。ぶち破った。ついに出てきたという印象がある。その後の「お笑いブーム」ぶりは書き切れない。「アイドル冬の時代」「お笑い冬の時代」が遠い昔確かにあった気がする。しかし冬の時代アイドルも芸人も密かに牙を研いでいたのであろう。今も何かの冬の時代であり、どこかで誰かが見えない牙を研ぎ澄ましているのかもしれない。その牙がいつか時代を切り裂くのかもしれない。季節は止まっていないのだ。