指摘したばっかりに消滅してしまう事がある。3つ例を挙げたい。まずは『はなまるマーケット』での岡江久美子の行進。これは番組スタート時だか、比較的早い時期に視聴者から送られてきた葉書に「番組オープニングでの岡江さんの「行進」がかわいい」と書かれており、それが番組のオープニングトークコーナーで紹介されたのだ。その後岡江久美子さんの「全力行進」は見ることは出来なかったのではなかろうか。「行進」とはオープニングトーク終了後、岡江さんが「はい、それでは今日も、はなまるマーケット、オープン!」と元気に言った後に席に向かうまでの移動、その歩行、その運動、に、おいて、「行進」のような肉体の躍動を魅せる。それが「かわいい」と指摘されたのだ。それは賞賛なのだが、おそらく照れた岡江さんはその後「行進」を「封印」することとなってしまったのだ。ふたつ目の例は織田裕二のものまねをする山本高広だ。これは織田裕二が世界陸上の司会で見せるハイテンションを山本高広がものまねしたのだが、その後、織田裕二はそのハイテンションを抑え込んだ司会に徹することになったのだ。3つ目の例はキンタローの大島優子のものまねである。大島優子が『ヘビーローテーション』のオープニングで「ワンツースリーフォー!」と叫ぶのだが、このものまね以後意識したのかいささか声に「迷い」が生じてしまったのだ。以上の例は社会的には別にどうでもいいと言えばどうでもいいものであるのだが、特に悪意があるわけではなく、どちらかと言えば、というかむしろ「好意」の「指摘」、「視線」が、その対象を消滅させてしまうというのは、なかなかに深いというか深刻な事態なのではなかろうか、それはなにか見るものを石にしてしまうという神話やさわるものを石にしてしまうとか金にしてしまうという物語を想起させる。これは告白したばっかりに壊れてしまう友人関係とかプロデューサーや編集者やコーチにいじられてダメになってしまうアーティストや作家やアスリートにも似た話なのだろうか。しかし「人間万事塞翁が馬」で、何が幸いするかわからないし、究極的には何が「成功」かはわからないかもしれない。しかし「よいもの」を維持しようとか「よいもの」を生み出そうとか、より「よいもの」にしようというのは微妙ではかない世界のようにも思うが、一方で強靭で確実なものもあるようにも思う。とりあえず「夢は時間を裏切らない。時間は夢を裏切ってはいけない。」という言葉をもって唐突なとりあえずの終わりとしたい。